#23 -マスターになるという事①-

「……戻ったか、シエル」


 指令室の真新しい革張りの椅子に深く腰掛けて、イレーヌが呟く。


 部屋の中は新しい木と革の匂いがうっすらと立ち込めており、中央都市でしか使えない貴重な電気を使った蛍光灯も新しい。


 蛍光灯の光に照らされて光る、新しく塗られた塗料の色が眩しかった。


 陸軍本部指令室。つい先日までトーマ中将がいた指令室だ。


 トーマ中将がロベルタに殺されてしまった今、皇帝の勅令でロベルタの捕縛を任されているイレーヌが、総司令以外にここに立ち入ることを許可されている。


 指令室は何もかもが新調されており、以前ここにいた中将の気配は欠片も残っていなかった。


 そしてイレーヌの前には、シエルが沈痛な面持ちで頭を垂れている。


 イレーヌの脇にはベルベットが控えていて、静かにシエルを見下ろしていた。


 暗殺の任務を与えて一昼夜。


 翌日の夜に戻ってきたシエルの顔は沈痛なもので、どう見ても「とってこい」が出来た顔ではなかった。


 厚いカーテンの様に指令室を覆った重々しい沈黙を破って、イレーヌが口を開く。


「その様子だと失敗したようだな。言わずとも顔を見れば分かるさ」


「…………申し訳、ございません」


 弱々しい声でシエルが言葉を絞り出す。


 イレーヌは暫くの間何も言わず、ただじっとシエルを見ていた。


 マスターとは飼い主で、人形とは狗だ。


 人間の命令を、人間の命令した通りにこなせない道具に何の価値があるだろうか。それは誰よりも、シエルが痛切に感じていた。


 ――ふむ、余程こたえたと見えるな。


 机をとんとんと叩きながら、イレーヌがほうと息を吐き出す。


 悔恨の念で押し潰されそうになっているシエルとは真逆に、イレーヌは今回の失敗の事を責めるつもりは毛頭なかった。


 戦いとは何も成功ばかりではない。失敗する事もあれば、犠牲を払う事もある。それを受け入れてどう対処するかが、将としての器量なのだ。


 だからイレーヌは、今はシエルを責めるよりも今からどうやってロベルタを沈めるかを静かに考え続けていた。


 そんなイレーヌの様子を知ってか知らずか、シエルはずっとうなだれていた。身体を震わせながら、ぎりぎりと歯を食いしばっている。


 シエルはイレーヌに勘付かれない様、強く奥歯を噛み締めていた。


 シエルは身体を小刻みに震わせながら、真白い奥歯が砕けそうなほどに強く、悔しげに食いしばっている。


 もしも涙が流せたなら、きっと今頃悔し泣きに顔を歪めている程に……シエルの身体は怒りと悔しさで震えていた。


 ――失敗した……期待を裏切ってしまった……っ!


 マスターから、イレーヌから与えられた任務を失敗した。


 文字にしてしまえばそれだけ。ただそれだけの事実だが、人形であるシエルには耐え難いものだった。


 与えられた任務を完遂できず、あまつさえ生きて主人の前でそれを報告しなければならない。


 それは機械であり、人間の道具であるシエルにとって何よりの苦痛だった。


 人間を満足させられない道具は道具ですらないのだから。存在を根底から否定されたのにも等しい恥辱と憤慨を、今シエルは感じているのだから。


 それはロベルタによって与えられた、何よりも耐え難い凌辱だった。


 しかしどれだけ精神的に痛めつけられても、シエルは自殺することはできない。人形はその性質上、基本仕様として自殺を禁じられているからだ。


 つまりシエルはこの先ずっと、汚辱を雪ぐその日までこの感情に耐え続けなければならないのである。


「期待に応えられず……その上死ぬこともできませんでした……。どう、責任を取れば……よろしいでしょうか……?」



 ――相変わらず、可愛らしい子だ。


 シエルの重々しい返答に、イレーヌが小さく頭を振る。シエルとは反対に、そんな失敗は気にしていない、と言う事を身体全体で表していた。


 マスターである為には、。失敗しても責任などと言う高尚なものは負わされない。


 例えシエルをこの場で殺したとして、何の解決にもならない。上手く野菜を切る事ができなかったから包丁を捨てたところで、次の包丁で野菜が上手く切れる訳ではない。それと同じなのだ。


 失敗を道具の所為にしたところで、何も変わりはしない。


 全ては、人形を管理・運用しているマスターの責任なのだ。


「責任を取るのは私の仕事だ、シエルが責任を取る必要はない。それに……」


 イレーヌが素早くベルベットに目配せし、ベルベットがそれに頷く。


「ええ、シエルには悪いですが……ケルヴィムを撃破したロベルタの実力を鑑みればこれはまだ想定内の事態ですね。


ですから我々は確実に三人を無力化する為に、次の手を可及的速やかに打たねばなりません」


「……ほう?」


 イレーヌの眉根がぴくりと動き、それを読み取ったベルベットが続ける。まさに以心伝心といった息の合いようだった。


「恐らくロベルタ達は移動を開始しているでしょう。


今現在ロベルタ達のいる町は海岸と平原を離れれば山岳地帯です。


このまま山に紛れることと、マスターが人間であることが予想される今、ある程度であれば移動ルートも予測できます。


我々が仕掛けるとすれば、そこしかありませんね。当然、その作戦にはシエルも参加して貰う形になりますが……」


 その言葉にシエルが反応して、咄嗟にばっと顔を上げた。その様子を見て、ベルベットがくすりと笑う。


 フェイズⅠの暗殺任務に失敗したシエルを再び組み込んだ、イレーヌ主導のロベルタ捕獲作戦のフェイズⅡ。


 これはベルベットが上官として部下のシエルに出せる、精一杯の心尽くしだった。イレーヌもそれに気付いたのか、興味深そうに二人を見ている。


 ――なるほど。人形にしては上々の気遣いだ。


 本来であればシエルを入れる必要の無いプランも当然存在する。


 皇帝ツァーリの勅令で動いている今、エースモデル程度であれば本部に要請すれば幾らでも発注できるのだから、そこにわざわざシエルを組み込む絶対的な必要性は無いのだ。


 そんな中でベルベットがシエルを使うのは、シエルへの挽回のチャンスを与える最大限の気遣いであり、マスターである自分への配慮であるとイレーヌは踏んでいた。


「続けろ、ベルベット。その作戦の詳細を聞きたい」


「……分かりました。作戦の詳細を説明します」


 ベルベットが頷き、イレーヌとシエルを交互に見ながら考案した作戦について解説を始める。


 淡々としている二人とは対照的に、シエルの口元には僅かな笑みが浮かんでいた。


 解説を聞いている間、シエルの気持ちはずっと昂ぶっていた。


 ――もう一度、二人の為に戦える。先の任務で失った期待を挽回できる!


 もうこれ以上の失敗は確実に許されない。次に失敗すればイレーヌもベルベットも間違いなくシエルを見捨てるだろう。


 失敗すれば本部から新しいエースモデルが連れてこられて、役に立たない不良品シエルは廃棄処分になり、話はそれまでだ。


 どこまでも人形は消耗品であることを、シエルやベルベット達人形は何よりも知っている。人の代わりで、使い捨ての付け焼刃である事はどの人形も同じなのだ。


 だが不思議と、シエルは恐怖や緊張を感じてはいなかった。


 人形としてではなく戦士として、任務ではなく戦いをシエルは何よりも望んでいた。


 いつかは捨てられるということも、自分が消耗品であることも重々承知の上だ。もう後がないことなんて誰よりも判っている。


 だから……、シエルはその状況をと思っていた。


 何故かはシエルにも分からない。しかしシエルは本能的に――勿論本能など無いのだが――その状況を愉しんでいた。


 ぞくぞくと全身が粟立つ様な快感に似た錯覚が、シエルの全身を満たしている。


 それは今までに体験したどんなに激しいセックスでも得ることができなかった、だった。


 身を委ねればそのまま溺れてしまいそうな、脳が蕩けそうな感覚がシエルの電脳を絶えず刺激している。



「――以上が作戦の内容になります。かつてない程に大規模な作戦になると思いますが、天使型の捕縛作戦としては十分過ぎるものであるかと」


「陛下が脅威と見做した程の機体だ。それくらいの見積もりはあって然るべきだろう……よし、早速準備にとりかかるぞ」


 イレーヌが立ち上がり、シエルがはっとなる。会話の内容は電脳が記録してあるが、マスターであるイレーヌとベルベットの話を話半分で聞いていたとなれば兵士としての沽券に関わる。


 しかしイレーヌはシエルを責める訳でもなく、席から離れベルベットを連れてシエルを隣を通り過ぎた。


「すぐに準備にかかるぞ。リミットは明朝、それまでに『例のもの』を準備しておけ」


「……はい!」



 シエルが力強く返事をして、イレーヌの後姿に敬礼する。


 歩み去るイレーヌの顔は、今までに見せたことがない程に嬉々としていて……まるでクリスマスを前にした子供のようだった。



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