第七話 アムステル行きの高速バス その四

 バスは動く気配がない。

 当たり前だ。運転手は立ち話の後、パトカーの後部座席に連れられて、そこから出てきていないのだ。


 僕は未だバスには乗らず、路肩の縁石に座ったまま、白い霞のかかった空をぼんやり見上げている。

 バスのドアは開いたまま。

 外で屯していた乗客たちは、やがてそれも飽きたのか、再びバスの中に戻っていた。


 どれくらいの時間が経ったのか、良く分からない。恐らく小一時間程度と言ったところなのだろう。時間を知ろうと思えば、スマホで確認できたのだけど、どうもそんな気分にもなれない。

 落ち着かないのになにもする気力もない。どこか不思議な気分。


 辺りを見回す。

 事故直後との違いは、救急車が居なくなっていることだけ。

 大破した白い小型車と二台のパトカーはガソリンスタンド内に停車したままでいる。

 運転手は、パトカー中で警察官とずっとなにを話しているのだろうか。

 どうでも良い事を考える時間が長くなる。


 そして、僕は立ち上がる。ジーンズの後ろのポケットに両手を突っ込んで、ゆっくりと歩いて、バスに乗り込んだ。


 運転手がバスのタラップを上る音で、僕は自席に沈んだ体を起こした。

 いつの間に眠っていたのだろうか。ただ眠ったせいか気力が戻っているようだった。だからスマホを手に取り、時計を確認する。

 どうも、バスが止まってから、二時間は経過している。僕の背後から、何人かの乗客がガサガサと動くような気配を感じた。どうやら、皆も眠っていたようで、運転手が現れた事で、僕と同じように目が覚めたのだろう。


 運転手はのっそりと車内に姿を現した。

 水色のYシャツにピチピチの黒のスラックスを合わした小太りの姿は、当然の事ながら変わりがない。

 だけど。

 もはや、彼からは、少し前に纏っていたような陽気な雰囲気など微塵も感じられない。 


 この時、恐らく他の乗客も、僕と同じように、この生気の失せた運転手が直ぐに事故の状況とこの後のバスの運行について説明があるのだろうと予想していた筈だ。

 物音一つしない静まり返った車内で、皆、運転手の発言を待っている。

 そして、僕たちが知りたいのは、事故の詳細な状況なんかよりも『代替のバスは、これからどのくらいでここに到着するのか』の一点だ。


 運転手がバスの通路に体を向けて、最初の一言を発しようとする。

 皆、ゴクリと唾を飲み込む。

 

 運転手は、

「やあ……皆さん……」

 生気の失せた英語を一言放った。


 そして、それが、結局彼がこの長い旅で発した最後の一言でもあった。


 運転手は無言でエンジンを始動し、バスゆっくりとバスを発進させた。やがて高速道路に進入し、以前と変わらず時速八十キロまでスピードを上げた。

 バスは予定時刻から二時間時間以上遅れて、ユトレヒト駅前の停留所に停車。数名の乗客を降ろしただけで、再び北上した。


 その後、同じく予定時刻よりも二時間以上遅れて、アムステルダムの町の南東の外れにある『アムステル』という名のローカル線の駅前に停車した。

 そのアムステル駅に隣接しているのは、このバス会社の支社であり、車両倉庫と整備基地でもあった。ヘッドライトの破損したこのバスは、どうやらこの基地で整備されるらしい。


 整備基地の中から現れた水色のYシャツの制服を着た中年の男が、停車したバスに近づいてくる。

 彼は、途中で破損したヘッドライトを見つけたらしく、未だ席を立たない運転手に、おどけた仕草を見せた。

 ——やっちまったな。

 事故の詳細を知らなければ、そんな風に同僚をからかいたくもなるのだろう。

 他方、運転手の背中はピクリとも動かない。無反応でやり過ごしたようだった。


 やがて運転手はバスのドアを開けた。ドアの開放と同時に、彼は乗客たちに一瞥もせず無言のまま、足早にタラップを降りた。そのまま車外で、バスの側面のトランクドアを乱暴に開けたらしい。

 ドタン、と乾いた音と共に僅かな振動が車内に伝わってきた。


 僕が車外に出た時、もはやそこには運転手の姿はなかった。乗客たちが思い思いにトランクから自分の荷物を取り出していた。


 彼らは徐にアムステル駅の駅舎に向かって歩き始めた。

 アムステルダム中央駅に向かう筈のバスが、アムステル駅に到着したのだから、取り敢えず目指す場所だけは決まっていた。


 僕も他の乗客たちの後を追って、アムステル駅の改札まで歩く。

 そして、頭上の路線図を見上げて、ここからアムステルダム中央駅までのルートを探った。

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