3.9 お兄ちゃんも人が悪いね

 イスパニア随一の歴史を持つ街、それが王都だ。

 近年の人口増加に対応するため、王都西部では高層マンションや大規模商業施設の建設が進む一方で、それ以外の旧市街地と称される区域では景観の保護という名目のもと、再開発の手が入らないままになっている。

 そのような区域では家々が密集し、複雑な小道を形成する区域が多い。王都で人生の半分近くを過ごしているシドも、それらの裏道まできちんと把握しているかと聞かれてしまうと、正直自信が持てない。

 逃走犯が逃げ込んだのは、その中でも入り組んだ路地が特に多く見られる地域である。大型車両が入れないから捜査員が自らの足で追っかけるしかないのだが、【加速】魔法を使う犯人は機動力が段違いであり、追い詰めては逃げられる、その繰り返しである。空からも追いかけてはいるが、犯人が時折家々の屋根伝いに隠れて動くものだから、常に捕捉できているとはいい難い。

 イヤホンから聞こえてくるアンディの指示に従い、捜査員とともに犯人を追いかけ始めたシドは、まずは相手の魔法の観察に集中した。

 呆れるくらいによく動く、落ち着きのない犯人である。ただ、落ち着きがないのは動きだけで、追い詰められても慌てることなく切り抜けるあたり、思考は至って冷静と見える。

 常にステップを踏み続け、捜査員が延ばした手をひらりとかわして一撃を叩き込んだと思ったら、次の瞬間には大きく距離を取っている。本家ほどではないにせよ、動き自体は「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と称された往年の名ボクサーカシアス・クレイを髣髴とさせるものだ。構えがこなれているあたり、本当にボクシング経験者かもしれない。

 彼の【加速】魔法自体は決して特筆すべきものではない。単純に速さだけでいったらローズマリーのほうが圧倒的に上だろう。だが、飛んだり跳ねたりと動きは実に身軽だし、加減速も自由自在だ。捕らえようと手を伸ばしたら紙一重でかわされたり、こちらが引いたところに合わせて距離を詰めたりと、こちらをおちょくって苛立たせ、思わず手を出したくなるような動きを織り交ぜてくる。


「どうだいセンセイ、なんとかなりそうかい?」

「やってみないことにゃわからねーよ。向こうの魔法はある程度見えてはいるけど、慎重に行くぜ」

「少しは大胆さを織り交ぜてくれてもいいんだよ?」


 シドが慎重になるのも無理はない。逃走犯の繰り出すパンチを食らった捜査員は例外なく、苦悶の表情とともに地面に転がっている。威力もさることながら、狙いがあまりにも正確なのだ。

 でも、相手はシドの【防壁】を知らない。

 格闘戦の技能では相手がずっと上手だが、急所を狙った正確なパンチを【防壁】で受け止めた瞬間なら、五分と五分に持ち込めるはず。

 犯人を含めた周囲の全員に気取られぬよう、シドは【防壁】と【加速】魔法を展開する。


「久しぶりにパンチを打ったけど、案外ちゃんと体が動くもんだな」


 ひとしきり捜査員をぶっ飛ばしてご満悦なのか、逃走犯は余裕の笑みを浮かべ、遠目で状況を観察していたシドに話しかけてくる。


「お兄ちゃん警察の人かい? 見たところそうにゃ見えねぇけど」

「見かけによらないのはお互い様だろ? あんたも、とても政治家を襲う人間には見えねーよ」


 違いねぇな、と犯人は笑う。

 逃走犯はスーツ、シドもチノパンにジャケットと、傍から見たらサラリーマン同士が時候の挨拶をしているようにしか見えない。だが、互いの醸し出す雰囲気は穏やかさとは程遠い。


「警官に囲まれても拳銃を引っ込めたままとは、余裕だな」

「鉄砲は弾に限りがあるけど、こっちにゃ制限も何もねぇからな」


 逃走犯は脇を締め、拳を軽く握りしめる。


「こうなっちまった以上、俺にできることは逃げる、もしくはあんたをぶっ飛ばしてから逃げ出す、くらいか。どっちにしろ逃げることに変わりはねぇけどな」

「……やれるもんならやってみろ」


 言い終わる前に、シドは【加速】で一気に逃走犯との距離を詰める。


「遅ぇ!」


 シドが全力で振り抜いた右の拳をくぐり抜けた逃走犯は、返す刀で鳩尾を狙った鋭い一撃を繰り出す。

 タイミング、威力、全て完璧。

 会心の一撃のはずだったが、拳に走る硬い感触に、逃走犯の顔に緊張の色が浮かぶ。見えない壁にパンチを止められたことは流石に想定外だったのだろう。そこへ間髪入れず、シドが左手を伸ばす。


「やっぱ速さはそうでもねぇな」 


 犯人は瞬きもせず、シドの動きを見切っていた。

 シドが伸ばした手を紙一重のところでのけ反ってかわすと、そのまま大きく後ろに跳んで距離を空ける。


「危ねぇ危ねぇ。お兄ちゃんも人が悪いね、不思議な技を使ってくれるじゃねぇの。こりゃ迂闊に近づけねぇや」


 余裕綽々の犯人とは対称的に、シドは悔しげに唇を噛む。

 途中まではほぼ狙い通りのストーリーを描けていたのに、最後の最後で相手にかわされた。シドに【防壁】があるとわかった以上、犯人はもう無理な攻撃を仕掛けず、逃げの一手に徹するはず。よほどの幸運が巡ってこない限り、真っ向から逃走犯を捉えることはおそらくできないだろう。


「魔法使い相手じゃちぃと分が悪ぃな。本気で逃げねぇとヤバそうだ」

「待ちやがれ!」


 【加速】で犯人との距離を詰めるシドだったが、犯人は完全にシドの動きを見切っているのか、ギリギリ手が届く外でひらひらと立ち回る。蜂の一撃を刺すことはないが、蝶のように軽やかな動きは相変わらずだ。


「遊んでやりてぇのは山々だが、長居してたら増援が来るだろうからな。この辺で失礼するぜ」


 その顔に憎々しいほどの笑みを貼り付けた逃走犯は、足がかりになるものがなにもないはずの壁に手を掛けると、ボルダリングよろしくスルスルと登り始めた。慌てて地面を蹴って跳ぶシドだが、振り上げた手は犯人の足首をかすめて虚しく宙を切る。

 平面的な動きですら互角以下なのに、こちらが全くの不得手とする高さ方向の機動まで交えられてしまっては、追いつくチャンスは限りなく少なくなってしまう。


 一旦引いて次の手を打つのが得策――。


 シドは即座に、アンディへの直通回線をつなぐ。


「アンディ、犯人を取り逃がした。作戦を立て直す。あと、怪我人が出てるから人をよこしてくれ」

「逃した? 何があったんだい、センセイ? それに怪我人ってなんだい、発砲の報告は入ってないよ?」

「事実だ。おたくの捜査員がパンチ一発で沈められた」

「元ボクサーの魔法使いが相手だとでもいうのかい?」

「あれだけ目がいいのも、格闘技経験者なら説明がつく。【加速】を使った俺の動きすら見切ってかわしやがったんだ。単に魔法使いってだけでできる芸当とは思えない。おまけに何の取っ掛かりもない壁を昇り降りする始末だ。あの野郎、高さまで利用して逃げにかかる気だぜ」

「気のせいかな、壁を登った、って言ったように聞こえたけど?」


 犯人が登っていった壁を、シドは為す術なく見上げる。何度確認しても、コンクリートの無機質な壁に、指先や爪先を引っ掛けられるような引っかかりは見当たらない。


「残念だがそのとおりだ。そこまでは俺も予想してなかった」

「犯人は魔法使い、ということで間違いないね、こりゃ。……マズイねぇ」


 アンディの苦い表情がシドの脳裏に浮かぶ。きっと今頃、指揮車の中はタバコの煙まみれになっていることだろう。


「センセイ、追跡と怪我人の救護に別の隊を充てる。一旦戻ってきてくれ」


 他の部隊に指示を飛ばすアンディの声をどこか遠くに聞きながら、シドは壁の上を、そしてその向こうに広がる美しい空を見つめたまま、しばし佇んでいた。

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