第16話 重さの無い蒼 後編

「――そう。それは、つらかったね」


 僕の右眼を髪越しにじっと見つめた後、沙智は短く言葉を切った。


「実を言うとね、思い当たる節がなかったわけではないんだ。兄さんにはあたしたちと違う世界が見えているのかもしれないってずっと思ってた。でも生き物の死に際が見えるなんて。そんな残酷な世界を見続けていたなんて」

「信じるのか?」

「兄さんはそんな大層な嘘を吐けるほど器用じゃないでしょ」

「それもそうか」

「ぶっ」


 合点がいき深く頷いてみると、急に沙智が噴き出した。


「いや……そこは納得するところじゃないでしょ……くくっ」

「おかしいか?」

「兄さんのそういう裏表のないところに千世姉さんは惚れたのかもねー」


 そんなこと言われても。


 ああでもそういえば、僕の敬語を聞いて和むとも言っていたか。あれは僕の不器用さの象徴みたいなものだった。


 裏表がない、か。沙智に勘づかれていたというなら、その通りなのだろう。


 一般的に見れば、僕は普通ではないのかもしれない。人間は、裏表があるのが普通だから。


「前にも言ったけど、兄さんはストレスをすぐ顔に出すからさぁ。白野さんも気づいてたんじゃない?」

「今際の際を教えなかったことをか」

「それもあるけど、もう一つ」


 フランクフルトの串をフェンシングみたく僕に向けて、沙智は言う。


「兄さんが心苦しく思ってたこと。白野さんは自分のことで兄さんを苦しませたくなかったんじゃないかな」


 沙智の指摘は道理に適っていた。僕の躊躇を憂月は汲み取って、わざと棘のある台詞を言ったのだとすれば、あの静かなヒステリーも違った意味に捉えられる。


 今際の際を知りたいという願望はあくまでも表側なのだ。その裏側には別の思惑がある。でなければ彼女は僕のことなんて慮らず、苦しめてでも自分の死に際を訊き出そうとしただろう。そのくらいの形振なりふり構わなさが、憂月にはきっとある。


 一直線に沙智と接点を持ったことだってそうだ。何処から聞き出した情報かはわからないが、何らかの手間を経てまで僕へのパイプを繋ごうとしている。


 つまり憂月の行動には、明確な目的意識がある。


「そんな難しく考え込まなくてもいいと思うんだけど」


 呆れ口調で沙智は言った。事情を大体把握したのか、したり顔で串をくるくる回している。


「何かわかったのか? すごいな、教えてくれ」

「なんでもないよ、まったく。不器用なのはお互いさまかね」


 ……よくわからないが、沙智は妙な誤解をしているようだ。訂正するのも難しそうなので、放っておくことにした。




 ふと埃をかぶった置時計に目を向ける。二時過ぎ。僕も沙智も軽く伸びをした後、ほぼ同時に立ち上がった。


「さぁて、休憩はそろそろお終いにしましょうかねっと。もうすぐ妹尾先輩の出番だろうし」

「へぇ、沙智は司のことも知ってるのか」

「学内きっての有名人だからね。っていうか何で兄さんが下の名前呼びしちゃってるの」

「たまにご飯を奢る程度の仲」

「ほんとにっ!?」


 今日イチの反応をする沙智だった。


「兄さんがあの妹尾先輩とそんな仲だったなんて……あぁでも白野さんと縁があるなら不思議でもないのか……ということはあたしにもお近づきになるチャンスが……」


 ぶつぶつと真剣な面持ちで思案し始める。沙智は割とミーハーなところがあった。


「さっさと行こう。司の出番があるんだろ?」

「あぁそんな軽率に呼び捨てしないで……妹尾先輩は兄さんが気安く関わってはいけないくらい尊い存在なんだから……」

「あいつも神様か何かなのか」


 沙智にとっては偶像アイドルなのだろうなとは思うが。こういう信者を発生させてしまう司は返すがえすも罪深い男だ。


「じゃあ今度ご飯奢るときは沙智も誘うよ」

「行きます」

「即答かよ」


 いつの間にか自分の頬が緩んでいることに気づく。沈んでいた気分も回復して、背筋が自然にしゃんとする。身体が軽くなったような心地だ。


 そして音楽棟を出た直後――狙い澄ませたようにやや強い風が前髪を捲り上げた。


 いつもならそれだけで世界の色は一変する。地上に満ちる生命の全てが死に染まってしまうのを、避けられないと思っていた。


 けれどそのとき僕の眼に映っていたのは、雲一つない昼下がりの蒼い空。あまりに純粋なその空に、僕は眼を奪われてしまっていた。


「話してみたら楽になったんじゃない?」


 隣で沙智の声がした。


「兄さんの右眼には、この空ってどう見える?」


 答えるまでもなかった。きっと僕は、確信できていたのだろう。


 眼を背けたままでは知ることのできなかった蒼は、ありふれた普通だった。



  ◇ ◆ ◇



 司の弾き語りは相変わらず冴えていて、あの日のライブの熱気を思い起こさせた。


 特設ステージは想像していたよりも大掛かりだった。けれどその壇上に立つ司は着飾らない普段通りの服装で、その出で立ちは通りがかった人の意識さえも惹きつけた。


 あれだけ黄色い声援が多々あっても嫌味がないのは、彼の帯びる求道者のようなオーラがあってのことだろう。あんなひたむきな姿を見せられたら、熱狂的なファンが現れるのも頷けるというものだ。


 弾き語りが終わった後、あのライブは決して憂月の独壇場ではなかったのだと今更ながら気づく。僕にそれを聞き分ける力がなかっただけに過ぎない。


 気がつかないだけで、世界には色んなものがある。僕は自分が知ったかぶりをしていることに目を向けていなかった。知らないことを、知らなかった。


 今際の際が見えるからと全てが見えているつもりになっていた。相手の気持ちも行く末も、全て想定できると本気で思っていた。神様にでもなったつもりだったのだろう。なんてくだらない勘違いだと恥ずかしくもなる。


 恋人の想いも、少女の迷いも、自分自身の感情でさえ、僕は理解していなかった。今だって理解できていないに違いない。だからまだ正解を見つけられずにいる。


 けれど、見えるか見えないかは表質的な問題でしかないのだ。見えているものに依存すれば浅薄で、見えないものに依存すれば空虚。表か裏のどちらか一方だけでは、答えに辿り着けるわけなんてなかった。


 可視不可視では判別のつかないものから何かを選び取りたいのなら、手探りしかないのだと僕は思う。求め続けた者にだけ、やっと納得のいく答えが見つかるのだろう。有形無形で曖昧模糊な、ともすれば矛盾した答えが。


 そんな苦悶の道を、僕も歩めるだろうか。


 ひとりでは不可能だったとしても。誰かとなら、或いは。

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