第四章 路地裏の歌姫



 私は私を問う為に


 私は私を負う為に


 私はここで歌い続ける





 金曜の朝、八時過ぎ。

 斉藤狼子の家を訪ねると、今日も男物らしい皮ジャケットを羽織っていた彼女から「ガレージの前で待ってろ」と指示される。上ってきたばかりの屋外階段を軋ませながら下り、ビルの前に立つ。

 しばらくするとシャッターが開いた。車庫だけではなく倉庫代わりにもなっているようで、壁沿いの収納棚には諸々のものが無秩序に置かれている。片隅にある竹刀や防具だけはしっかりと整理されているのが彼女が武道家である証左だと言えるかもしれない。

 ガレージの中央には白と黒のツートーンカラーの大型二輪があった。ロー&ロング、流線型のデザイン。大型スポーツクルーザーらしいが、こういった形ものはあまり目にしたことがない。ゆったりとしたシート周りもこの類の二輪車では珍しいだろう。

 「DN-01カスタム、だったかな」

 「え?」

 「コイツの名前。昔、報酬代わりに貰ったんだよ。元値がちょうど百万くらいだったんだが、何年も前のやつだから、あたし用に多少のメンテナンス? チューン? よく分からないが、そういうの込みで報酬として受け取った」

 どうやらカスタムバイクらしいが、何がどうチューニングされているのかは彼女も分かっていないようだ。残念ながら僕も乗り物には明るくない。装着されているサイドバッグに竹刀袋を仕舞えるようになっているが、これも改造の一つなのだろうか?

 出発の前に聞き込みの成果を説明しておく。

 「……あー、つまり直接訊くのが早いってわけだな」

 一通り耳を傾けて斉藤狼子が出した結論は僕と同じだった。

 そう、結局は直接会って話すのが一番早いのだろう。分かっていたことだ。伝えなければいけないことも色々ある。

 「じゃあ行くぞ。後ろ乗れ」

 準備を終え、バイクに跨った斉藤狼子が僕にヘルメットを投げ渡してくる。実は自動二輪に乗るのは生まれてはじめてだった。原付すら乗ったことがない人間からするとヘルメット自体が新鮮で、少し怖くもある。

 「あー、どっちでもいいが、高速入ったらしがみ付いておいた方がいいぞ。結構飛ばすから」

 エンジン音を響かせ始めた彼女が言う。後ろに乗っていた僕は思わず彼女の腰に手を回すも、「高速入ったらっつったろ」と笑われた。

 彼女がDにスイッチを入れると、ゆっくりと車体が動き始める。車道に出て、大通りへ。そうして型落ちだとは信じられないほど軽快に街を南下していく。やがて高速に乗ると、彼女は一気にスピードを上げた。

 ……はじめて乗ったバイクで何が一番印象に残ったかと言われれば、ヘルメットの窮屈さでも座席の座り心地の良さでも風を感じる気持ち良さでもなく、「腕から通して伝わる彼女の温もりとそれによって速くなる鼓動」と答えるしかないのが悔しかった。





 途中に休憩を挟み、東京には六時間強で到着した。飛鳥達、『フリーダム・ライダーズ』のライブが始まるのは午後七時。しばらく時間があったのでネットカフェの個室で休憩することになった。

 備え付けられたパソコンを点けた斉藤狼子はポータルサイトにログインし、メールボックスを開く。最新の一通をクリックして、何かの画像をダウンロードする。

 「情報化っていうのは素晴らしいね。大抵のことはネットで調べられる上、遠く離れた場所の優秀な情報屋とも簡単にやり取りができる」

 尤もあたしがやり取りしてる情報屋はこの街のファミレスにいるんだが、と付け加えて、ダウンロードし終わった画像を開いた。

 それは建物の図面だった。設備から考えるに、ライブハウス……だろうか?

 「お前のお友達がライブをやる場所だ。『フリーダム・ライダーズ』御用達のライブハウスらしい」

 「へえ。結構小さいものなんだな、ライブハウスって」

 「もっと小さいやつはいくらでもある。これはかなり上等な方だな」

 ライブと聞いて僕が連想するのは年末に芸能人が行う年越しライブだ。そういった音楽に大して興味がない層が思い浮かべるのは巨大なドームで歌うアイドルだろう。

 「あたしはライブと言や、路上ライブを連想するけどな。向こうじゃ本当に多い。地下鉄内でパフォーマンスし始める奴がいるくらいだ。……尤も、お前のお友達も、明日はどっかのデカい公園でライブするらしいが」

 「公園?」

 「若者主体の賃上げ要求デモがあるらしい。で、それにゲストとして呼ばれてるみたいだ。思った以上に人気らしいな」

 「……上手かったからな、歌」

 こんな状況じゃなければ、旧友の人気を素直に喜べるのだが。

 斉藤狼子は笑って言った。

 「へえ、そりゃ結構だな。今日の夜のライブも楽しみにしておこう」

 六時に起こせ、とだけ告げて彼女はパソコンの電源を落とし、眠りに着いた。

 手持ち無沙汰になってしまった僕は弥生ちゃんにメールで連絡しておくことにした。彼女の連絡先は知らなかったのだが、先日会った際、別れ際に訊いておいたのだ。

 これまでの経緯を纏めたメールを送ると、すぐに返信があった。

 『あさひくん、ありがとう。お姉ちゃんによろしく。気を付けてね』

 可愛らしい絵文字付きの文面だったが、彼女が心配していることはよく分かった。

 飛鳥に会ったらなんて言おうか?

 君の妹が、僕達が、どれほど心配しているのかをどうやって伝えればいいだろう?

 そんなことを考えながら目を閉じた。





 ネットカフェを出たのはすっかり夜も更け、とうに七時を過ぎてからだった。

 起きられなかったわけではない。僕達は飛鳥のライブを見に来たのではないのだ。わざわざ入場開始時刻すぐに行く必要はない。そう斉藤狼子は語ったが、僕としては久々に飛鳥の歌を聞きたかったので残念だった。

 道中のパーキングにオートバイを停め、そこからは歩きで移動する。うだるような暑さの中、ライブハウス前に辿り着いたのは八時前だった。パッと見は薄汚れたビル。相当な音楽ファンでもなければ、大都会の片隅、飲み屋とキャバクラばかりの裏通りの更に一本奥のこの場所でライブが行われているなんて気付きもしないだろう。総合ディスカウントストアが近くにあったので、それを目印に近くまでは来ることはできたのだが、随分と迷うことになった。

 ライブ会場は地下らしい。異常に傾斜のきつい階段をゆっくりと下りて、会場の扉の前へ。受付に座っていた若い女性二人はえらく長い布製の袋を携えた少女に面食らったらしかった。

 先んじて斉藤狼子が言った。

 「受付はここでいいのかい?」

 「は、はい……」

 「あたしはこの間まで北米にいてね。そこのロック馬鹿から薦められたんだ、日本にいいロックバンドがいるってな。……で、あたしが探してる『フリーダム・ライダーズ』ってバンドはいるのはこの奥かい?」

 受付の二人は顔を見合わせた後、嬉しそうに頷いた。自分の好きなものを褒められて嫌な気分になる人間はいない。細かなことはどうでもよくなってしまう。そんなものだ。

 「オーライ、随分と探すのに手間取ったが、そりゃ良かった。予約がなけりゃ入れねぇわけじゃねえよな? ……オッケー、最高だ」

 机に置いてあった入場券を二枚手に取った彼女は明らかに二人分の入場料より多い金額を受付嬢に渡し、「残りはチップだ」と笑った。洋画でしか見たことがないような言動に彼女が最近まで北米にいたというのは本当なのだと思い知る。

 そろそろクライマックスですよ、と教えてくれた受付嬢に手を振って、重い扉を開け、中に入った。

 音に吹き飛ばされそうになった――そう表現すれば衝撃は伝わるだろうか。大音量のバンドサウンドが、それに呼応する喧騒が、鼓膜どころか身体全体を揺さぶる。

 何よりも心に響くのは懐かしいハスキーな少女の声。こんな都会の片隅からでも暗い夜空を突き抜け星までも届きそうな、力強いシャウト。

 ―――飛鳥がいた。

 ステージの中央。夏の暑さよりも熱い歓声の中心。眩いライトに照らされ、ベースとドラムの真ん中に飛鳥は立っていた。服装がどれほど変わろうとその声だけは変わらない。

 僕の旧友、四条飛鳥がそこにいた。

 桃色のエクステとメッシュ、それに右目にある海賊のような大きな眼帯はあの頃にはなかったもの。チェーンだらけのファッションも冷静に見るとかなり奇抜だが、彼女にはよく似合っていた。

 「……アレがお前のダチか」

 「ああ」

 壁にもたれ掛かった斉藤狼子は琥珀色の目を細めた。ステージ前に集中する観客から距離を置き、入り口すぐの壁にもたれ掛かる。

 イメージしていたよりもずっと広い会場と、ずっと多い観客。出入り口の近くは立見席とでも言えばいいのか、一段高くなっている作りだったので狂乱しモッシュするファンの様子をよく見ることができた。

 僕は彼女の隣で食い入るようにステージを見つめ、加熱された空気の中で彼女のメッセージを読み取ろうと耳を澄ました。

 そうして僕は気付くのだ。

 何もかもを吹き飛ばすような激しいサウンドに乗っているのが、存外に悲しい言葉であることに。『死にたい、でも生きていたい』『何もない、けど希望が欲しい』――そんな当たり前過ぎる想いが、胸に突き刺さり、身体の芯を熱くさせていく。

 「……あれ、」

 でも、どうしてだろう。

 前よりもずっと上手くなっているのに。

 こんなにも盛り上がっているというのに。

 想いは目から溢れ出そうなほど伝わるのに。

 どうしてか――僕は、今の飛鳥の歌が好きになれなかった。

 「……なんでだろう……」

 どうしてだろう。

 何が気に食わないんだろう。

 この違和感はなんなのだろう。

 そんなことを考えている内に曲が終わり、ベースを弾いていた長髪の男がマイクに向かって叫んだ。


 『―――悪いな、今日は次がラストナンバーなんだ!』


 観客全員が漏らした落胆の声に男は笑い、続ける。


 『つーわけで、アンコールも今日はなし! 本当に悪い! でも、明日もライブやるから暇な奴は来いよ! 暇じゃなくても来い! 明日は野外だ!』


 歓声と拍手と口笛が入り混じる。

 もう一人の男がそれに応えるようにドラムを打ち鳴らし、それに呼応して男がベースを掻き鳴らす。


 『じゃあ我らがアスカに明日の意気込みを聞いておこう!』


 僕は飛鳥の方に目を遣る。

 彼女は真っ直ぐに客席を見つめ、マイクを握る。その瞬間にあれほどまでに吹き荒れていた喧騒があっという間に治まっていった。それが、今の飛鳥のカリスマの為せる業か。


 『―――ボクが言うことは、いつもと変わらない』


 静まり返ったライブハウスに飛鳥の声が響く。

 クールなのに熱く、臆病なのに勇敢で、一人でいたいくせに独りじゃ生きられない。

 そんな飛鳥の声が。


 『……自分を愛せ。誰よりも深く、誰よりも強く、誰よりも熱く――自分を愛せ。自分すら愛せない人間は誰も愛せない。何もできない。自分を大切にすることができない人間は他の何も大切にすることができない。だから、まず自分を大切にしろ。自分を愛せ』


 「だから自分を愛せ」。

 飛鳥は、語る。

 願うように、祈るように、望むように。


 『ボクがここまで言っても、自分を愛さないと言うのなら、自分を愛せないと言うのなら―――』


 一拍置いて飛鳥は囁いた。

 会場中の全員に――心に囁きかけた。



 『―――ボクが、お前達を愛してやる』



 ギターリフが爆発し、ビートが解き放たれたように奔流する。待っていましたと言わんばかりの観客が歓声を上げ足を踏み鳴らし、それら全てがユニゾンし、ここに集った人間の心を揺らす。そうして震える心がまた一つの楽器となって、大きな音楽になっていく。


 『というわけで最後のナンバーはいつものあの一曲、明日も演奏する――「プレカリアート」!』


 ベースの男がそう叫ぶと同時に飛鳥の歌が始まった。甘く切なく力強い彼女の声が空間を支配していく。

 「……行くぞ」

 肩を叩かれたのはその時だった。

 眉間に皺を刻み、狼の目を細めた斉藤狼子は明らかに不機嫌だった。行きには愛想良く接した受付の二人にもぞんざいに手を振っただけで、そのまま黙って階段を上り、ライブハウスを出た。

 それから近くの自販機の前に辿り着くまで彼女はずっと黙っていた。乱暴に小銭を突っ込み、ペットボトル入りの水を買ったところでようやく斉藤狼子は口を開く。

 「……お前の友達、上手かったな」

 「え?」

 「歌だよ。本当に上手かった、最高だ。ドアの辺りでCDが売ってたけど、うっかり買いそうになったくらいだぜ」

 正直、驚いた。会場に入った頃からずっと不機嫌そうな顔をしていたので、てっきり彼女は飛鳥の音楽を気に入らなかったのだろうと思っていたのだ。

 旧友の歌を褒められるのは嬉しいが、だとしたら疑問がある。何故彼女はこんな難しい顔をしているのか、という疑問が。

 「……上手かった。ああ、上手かった……」

 水を一気に飲み干して、そのままペットボトルを潰すとゴミ箱へと入れた。

 彼女が何を考えているのか、僕にはさっぱり分からなかった。飛鳥の歌を聞いて僕が感じた違和感も同じく分からないままだった。





 ライブが終わり、集っていたファンが解散する頃を見計らって、僕達は建物の裏へと回った。そこに関係者用の出入り口があることは図面で確認してあった。

 ただ、その通用口の前には二人の若者が立っていた。こちらは図面には記されていなかったもの。遠くの物影から様子を伺う。どう考えてもたまたまそこにいる感じではない。護衛だろう。多分、『OFR』の。

 「持ってろ。で、待ってろ」

 相変わらず妙に重い竹刀袋を手渡してくる彼女に僕は訊く。

 「ちょっと待ってくれ」

 「あー、なんだよ」

 「……まさか、殺すわけじゃないよな?」

 「なんだ、殺して欲しいのか?」

 「そんなわけないだろ。僕は飛鳥と話をしに来たんだ。それに……飛鳥が何か良くないことをするつもりなら、それを止めに。わざわざ大事にするわけにはいかない」

 琥珀色の目で僕を射抜き彼女は言った。

 「安心しろ、標的以外を殺す殺し屋は三流だ。標的を殺す為に誰かを殺す殺し屋は二流。一流の殺し屋は標的のみを殺す。……自衛の場合は別だがな」

 「でも、それは結局アンタの匙加減なんだろう?」

 「……なに?」

 「仕事じゃなければ力を使わないってわけじゃないんだろう、アンタは。自衛の為じゃなくとも、自分が使いたければ力を使う」

 「それは……それは、当たり前だろ。自分の力なんだ。私がどう使おうと私の自由だ」

 あの時、僕の仇を取ったように。

 斉藤狼子は誰に依頼されずとも、自分の意思で力を振るうことがありえる。

 きっとそれは彼女が殺し屋である前に武道家だからだろう。彼女は、自分が思うように――彼女の言葉を借りれば「何かを通す」ために、力を振るう。

 それは当然の権利。

 自分が持ち得た才能や勝ち得た能力をどう使うかは当人の自由だ。それには一定の理がある。

 ならば。

 「なら……僕と、契約しよう」

 「……契約?」

 「ああ、契約だ」

 僕は狼の目を正面から受け止める。

 目と目が合い、視線と視線、意思と意志がぶつかった。

 それはさながら鍔迫り合い。どちらも譲れず、鎬を削る。

 少なくとも僕は――譲るつもりは、ない。

 「僕は飛鳥と話をしに来たんだ。誰かが大怪我を負ったり、況してや死んだりして、話もできない状況になると困る」

 「それはお前の理屈だ」

 「そうだ。でもアンタを雇った弥生ちゃんの理屈でもある」

 「…………」

 犯罪件数を一気にゼロにする方法がある。それは刑法を廃止し、犯罪の取り締まり自体をやめてしまうことだ。社会問題でも同じだ。社会そのものがなくなれば問題も発生しなくなる。

 そして、恐らく斉藤狼子は同じことができてしまう。飛鳥の凶行を止めたいならば飛鳥を殺せばいい。『OFR』もそうだ。問題を起こす人間を全て消せば、問題は起こらない。

 だが、それで解決と言えるのだろうか?

 そんな解決を誰が望んだというのだ?

 僕が、弥生ちゃんが、四条飛鳥を知る人々が望んでいることは「彼女がまたあの街に帰ってくること」だ。

 その理想の為に――僕は譲れない。

 「だから、僕と契約しよう。契約料は百万。内容は『この一件が解決するまで、誰も殺さず、極力誰も傷付けない』。……この契約を僕と結んでくれ」

 斉藤狼子は頭を抱え。

 次いで、笑みを見せた。

 残忍で狡猾で、けれど高潔で精悍な笑み。

 まるで狼のような――微笑。

 「……面白いこと言うな、お前。労働者であるお前が、雇用主である私を雇おうって?」

 「アンタの名刺、アレ多分、紹介状代わりなんだろ。だからアレを持っている人間の話はとりあえず聞いてみることにしている。たとえそれが、小学生の女の子でも」

 「だったら?」

 「僕はアンタに名刺を貰ってる。だから依頼をする権利はあるはずだ」

 「ああ、そうだね。問題はないよ。それより威勢がいいのは結構だけど、払える当てはあるの? いくら私の名刺を持ってたって、金がない相手の依頼は受けないよ。知ってるよね? それともまたお前の理想論のお話でもするの?」

 「金ならあるに決まってるだろ」

 溜息を吐き、さも余裕そうに僕はこう返してやった。

 「アンタに貰った、前金の百万がある」

 「……ふ、ふふっ。はははははっ!」

 射干玉色の髪を掻き上げ、彼女は笑った。

 一通り笑った後、斉藤狼子は「いいよ」と呟く。

 「あー、面白い。殺し屋を始めて結構経つけれど、まさか金で『殺さないこと』を依頼されるとは思わなかったよ。あー、もう。本当に……最高だ」

 少女らしい言葉遣いで、年相応の可憐な笑みを見せて、彼女は言った。

 「……刻んだ。受けてあげるよ、お前の依頼」





 物影から飛び出していった彼女は二人の内の手前の一人、背が高い方に声を掛けた。二、三と言葉を交わした結果、交渉が決裂したらしく、男が怒号と共に腕を伸ばしてくる。

 瞬時に彼女は踏み込みながら上体を沈め相手の手の下を潜り、中段突きを決める。硬直した身体に鋭く肘を突き入れ、更に崩れ始めた相手の顎を払うようにして裏拳を決めた――ものの一秒ほどの攻防の結果として、大柄な男はコンクリートに這い蹲る羽目になった。

 呆気に取られていたもう片方の男は一拍遅れて殴りかかってくる。が、その拳はあっさりと払われ、彼女は攻撃を捌いた手で顔面に軽く裏拳を決める。それだけでは飽き足らず、右足で怯んだ相手の膝を刈り、態勢を崩したところで後ろに回り、そのまま絞め落とした。

 掛かった時間はおよそ十秒。その内、七秒間は頸動脈を絞めていただけなので、実質必要としたのは三秒ほど。僅か三秒で斉藤狼子は二人の男の意識を奪ってみせたことになる。

 改めて彼女が本物であると――本物の殺し屋なのだと思い知る。

 「もういいぞ、出てこい。……ったく、こっちは『ボーカルのアスカと知り合いだ』っつってんのに。乱暴な奴らだ」

 「傍から見ていた限りじゃ乱暴なのはアンタの方だが……。でも、本当に強いんだな」

 「今更分かったのか? というか、今のやり取り程度で分かったのか?」

 言葉遣いをいつもの荒っぽいものに戻して彼女は言った。僕は意味を一瞬計りかねも、すぐに理解する。頬が引き攣る妙な笑みが出た。つまり、「これくらいなら朝飯前」「実力の半分も見せていない」と言っているのだ。

 彼女の強さの片鱗はすぐにお目に掛かることができた。

 通用口の扉を開けた先には帽子を被った男がいたが、踏み出す瞬間を狙って足を払って床に倒し、そのまま相手の上に乗り襟を掴んで絞め落とす。

 廊下を曲がった先から登山用の杖のようなもの持った男が走ってくる。異変を察知してきたのだろう。棒を振り上げ襲い掛かってくるが、彼女はそのタイミングに合わせて素早く前に出て手首を取り、倒す。その後は同じように絞め落とした。

 警護の人間はこれで全員だったらしい。彼らにとっては幸いだっただろう。この調子だと、誰が出てきても地べたに転がされる人数が増えるだけだ。

 「最大限手加減しつつ、後遺症が残らない様にしたが、これで満足か雇用主様?」

 「手加減してこれなのかよ……」

 「手加減しなくていいならまず骨か関節を狙う。それに、一応剣士だぜ? 剣を持ってない時は戦闘力なんて三分の一以下だ」

 つーわけで、と手を出してくる斉藤狼子。竹刀袋を渡すと、中から一振りの木刀を取り出した。美しい白樫製の刀は彼女のイメージによく似合っていた。

 彼女はまた竹刀袋を僕に持たせようとしてくる。渋々受け取るが、変わらずかなりの重量がある。

 「……まさかとは思うけど、この中身って真剣か?」

 「まさかじゃなくてもそうだよ。そっちの方がいいってんならそっちを使うが」

 「冗談じゃない」

 時代劇じゃないんだ、真剣なんて使われると困る。木刀でも過剰なくらいだ。空手の状態であれほどまでに強いのだから。

 しかし何故、彼女はわざわざ今更武装をしたのだろう?

 僕がそのことを問う前に斉藤狼子は控室の扉をノックしていた。





 出演者控室。

 小学校の教室ほどの大きさのその部屋の中には四人の人間がいた。先ほどステージに立っていた三人に加え、もう一人若い男がいた。飛鳥の隣に控えるように立っていたのは紛れもなく、あの合場佐だった。

 最初に口を開いたのはベースの男だった。

 「……驚いたな。アスカの言った通りだ」

 飛鳥の言った通り?

 どういうことだ?

 

 「―――久しぶりだね、ヒサ」


 思考は彼女の一言に中断させられた。

 飛鳥だった。

 ステージが終わった後だというのにまだ眼帯とエクステを付けたままの彼女は、まるで昨日別れたばかりかのようにそう言った。

 「久しぶりって……! 確かに久しぶりだが……」

 「アキラ、後の片付けは頼む。ヨウジ、彼らがここにいるということは外のメンバーは怪我をしている可能性が高い。様子を見てきてくれ。必要なら他のメンバーに連絡して病院に運んでやれ」

 アキラと呼ばれたベースの男はへいへいと面倒そうに答え、ヨウジという名に反応したドラムの男は僕達を一瞥する。

 「安心しろ、全員気失ってるだけだ。打撲くらいはしてるだろうが」

 斉藤狼子の言葉にヨウジは舌打ちをし、僕達の隣をすり抜けて廊下へと出て行った。

 そうして部屋に残ったのは四人。

 僕達二人と、飛鳥と佐。

 「飛鳥。お前、」

 「……夜風に当たりたいな」

 と。

 僕の言葉を遮るようにして唐突に飛鳥が言った。屋上に行こうか、と。

 訳の分からないまま飛鳥の提案で屋上へと向かう。階段を上っている間、四人全員が無言だった。口火を切るとすれば僕からなのだろうが、まず「元気そうで良かった」という安心が先にあるせいで言葉が出てこない。将棋を指す時くらいにしか満足に回転しない頭を呪う。

 辿り着いた屋上で、飛鳥は鉄柵の脇に置いてあったベンチに腰掛ける。隣には佐。その二人に相対するようにして僕達は立つ。

 「……ヒサ。こういう時にキミは上手く言葉が出てこないタイプだったね」

 「……ああ、そうだよ」

 「だからボクから話そう――『心配して来てくれてありがとう、さっさと帰りたまえ』」

 「ッ! 飛鳥、お前……!」

 こっちがどんなに心配したと、とそう僕が言う前に彼女は機関銃のように言葉を紡いでいった。

 「キミがボクのことを心配して来てくれたのは分かっている。更に言えば、今はそこの斉藤狼子に雇われて働いていることも、彼女とは性格が合わないらしいことも、弥生から依頼を受けたことも、タスクの家やジムに聞き込みをしたことも知っている」

 「なっ……!」

 驚愕に目を見開いた。

 何故、彼女が。

 東京にいたはずの飛鳥が、そんなことを知っている?

 「大学の友人は若宮四季というんだね。仲が良いようで微笑ましい限りだ。キミはある意味でボク以上に友達作りが苦手な面があったから心配してたんだ。……ああ、言葉にする必要はないよ。キミはこう言いたいんだね? 『どうして飛鳥がそんなことを知っているんだ』って。答えは単純だよ。ボク達の歌のファンはキミが思っているよりも沢山いるってだけの話さ」

 僕は記憶を掘り起こし、よく思い出してみる。何処で何を話したのかを。

 大学の清掃員、居酒屋の店員、ジムに通っている高校生……。なるほど、それら全てが飛鳥達『フリーダム・ライダーズ』のファンであり、その情報網に組み込まれていたとしたら、頷ける。

 けれど、だとしたら『OFR』は並のカラーギャングの比ではない勢力を誇っていることになる。勿論、飛鳥のファンが一枚岩で全員が組織の一員ということはありえない。しかし、ただのファンという取り巻きを含めれば、飛鳥の支持者はとんでもない人数が存在しているのかもしれない。

 「飛鳥……。お前ら、一体何をしてるんだ? お前が弥生ちゃんに送ったメール、見たよ。『フリーダム・ライダーズ』に関する悪い噂も調べた。お前ら……何をするつもりなんだよ。いやそれ以前にどうして弥生ちゃんに会ってやらないんだ?」

 「せっかちだな、ヒサ。旧友との再会なんだ。少しは落ち着いて夜を楽しみなよ」

 飛鳥は空を見上げる。こんな真っ暗な空を見て何が楽しいのか分からない。星が見えるわけでもないのに。夜風は確かに心地良いから、それを感じているのだろうか。

 隣の佐の方はと言えば、慣れたように右手で取り出した煙草を咥え、ジーンズの右ポケットからライターを出して火を点けた。

 この状況でよくもそんな風にのんびりできるなと腹が立ってくるが、思えば高校時代からこの二人はこうだった。よく言えばマイペース、悪く言えば自分勝手だった。

 「で……キミの質問に対する回答だけど、まず弥生に会わない理由は『会いたくないから』だ」

 「会いたくないからって……!」

 「もう向こうに帰るつもりもないんだ。会う必要もない。可哀想なことをしている自覚はあるよ。これでも姉だからね。けれど、これも弥生を想ってのことだ。ボクのことを早く忘れられるように、って」

 「弥生ちゃんはそうは思ってないだろ! 僕も、隆平も……お前達のことを心配してる!また帰ってきて欲しいって!」

 「平行線だね。ボクは帰りたくない、でもキミ達はボクに帰ってきて欲しい……。解決策はどちらかが折れること。ボクとしてはキミ達に折れて欲しい」

 「そんな風に言われて、簡単に諦められるかよ。せめて、どうして帰るつもりがないのかを言えよ!」

 「その理由を言わないのが、キミが大切な友達だから、友達を巻き込みたくないから、……だとは考えられないのかい?」

 「だとしても!」

 矛盾していることは分かっていた。

 僕は隆平と会った際、彼のことを慮って飛鳥のことを話さなかった。「彼には今の生活があるのだから」と気を遣って。

 だけど、そう。

 でも、僕は。

 「だとしても……僕は、友達のことは知っていたい。それがどんなことであってもだ」

 「……どんなことであっても?」

 「ああ、どんなことであっても」

 たとえ、損をすることになったとしても、友達の為ならば動きたい。

 それは普通の心情だろう?

 僕の覚悟を読み取ったらしい飛鳥は「ふうん、そうかい」と頷く。

 「ならヒサ、キミに見せてあげるよ。今のボクの覚悟を」

 彼女は付けたままだった大きな眼帯を外す。てっきりそれはステージ用の衣装だと思っていたが、違った。飛鳥は右の瞼を持ち上げたが、そこにはあるべきものが。

 あったはずの眼球が――なかった。

 「……ど、どうしたんだ? それ……」

 「ふふっ。その反応、あの時と同じだ。ボクがリストカットの痕を見せた時と同じ反応だ」

 「だから、どうしたんだよ!」

 「同じだよ」

 「同じ……?」

 「ああ」

 飛鳥は言った。

 「理解(わか)るため、さ。あの時も言っただろう? 『理解(わか)ってみたくなったんだ』と。ボクは、ボクの歌を聞いてくれる人達の気持ちを少しでも理解(わか)る為に、この目を抉った」

 他人の気持ちを理解する為に、自分の目を抉った?

 正気の沙汰とは思えず、それ以前に何を言っているのか分からなかった。飛鳥は観客の心を理解したかったようだが、僕には飛鳥のことが理解できなかった。

 「ヒサ、キミだって知っているだろう? この国の非正規雇用者は毎年増え続けている。今ではもう、全体の四割がフリーターや派遣社員のような非正規雇用者だ。働いている世帯の中で、生活保護基準以下の生活をしている層は約一割。生活保護の捕捉率だって多めに見て二割ほどさ。若者は特に酷いよ。なまじ若く無理ができるから少しでも良い生活をしようと無茶な働き方をして、身体を壊し心を病み、そして自ら命を絶つ。学歴の問題? いやいや、今や大学生だって変わらない。そうだろう?」

 「……そもそも生まれた家が裕福じゃない限り、学生の生活なんて厳しいものだ。日本全体の相対的貧困率は15%。大卒じゃなければスタートラインにすら立てないからと奨学金を借りたはいいが、待っているのは何十年も続く借金返済の日々」

 引き取って僕は続ける。

 そう、それは他でもない僕のことでもあって。

 「学費の為に身体を売る女子大生なんて、今や珍しくもない。そうではなくとも働き過ぎで学業が疎かになれば本末転倒だ。借金までして大学に来たのに、借金のせいで大学にも満足に通えない。そんな奴がいるくらいだ」

 「ヒサ、笑えてくるだろう? 返済義務のある奨学金というのは前時代の遺物だよ。『大卒の人間は安定した職業に就け、毎年昇給があり、定年まで勤められる』――その大前提があったからこそ、学生が借金をしてまで大学に行ったんだ」

 「だけど、日本型雇用慣行は最早崩れた。大卒だからと言って大企業に勤められるとは限らない。昇給が約束されることもなく、首を切られることはしょっちゅうだ。そもそも就職した企業が真っ当な会社という保証もない。大学を出たとしても四人に一人、五人に一人は非正規の職にしか就けない時代になった。短大ならば三人に一人くらいだったか。こんな状態で奨学金の返済などできるわけがない」

 「……あるいは、返済はできたとしても貯蓄ができない。将来の為に貯金する分を奨学金の返済や国民保険料のような固定費の支払いに回していけば、どうなると思う? いざ結婚しようという段階になっても、お金がない。子どもについてもそうさ。子どもを産み、育てていくだけの貯蓄が今の若者にはないんだ。怪我や病気の時だってそうさ。ボク達には蓄えがないから、一度身体を壊せば転がり落ちるように極貧生活だ。ボクはそういう人達を沢山知っている」

 一息を置いて、飛鳥は眼帯を着けた。

 「流石ヒサ、学問を愛しているだけあるね。『知を愛す』とは英語でフィロソフィーだったかな? 自分達の置かれた現状をそこまで正確に理解している大学生はそういない」

 「これでも経済……社会学は専門だからね」

 「だったら分かるだろう」

 と。

 語気を強めて彼女は言う。

 「ボクは、そういう人達を勇気付けたい。助けたかった。ボクの歌でだ。少しでもその心の痛みを分かって、『キミの気持ちは分かる。でも、生きていこうよ』と言いたかった」

 「だから……目を抉ったって言うのか?」

 「そうだ」

 リアリティーこそが作品に生命を吹き込む。リアリティーこそがエンターテイメントだ。

 そう飛鳥は引用して語っていた。だからあの時も自らの左腕を切り裂いて、自傷する人間の心を分かろうとした。

 でも――だからって、リストカットと目を抉るのでは、レベルが違い過ぎる。

 「……聞いてくれよ、ヒサ。信じられないだろうけど、ボクはやっと人の心が理解(わか)るようになったんだ。目を抉ったお陰なのかな。高校時代のボクはボクの苦しみを歌にすることしかできなかった。でも、今は違う。ボクにはあの、苦しむ声が聞こえる。会場に集う観客の痛みが伝わるんだ」

 物語るその顔は苦痛に歪んでいながらも恍惚が伺え、冷静でありながらも情熱的で、あの頃と同じようでいて、けれど全く違った。

 僕には、彼女の心が二つに引き裂かれているように思えた。いや、引き裂かれている、だなんて分かりやすい状態ではない。二つが入り混じり、混濁し、境目がなくなっていたのだ。

 純粋に相手のことを想い、助けたいと願う善良な少女としての一面。そして、他者と繋がれたことを喜び、それを作品へと昇華できたことに歓喜する芸術家としての一面。二つの彼女が一人の少女の中に同居していた。

 「飛鳥……」

 「だから、ボクはそれを歌にする。歌で彼らを肯定する。歌で皆を愛する。そうすればボクも、ボク自身を愛せる気がするから……」

 ああ、なんて――魅力的なんだろう。

 場違いにも僕はそんなことを思ってしまった。彼女の矛盾した美しさに心を囚われかけていた。


 「―――お話し中のところ悪いんだけどよ、」


 完全に飛鳥が支配していた屋上を切り裂いたのは荒っぽい少女の一言だった。

 沈黙を守ったままだった斉藤狼子はいい加減に飛鳥を説得できそうにない僕に見切りをつけたらしい。こちらを一度だけ見て、後は構わずに話し始めた。

 「四条飛鳥さんよ、それに、その隣のむっつりの男。お二人さんが何を想い、どんな曲を作り、どう歌うのかはどうでもいいんだよな。あたしは」

 「……傷付くね。自分の作品をどうでもいいと言われると」

 「勘違いするなよ、お前の歌は好きだぜ? いい歌だ。何回でも聴きたくなるほどにな。それはそうと、だ。それはそうとあたしは今仕事で来てるんだ。そっちの話をさせてもらってもいいかい?」

 「構わないよ」

 そりゃ結構だ、と頷いた斉藤狼子はその狼の瞳で真っ直ぐと飛鳥を見て言った。

 「―――お前、その超能力で何をするつもりなんだ?」





 僕は彼女の言葉が理解できず、思考が止まり、脳内に空白が生まれた。驚愕に目を見開く僕とは対照的に飛鳥は微笑み、隣の佐はその硬い相貌を崩さない。

 斉藤狼子は続けた。

 「……お前、超能力者だろう? 私が見たところによると第三フェーズ級の、かなり強い能力者だ。『自分の歌を聞いた相手を洗脳する能力』――って、ところか?」

 「正確には、少し違う。『歌を聞いた相手の特定の感情を増幅する能力』――それがボクの超能力だ」

 平然と飛鳥は答える。

 超能力?

 一体、二人は何の話をしているんだ?

 相変わらず僕を置き去りにして会話は進んでいく。

 「ああ、なるほど。合点がいった。お前が『自分を大切にしろ』という想いを歌に込めれば観客は自然と自分を大切にするようになる。悪感情もそうだな。憎悪や嫉妬みたいなものも旋律にして歌うことで増幅できるってわけか」

 「ふふ、そうだね。でもキミが思っているほど万能な力じゃないよ。何度も何度も、繰り返し聞かせることによって少しずつ感情を震わせる……。それだけの能力だ。例えばボクが今ここで詩を紡いだところで、キミ達をどうにかできるわけではない」

 「だが、お前のファン相手なら違う。お前の歌に惹かれたファンは何十、何百とお前の曲を聴くだろう。そして歌を聴く度にお前の忠実な奴隷になっていく」

 「それも少し違うよ。なんでも思い通り意のまま、とはいかない。アイドルとファンの関係と同じでボクの声を多少は参考にしてくれるだけだ」

 「神と崇拝者の間違いだろう?」

 「ボクからすれば同じだよ。どちらも偶像(アイドル)さ」

 睨み合う二人に説明を求めることもできず、僕は縋るように佐の方に目を遣った。しかし彼は一度は僕と目を合わせたものの、黙って逸らした。

 何も言うことはない。そう言外に告げるように。

 「あー、その辺りの細かな部分は私はどうでもいいんだ。訊きたいのはお前達が何をするつもりなのか、ってことだ」

 「知りたいかい?」

 「一応仕事で来ているからな。それに、個人的に興味もある」

 「……ふふ。秘密にしておくつもりだったけど、ボクの歌を好きだと言ってくれたんだ。そのお礼に教えてあげよう」

 「おい、飛鳥……!」

 ようやく口を開いた佐を手で遮って、飛鳥は微笑みながら告げた。



 「―――明日のデモに集った若者の社会への憎悪を増幅させ、数千人単位で一斉に暴動を起こす。そうやって大きな問題を起こすことにより、社会に理解させるんだよ。ボク達が抱えている痛みをね」



 斉藤狼子は黙って琥珀色の目を細めた。

 肉食獣のような視線を飛鳥は涼やかに受け流す。

 「……それがお前達の目的か」

 「ああ。ボク達、『フリーダム・ライダーズ』の目的さ」

 「そんなことして、タダで済むとは思ってないよな」

 「この国の暗部が動く……。そう言いたいわけかい? お生憎様だね。キミに経団連や公安警察の後ろ盾があるように、ボク達にもバックアップがあるのさ。その方面の動きは抑えられる」

 「お前の支持者は誰だろうな。国内外含めた共産主義者共か、それとも欧米から来た無政府主義者共か……。社会混乱に乗じて利益を得ようとする複合企業、か」

 「ふふ、どうかな。どうする? ボクを否定するかい? ボクを殺して止めるかい? 斉藤狼子――『壬生の白狼』『離の剣士』と謳われる現欧州最強の殺し屋」

 「さて、ね……」

 問われた彼女は黙って僕を見た。

 判断を委ねるように。

 けれど、僕は何も言えなかった。

 何もかもが分からず、何一つ理解できず、何も言うことができなかった。

 「……そういうわけだ、ヒサ。良かったら明日も聴きに来てくれ」

 飛鳥はそう言って。

 僕の隣をすり抜け、屋上から去って行った。

 僕は何も言うことができず、ずっと都会の空の下で立ち尽くしていた。





 「……おい、いい加減帰るぞ。ちんたらしてたら出入り口施錠されちまうだろ」

 隣に立つ彼女に頭を叩かれ、僕はようやく我に返った。重い身体を引き摺るようにして階段を下り、行きとは違って真っ暗な廊下を戻って、入る時に使った通用口へと辿り着く。

 幸いにして、と言うべきなのか、建物の中にも出入り口の外にも『OFR』の人間は一人もいなかった。勿論、飛鳥達も。

 ぼんやりとした頭で腕時計を見た。時計の針は十時を回ったところ。ライブが終わったのが九時頃、飛鳥とは二十分も話していないだろうから、あの後僕は丸三十分以上、呆然としていたのか。

 けれど、仕方ないだろう? 頭の片隅で弱い自分が言う。あれほどまで色々な話をしたんだから、と。

 「……説明してくれよ」

 「あ?」

 「さっき、飛鳥と話していたことについて……。頼む、説明してくれ」

 どうにか頭を働かせ、斉藤狼子に問いを投げ掛ける。

 まだ事態は把握できていない。飛鳥の内面も分かったのは一部だ。けれど、一つだけ分かっているのは――明日、彼女達が何かを起こすということだった。

 弥生ちゃんが危惧していた通り、飛鳥は何かとんでもないことをするつもりだった。

 「超能力、契約能力、特異能力……。呼び名はなんでもいいが、裏の世界にはそういった常識を超えた力を持つ人間が一定数いる。意思説って量子力学の学説がベースになっているらしいが、詳しくは知らない」

 「……冗談じゃあ、ないんだよな」

 「この状況で冗談なんて言うか。……私が平成の大逆事件に関わったって話はしただろう?」

 「ああ」

 「冷静に考えてみろ。いくら私が化け物じみた剣の腕前だったとして、近代兵器で武装し、完璧に統率された軍隊相手に立ち回れるとでも思ってたのか? 『純粋な剣技と知性で国と渡り合ってた』。そう思ってくれてたのなら嬉しいが、実際にはトリックがあった」

 「それが……超能力?」

 ああ、と答えて彼女は先ほども使用した自動販売機の前に立つ。小銭を入れ、今度は缶コーヒーを二本買う。

 「ジャッカルの件も同じだ。尤も、あの時は相手も能力者だったが……」

 コーヒーを手渡される。

 冷たいエスプレッソを胃に流し込んで僕は先を促した。

 「超能力にはいくつかのルールがある。一つが『超能力同士は干渉する』というもの。超能力は世界に干渉し事象を改変する力だから、別の超能力者が近くにいると干渉し合って能力をフルに使えなくなる。だから、能力者は無能力者相手には圧倒的に有利に立ち回れるんだが……。これはどうでもいいことだったな。あー、まあつまり、あの飛鳥って奴の能力はほんの少しだけ私には効きにくい」

 なるほど。それでようやく納得できた。

 ライブの後、彼女が眉に皺を刻んでいた意味。あれは飛鳥が超能力者だと気付き、その能力を使って何をするつもりなのか、思案していたのだろう。控室に入る前に武装したのは超能力を警戒していたのか。

 同時に何故僕が今の飛鳥の歌を好きになれなかったのかも理解する。きっと高校時代の彼女の歌を知っている僕は、今の歌の中に含まれる『超能力』という不純物に無意識的に気付いてしまったのだ。だから違和感を覚え、嫌悪感を抱いた。

 「もう一つ、超能力にはルールがある。それは『超能力を使う度に代償が必要となる』ということだ」

 「代償?」

 「対価、犠牲とも言ってもいい。有名どころじゃ、他人の記憶を奪うことができるある能力者がいるんだが、ソイツは能力を使う度に自分の過去の記憶が消えていくことになってたらしくて、今じゃもう一日分の記憶しか保てない。他には、そうだな……。他人の能力を目覚めさせることができる奴がいるが、ソイツは能力を使うほどに自分の睡眠時間が伸びていっているそうだ。このままじゃそのうち植物人間になるだろうってよ」

 それが能力を使う代償。

 対価。

 「……飛鳥は? あの言い方だと、飛鳥はその『他人の感情を増幅させる能力』をライブの度に使ってるんだろ? なら……!」

 「ああ。内容は分からないが、相当重い対価を支払っている……かもしれない。それこそ、死に至るほどのな」

 「死、って……!」

 「あー、安心しろ。私がそうだが、たまに極端に代償が軽い奴もいる。その可能性もある」

 安心できるはずもなかった。

 ただでさえ切羽詰まった状況だと言うのに、飛鳥が死ぬかもしれない?

 そんなこと――認められるか。

 「……止めないと」

 「それはどっちについて言ってるんだ? 明日お前のお友達が起こすという暴動についてか、それともお前のお友達が能力を使うことについてか」

 「どっちもに決まってるだろ!」

 僕が飛鳥を止める為にここまで来たのだ。

 彼女が死のうとしているならばそれを、誰かを傷付けようとしているのならばそのことを、止める為に。

 「……ここで吠えてただけじゃ止まらないことは確かだ」

 静かに彼女は口を開く。

 「私のような裏家業が存在するように、裏組織も社会には存在する。それらは相互に協力したり、あるいは牽制し合ったりしているから、通常ならば大きな混乱は起きない」

 「通常なら、か」

 「ああ、通常ならば、だ。お前のお友達の言い方だと国家側への根回しは済んでるらしい。特殊能力者の対応を専門にしてる機関もあるんだが、そこは動かないだろう。後は経済界だが、一応、私――『壬生の白狼』という殺し屋は経団連の使えるカードの中でかなり強い部類に入る。その私に連絡が来てないということはあそこは事態を把握していないか、把握していても所詮はただのデモと重く見ていない。……考えてみりゃ当たり前だよな、一回のデモが暴動に発展したとして、それくらいのことで社会が変わるわけがないんだから」

 彼女の言う通りだった。

 一回のデモ程度で、一度の暴動程度で、経済構造が変わるわけもない。仮にそれが数千人単位のものだったとしても、国という一億人の集団の上部にいる人間からすれば「たかが数千人」という認識だ。

 死傷者は間違いなく出る。新聞の一面を飾るだろう。ひょっとしたら歴史の教科書にも新自由主義の弊害を紹介する意味合いで掲載されるかもしれない。ただ、それだけだ。

 世界は、何も変わらない。

 「反政府勢力に目を向けてみれば、『サロン』や『赤羽党』みたいな巨大組織は『フリーダム・ライダーズ』が起こすデモを自分達の目的の為に利用しようとするだろう。つまり、止めない。下手をすれば協力してる可能性だってある」

 「八方塞がりってわけか……」

 「デモ自体が止まるとすれば、経済界の中枢の誰かが私のような殺し屋を雇って、デモの中心人物である飛鳥を暗殺した場合くらいだ」

 「……飛鳥の能力は歌を聞いた相手の特定の感情を増幅させるというもの。だから、明日飛鳥が歌う前に飛鳥を殺せば、問題は起きない、ってことか」

 「そういうことだ。『殺せば終わる』。単純な解決方法だ」

 デモはただのデモとして終わる。

 ある有望なロックシンガーの死はファンには悲しまれ、やがて忘れられるだろう。

 「さて、どうする雇用主殿」

 斉藤狼子が問い掛けてくる。

 飲み終わった缶コーヒーを握り潰し、ゴミ箱へと突っ込んで。

 「殺し屋として私が取れる選択肢はいくつかある。四条弥生の依頼は『姉を止めること』――他に指定はない。自殺をするつもりならば止めて欲しいと頼まれただけで、凶行を止める為に私が殺すのに制約はないはずだ。それはやり過ぎとしても、声帯を潰して声を出せなくしても、足の腱を切ってステージに辿り着けなくしてもいい」

 「……それは僕との契約に反するだろ」

 「ああ。だから、契約を反故にしてしまうのもありだ。任務失敗、ってことでな」

 一拍置いて彼女が訊いた。

 「なら、今度は雇用主として問い掛けるが、お前に何か良い案はあるか? お前と四条弥生の我が儘を同時に通す為の名案。それをお前が今ここで、どんなに遅くとも明日のライブ開始までに思い付き実行すれば、とりあえず私の依頼は達成できる。お前の望みも、同時に叶う」

 明日の昼前にはデモを行う為に数千人の若者が公園に集う。

 そのセレモニーとして『フリーダム・ライダーズ』がライブをし、そこで披露される飛鳥の歌で、群衆は暴徒へと変わる―――。

 四条弥生は「お姉ちゃんが何か取り返しのつかないことをするつもりなら、それを止めて欲しい」と依頼した。

 僕は「この一件が終わるまで誰も殺さず、極力傷付けないで欲しい」と依頼した。

 この二つの我が儘を通す案を思い付かなければ、『フリーダム・ライダーズ』の計画は実行され、飛鳥は本当に取り返しがつかなくなってしまう。

 腕時計をもう一度見る。

 タイムリミットは、およそ十二時間。


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