29.裏宇宙航法―7『深雪の日々、或いははじめての×○×○―1』
「わッ、わッ、わぁああ~~ッ?!」
〈あやせ〉の艦内通路を全力疾走で駆けていて、すこし足がもつれたのだ。
〈あやせ〉に限らず、およそ戦闘航宙艦の艦内通路は、その表面がペタペタしている。
そう強固ではないが、足をおろすたび靴底に貼りついてくるのだ。
――仕様である。
かるい粘着性をもたせることで、人工的に発生させている重力が不意に失われても、それによって発生する混乱を
日常的にはさして気にならないし、事実、今まで気にしたことはない。
が、
今の深雪にとっては邪魔でしかなかった。
普通に歩く分にはさしたる影響はないが、全速力で疾走している今など文字通りの意味で足を引っ張られてしまうからである。なまじ重力があるものだから、地上世界と同じ感覚で走っていると、床の粘りに足を取られて、僅かではあるがタイミングに狂いが生じてしまうのだ。
結果、平滑な床面でありながら、つい
もちろん本当に転んだりはしないが、煩わしいことには変わりはない。
と、それはさておき、深雪が急いでいるのには理由があった。
朝食をすませ、主計科室に向かっている途中で、突如、警報があたりをどよもし、響きわたったのだ。
『緊急遷移! 緊急遷移! 総員ただちに〈連帯機〉にリンクせよ! 繰り返す! 緊急遷移! 緊急遷移! 総員ただちに……』
難波副長の声が、鞭打つ調子で繰り返される。
にわかに騒然となる〈あやせ〉の艦内を今までエントリーしてきた、どの競技大会の時よりも必死になって深雪は走った。
(なに?! 緊急遷移ってなに?! 〈連帯機〉ってなに?! 〈連帯機〉にリンクってどうやるの?! なになになになに……?! 一体なんなのぉ~ッ?!)
大音量で鳴り響くサイレンに、知らない言葉の
壁一枚へだてた向こうは生命の存在を許さぬ宇宙しかない環境で、突然宣言される非常事態は、まったくもって心臓に悪い。
死にたくはないから必死になる。
が、
ただひたすらに、今、自分にできること――目的地にむかって走ることを実行しながらも、しかし、深雪は頭の中にわずかに残った冷静な部分で、また訓練かと思ってもいた。
もちろん本物の非常事態の可能性だってあるが、今までの経験からそう考えたのだ。
……もうこれで一体何度目か。
〈あやせ〉が〈幌後〉を後にしてからというもの、立て続けとしか言いようのない
減圧、火災、放射能、耐G、退艦、戦闘と、起こりうる各種事態に対する訓練が、文字通り
おかげで艦内の空気は目に見えて引き締まったものとなり、深雪としても、それが如何なる状況下であれ、こんな所で死ねるものかと思っていたから、こういう訓練はありがたかったのだが、しかし、
「いくら何でも、ものには限度ってものがあるよねぇえ~ッ!」
今までずっと短距離走の陸上選手として鍛え上げてきた健脚をとばし、主計科室めざしてひた走りながら、やはり、そう思わざるを得なかった。
兵隊としては新兵で、乗員としても最新参だから仕方がないが、この種の訓練で死者にカウントされる一人として常に自分の名前があるとあっては尚更だ。
不慣れだから仕方はないが、それでも恥はかきたくない。
深雪は、そこでクイと指を折り曲げ、ピタリと首に巻き付いたチョーカー型の
別に締め付け方がキツかったり、ましてや呼吸が苦しかったりしたわけではない。
厚さ数ミリの柔軟性に富む首飾り――その機器の存在を心の底から
乗艦時、船内服等と同時に支給されたこの検知器が、常時、装着者の生体情報と現在位置をコンピューター、ひいては科長や更に上の艦長にまで通知をするのである。
緊急事態が現実のものとなった時、自分が今どこにいて、負傷してるか意識はあるか、他の誰かに報せてくれる頼りになる道具なのだが、訓練の時は逆に忌々しい。この検知器のせいで、定められた制限時間内に訓練が要求する作業をクリアできていなければ、自動的に失格、死亡の判定が下されて、それに対して一切のウソや言い訳が通用しないからである。
新米の深雪でなくとも、〈あやせ〉に乗り組む熟練兵士の誰もが訓練に必死になる筈だった。
「遅くなりましたぁッ!」
全力疾走で乱れた呼吸とともに、深雪は主計科室へと駆け込んだ。
これまでに経験した各種の訓練、その際に味わった
その記憶によると、たった今、難波副長によって宣言された緊急遷移は、まず第一に自分の所属部署へと急行すべしとなっていたのだ。
「お~、早い早い」
ぜぇぜぇと息を切らして入室してきた深雪をそう言いながら、かるい拍手で迎えたのは御宅曹長である。
艦内に鳴り響いた緊急遷移実行の告知に対し準備をしていたようだ。
「〈メロメロ〉の準備はできてるよ~」
深雪の隣に位置する自分の席から、そう言ってきた。
「めろめろ……?」
しかし、そう言われても深雪には何のことやらわからない。
とりあえず自分の席に腰をおろす。
「あの……、めろめろって何ですか?」
コンソールの起動を待って、〈纏輪機〉越しに御宅曹長に訊いてみた。
「え……?」
質問されて御宅曹長の顔がきょとんとなる。
「ああ、そっか。はじめてなのか」
そう言うと、何故だかそこでニヤリと笑った。
「〈メロメロ〉っていうのは、さっき副長が全艦通達で〈連帯機〉って言ってたヤツ。正式には、〈独立自我管制共有結合システム〉って名前……だっけか。――意味わかんないけど。
「ま、簡単に言うと、痛いとか熱いとか何かに触れてるといった、人それぞれ固有の感覚情報や体性情報、プラス個体識別情報とか強制認識符号だとかをやりとりする機械。そういった情報群をリンクしてる者同士に提供して共有させる仕掛けのことよ。
「長ったらしいし、ややこしいんで、〈連帯機〉、もしくは〈メロメロ〉のどっちかの呼び名が一般的になってんの。……〈メロメロ〉の語源は、なんでも、『
「は? え? て、手袋、ですか……?」
言われて深雪は途惑った。
各部屋への入室時には扉脇の掌紋認証パッドに触れていることからも察せられる通り、航宙艦の中であっても日常生活は素手のままでいて構わなかったからだ。なにより一連の流れとの関連がわからない。
「そだよ。早くね」
「は、はい」
催促されて
「手袋をつけたら、お次は座席を耐Gモードにセットする。時間も無いし、説明は後ね。習うより慣れろ、百聞は一見にしかずって言うしねぃ、いっひっひ……」
なにか企んでいるだろうこと間違いナシな様子で御宅曹長が笑うが、いずれにしても深雪に他の選択肢は無い。ビクビクしながらも指示に従った。
腰掛けている座席がわずかにリクライニングし、背面、座面のクッションが硬度を変えて、ふかっと身体が沈み込む感じに柔らかくなる。
「準備できた?」
「はい」
「んじゃいくよ。ビックリしすぎてお漏らしなんかするんじゃないよぉ?」
ろくでもない脅し文句をニヤニヤ言った。
「えっ?」と深雪が訊く間もない。首筋から爪先、肩口から指先、胸も背中も腹部も腿も――全身あますところなく
「わ?! な、なに?!」
反射的に身悶えようとするところをグッと上から抑えこまれた。
どうやら
「きゃあッ?!」
思わず深雪は悲鳴をあげてしまった。
ほんの一瞬だったが視界が塞がれ、すぐにそれが透明ガラス越しのものとなり、頭のまわりすべてが何かに囲まれ、とどめに(?)首筋をキュウッとかるく締めつけられたからだ。
――ヘルメットだった。
座席の裏側上端部――ヘッドレストの背面にあらかじめセットされてあるヘルメットを機械がかぶせてきたのだ。
ウッカリしていた。
乗員たちが個々に所属している術科室、それから兵員室のベッドスペースには、それぞれ個別にヘルメットが用意をされている。
自艦が戦闘状態に突入した時の備え、就寝中に気密破壊が起きた場合の保険である。
身に着けている船内服は簡易的な宇宙服にもなる。しかし、ヘルメットの方は、かさばるが故に常時携帯していることは難しい。――その対策であった。
動転まではしなかったものの、突然の警報、緊急遷移の告知にやはり焦っていたのだろう、セットされている場所は座席の陰にかくれて見えないものだから、ヘルメットの存在をウッカリ忘れていたのである。
「深雪、聞こえる?」
ちょっと跳ねあがった胸の鼓動を鎮めていると、御宅曹長の声がヘルメット内部のインカム越しに伝わってきた。
「は、はい。感度良好」
ゴクリとひとつ唾を飲み込んで、深雪はすぐに返事をかえす。すこし驚きはしたが、この程度でお漏らしなんかするワケがない。――そんな思いを敢えて平板とした語調にこめたつもりだった。精一杯の消極的な抗議だ。
「おっけ~。じゃ次、第二弾いこか~♪」
しかし、そんな深雪の内心などは先刻お見通しであるのか御宅曹長の声は、いっそう笑みが濃くなった。
「え? 第二――?」と、今回もまた、深雪はちゃんと質問する時間をもらえない。
いきなり何も見えなくなった。
まるで世界が停電したかのよう。
ヘルメットのシールド部分が遮光状態に変化し、完全に光をさえぎったのだ。
「きゃ……?!」
あまりに突然の変化。意志とは関係なしに身体が動いて、咄嗟にヘルメットを頭から抜き取ろうとしかける。
その動作を御宅曹長の笑い声がすんでにストップさせた。
「あっはははは……。驚いちゃった? ビックリしちゃった? ゴメンゴメン」
謝りながらも、ぜんぜん悪びれた様子はない。
「これが第二段階。あと、も一個だけ
「い、意地悪しないで、ちゃんと教えてくださいよ。それに何も見えないままなんですけど、これって故障じゃないんですか?」
深雪は口をとがらせた。
ヘルメットのシールドが遮光状態になるのは、強烈すぎる閃光や有害放射から視神経をまもるためである。動作するのはほとんどの場合、宇宙空間に個人装備のみで出ている船外作業をおこなっている時だ。
一般に防眩モードと呼ばれるこの状態下での作業は、乗艦してから以降はもちろん、宙免取得の訓練段階で課せられた種々の訓練において深雪も経験済みだった。通常であれば、
「いんや~、それが正常。――その状態が、
「え? それってどういう……?」
「これ以上はナ~イショ。いっひひひひひ……」
抗議をしてもムダだった。深雪が〈連帯機〉初体験と知った御宅曹長のイタズラ心にすっかり火がついてしまっているようだ。
(これさえなけりゃ、いい先輩なのに……)
深雪は、ちいさく溜息をついた。微かに聞こえるシューッという気体の噴出音に耳をかたむけ、気を落ち着けようとする。それはヘルメット内部が完全に外界から閉ざされたことを意味する音。ヘルメットを深雪の頭にかぶせ、
(どうして何も見えない状態にする必要があるんだろ?)
真っ暗闇に閉ざされたヘルメットの中で視線をさまよわせながらそう思う。
シールドに完全遮光のシェードをかけるのはともかく、電子的な視覚補助がおこなわれない理由がわからない。頭をつっこんだヘルメット下部の開口は、気密確保のためのインナーが首筋にぐるりと巻きつき密着しているため、外部から光が射しこんでくる隙間がまったく無いのだ。
息苦しさこそないものの、視界ゼロというのは、どうにも不安で仕方なかった。
それに加えて御宅曹長が最後に言った、『恥ずかしいかもしれないけど』のくだりが引っかかる。
そもそもの緊急遷移とやらにしてからが初めてなのに、そこに未知の要素を山積みされて、わけもわからず、ただ待つしかない。
(なんなの?! もぅ……!)
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