第30話 ボクが彼氏だから
透くんの私立受験の日は、とてもとても寒い日だった。雪が降らない分、寒さが直接身にしみる。
「柿崎くん、今日は私大でしょう? 受かるといいね」
お母さんが、わたしの受験のときのように心配していた。
「いってきます」
かなり仕事より早い時間に駅に向かう。まだ改札に入ってないといいんだけど……。
「凪、こんな時間にどうしたの?」
「あのね、お弁当作ったの。荷物、増えて困るかなぁ?」
「素直にうれしい」
早起きしてよかった、と思う。
「水筒、熱いコーヒー入ってるから気をつけて飲んでね」
「うん、気をつけるよ」
目が合って、離せなくなる……。
真っ直ぐな瞳は、わたしを動けなくする。
「終わったら連絡するから」
「わたしが仕事終わる方が後じゃない?」
「どっちにしても連絡する。だからあまり心配しないで」
ホームに電車が来るアナウンスが流れて、透くんは右手を軽くあげて行ってしまった。
わたしだったら私大のチャレンジ校受験なんて高いハードルにしか見えない。受ける前から腰が引けてしまう。
透くんは自信があるんだなぁ。電車に乗るときも迷いなく、すっと乗ってしまった。……あんなに勉強したんだもの、当たり前なのかもしれない。
電車が透くんを乗せて走っていくのを、見えなくなるまで見送った。
「高校生クン、今日は試験なんでしょう?」
「あ、はい。よくご存知ですね?」
「この間、凪ちゃんがいないときに来てね、難しい顔して参考書見てたよ。やっぱりプレッシャーかかるよね」
開店前の清掃作業中に、櫻井さんが喋っていった。プレッシャー……かかっても当たり前だけど、わたしの前でそんな姿、見せたことはない。
「それは凪ちゃんには見せないよ」
「なんでですか?」
「男ってそんなものでしょう?」
櫻井さんは今日はアラビアータを食べている。
わたしはナポリタン。何でもいいような気持ちだった。
「高校生クンに話しかけたんだよ。緊張するよなって。そしたら、『はい』って、苦笑いしてたよ。それで今日、試験だって聞いたんだよ」
「……」
ミニサラダのプチトマトをフォークで刺す。ぷちっと音をたてたような気がした。今日のわたしの心みたいだ、となんの理由もなくそう思う。
「ま、あの子はしっかりしてるみたいだから、凪ちゃんがそんなに心配しなくても大丈夫だよ。やり遂げると思うよ」
櫻井さんに気がつかれないように、小さくため息をつく。そういうところ……頼もしいのかもしれないけど、本音を言って甘えてほしいなぁなんて、わがままなのだろうか? わたしには何の力もないかもしれないけど、話くらいは聞けるし……。
この間の、わたしの辞職の話、重かったかなぁ、と思った。面倒な女だと思われたかもしれないし、重いと思われたかもしれないし。どちらにせよ相談などしようと思わないだろう。
「凪ちゃん? 大丈夫?」
「ごめんなさい」
つーっと、一筋だけ涙がきれいに真っ直ぐ線を引く。頭の中がぐちゃぐちゃになって、物事がよくわからなくなる。
「早退してもいいんだよ」
「申し訳ありませんでした。……薬、飲んだので大丈夫だと思います。驚きましたよね?」
わたしはまつ毛を伏せた。
「驚いたかと言われたら驚いたけど、凪ちゃんを採用する時にその事は聞いてたから、いいんだよ。辛かったら、明日のために帰るといいよ」
少し、考える。
帰るのは他の従業員の方に申し訳ない気がする。でも、確かに帰った方が気持ちは落ち着くかもしれない。
「櫻井さん、わたし、早退します。明日がんばらせてください」
頭を下げた。
「凪ちゃん、高校生クンとつき合うの、辛いの?」
「いえ……その、前の学校を辞めた時のことを思い出してしまって」
「ゆっくり忘れなよ。ちゃんと体を休めてね」
ロッカーに行くと、通知が入っていて彼の帰ってくる時間が送られてきていた。
ホームに電車が入ってくるのを駅で待つ。みんな、カードを使って次々と改札を抜けてくる。人混みの中程に透くんを見つける。わたしは彼からよく見えるところで彼を待った。
「凪! 仕事は?」
「抜けてきたの。櫻井さんに試験の日、教えたでしょう?」
「あー、うん」
透くんの表情は暗かった。どう声をかけていいのかわからないくらいに。
「やっぱ、国立と両立して受かるほど、Y大は簡単じゃないね」
「……そんなに簡単に受かったら、透くん、遠くに行っちゃうもの」
そっと繋いでいた手を離して、彼の手がわたしの頭を抱く。
「行かないよ。だって1人にしておけない。凪は危なっかしいからさ」
「……わたしのほうが年上なんだよ?」
「ボクが彼氏だから」
今更ながらときめく。つき合い始めてもう4ヶ月近いのに、まだそんなことに慣れない自分が、まるで高校生に戻ったように思える。
……彼に頼られたいんじゃなくて、わたしは彼に頼りたいし、甘えたいんだ。年上ぶってたけど、わたしにとって透くんはひとりの男性なんだと気がつく。
この温もりを、大切にしたい……。
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