第5話 罪なき善人の願い
その日から、美沙子は信博に日常的に暴力をふるうようになった。
しかし暴力をふるってくる以外は、美沙子は普段と変わらなかった。
それに気づいたのは、出勤するのに玄関で靴を履いている時のこと。燃えるゴミの袋がものすごいスピードで飛んできて信博の後頭部に直撃したが、美沙子はその行為すら意識していない。信博をそのまま見送ろうとしてた。
「美沙子の暴力は、あいつを内心怒らせた時にやってくるんだな。そこだけ気をつければなんとかやり過ごせる。」
そうは思うものの、染み付いた信博の生活は、いちいち美沙子の暴力のトリガーとなった。
例えば、仕事から帰ってきてリビングに入る。
「おかえりなさい。」
の声とともに腹を膝蹴りされたかと思うと、引きずられるように洗面所に連れて行かれ、蛇口から出た熱湯で手を洗わされた。信博の悲鳴を冷静に眺めながら
「汚物は消毒しないとねぇ。あら、洗面所が水浸しだわ。」
と美沙子がつぶやくと、信博のネクタイをグイとつかんで洗面所を拭きだした。シルクでできたネクタイに吸水性はなく、水は拭けなかった。信博は情けない悲鳴をあげた。
「あぁ!そのネクタイは!!」
行きつけのキャバクラで誕生日プレゼントにキャバ嬢からもらったネクタイだったのだ。
「あら、そんなネクタイ。どこでもらったのかしらねぇ。」
美沙子はゾッとする目で信博を見つめた。何もかもが見透かされている。
信博はすごすごと、洗面所でスーツやシャツを脱いだ。以前、外を歩いた服でリビングに入ったことを咎められ、回し蹴りを食らわされたからだ。
信博はすっかり妻の顔色をうかがう生活になった。妻が信博の顔色をうかがい、暴力におびえていた生活がそのまま逆転してしまった。
そんなある日、信博が帰宅すると、リビングのソファに天使が腰掛けていた。まるでこの家の主人かのようにふてぶてしい姿にギョッとしたが、すぐに天使に噛み付いた。
「おまえ!おまえ!!騙しやがったな!!」
信博の剣幕を楽しむように、天使はニヤニヤしながらこう答えた。
「おまえの望みを叶えたろ?」
「あぁ!そうだ!だけど、美沙子は普通じゃない!」
「普通じゃない?俺にはお前がやってたことと何も変わらないと思うが。おまえが殴り殺されてない分、美沙子のほうがまだマトモかもな。ははは。」
「くそ!騙しやがって!!」
床を踏み鳴らしながら信博はわめきちらす。
「おいおい、おれは騙したわけじゃないぞ。実はお前の願いをかなえる前に、美沙子の願いをあの時かなえていたんだ。それがぶつかって、こんなことになっているのかもな」
「美沙子の願い・・・だと!?」
「言っただろう、いろんな人の願いを叶えているって。」
信博は天使の言葉を思い出した。
(罪なき善人の願いを聞きすぎて、少し疲れてしまってな。お前みたいな悪人の願いはどんなものか聞いてみたくなったからさ。)
「この女の望みはな。『夫に理解してもらいたい。』だ。」
信博は驚愕した。
「そんな、そんな望みだったのか。そうだったのか。美沙子。」
わけもなく気持ちが動揺する。暴力をうける側になって始めて気づく辛さ。気づけば下を向いて涙をこらえていた。
「どうした。」
「うぅ・・・殴られるのはつらい」
「そうだな。この女には力を与えたからな。無自覚で殴るようになっている。おまえがそうしていたようにな。」
「もう殴らない。もう二度としません。」
信博は土下座をして天使に詫びを請う。
「もう二度としませんから・・・美沙子を元に戻してください」
天使は思い出したように、信博に告げる。
「あぁ。美沙子にはもう1つの願いがな。『夫に無事に家に帰ってほしい。温かい家庭だと実感してもらいたい。』ちょうどお前に殴り殺される前に俺に伝えた願いだ。」
「うぅぅぅ」
信博は床に顔を擦り付けて泣いている。
「愛されているな」
人目もはばからず号泣した。
「実はこの願いはまだ叶えていないんだ。だから今からでも叶えないとな。」
天使は指先をパチンと鳴らせた。その顔は天使というよりも悪魔の笑顔そのものだった。
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