邂逅編3 胡蝶の夢①



 僕は校舎裏の影でぼんやり空を見上げていた。いつもと変わらない景色が映る。冷たい風が吹き抜け、少し汚れた僕の髪を揺らした。制服で口元に貼り付く血を拭う。また父さんに気付かれないように洗わないとな、と思った。


「僕の日常、もう少しでちゃんと変わるかな……」


 ここは「変えてやるぞ」と強く意気込むところかもしれない。でも、今の僕は流石に疲れている。心も、身体も。だから少しくらい弱気になる事を許して欲しい。


「もう少しなんだ。もう少しだけ頑張って耐えれば……きっと……」


 あと一週間。あと一週間だけ耐えれば、少なくともこの生活は絶対に終わりを迎える。

 卒業式。それはこの中学校から卒業するとともに、彼等からの解放も意味しているのだ。そう考えれば長くて退屈な予行練習だって楽しくさえ思えるし、彼等から殴られた痛みも不思議と感じなくなる。




 最早、最初の原因なんて覚えていない。彼等とぶつかってしまった事が原因かもしれないし、何か気に障る事を言ってしまったのが原因かもしれない。もしかしたら彼等のストレス発散の捌け口に、運悪く僕が選ばれてしまっただけかもしれない。とにかく、理由は忘れてしまった。


 僕は、同じ学校の生徒数人から――俗に言う虐めを受けている。最初の頃は抵抗した。やめてくれとも訴えた。でも彼等は聞き入れようとしない。痛くて痛くて、嫌だった。登校も苦痛に感じた。どうしても逃げ出したい時は、心の中で父さんに謝りながら学校をサボったりもした。


 今思うと、もっと周りの友達や先生たちに助けを求めればよかったのかもしれない。でも僕は、いつしか諦めてしまった。やめてと訴える主張はおろか、助けを求める言葉さえ、吐き出す事なく飲み込んでしまった。


 言い訳をするならば、父さんに余計な心配をかけたくなかった。理由は聞かされていないからよくわからないが、幼い頃に父と母は離婚し、僕と、少し歳の離れた姉さんをひとりで育ててくれた。遅くまで働く父さんを支えようと、姉さんと僕は一緒に家事を頑張っていた。

 でも、頼れる姉さんも次の冬頃には家を出てしまう。母さんのように悲しみと一緒に離れる訳ではない。人生のパートナーと幸せな未来を歩む為の門出だ。だから僕は笑顔で見送らなければならない。そして、僕が父を支えなければならない。

 その為にも、幸せを脅かすような余計な心配はかけたくない。


「早くこないかな、卒業式」


 彼等とは違う学校に進学する。だからこの生活は強制的に終わりを迎え、新たな日常が始まる筈だ。そうすればきっと、明るい未来が待っている。今度こそ友好な人間関係を築いてみせる。大丈夫、他人の顔色を窺う事には慣れた。相手の発言にも注視すれば問題ないだろう。


 そんな事を考えながら、僕は再び澄み渡る青空を仰ぐ。いい天気過ぎて、まるで天気も僕の事を応援してくれているみたいで――ほんのちょっとだけ気分も晴れた。



 ◇



 残りの日数を指折り数えながら希望に胸を膨らませ、遂にその日はやってきた。待ちに待った卒業式である。名前を呼ばれて証書を受け取る時、とてもいい返事ができたと自覚している。人生の中で一番の返事だったかもしれない。


「てめえ、あんなに威勢のいい返事できるならここでも声上げてみろよ!」

「パパママ助けてー、ってな」

「あはははっ!」


 華々しい卒業式の帰り、僕は彼等に捕まってしまった。これで最後と思えば笑いながら切り抜けられそうな気もするが、やはり痛いものは痛いので笑えない。腹を押さえながら、僕は耐える。酷く苦しそうに息を乱しながら「や、めろ……」と訴えてみるが、効果はなし。それどころか逆効果だったらしく、腹部を思い切り蹴られた。痛い。でも泣く程に痛い訳じゃない。僕なりの防衛策として、教科書数冊を服の中に忍ばせている。それが上手く緩衝剤になってくれているので、意識を飛ばず程の痛さはない。まあ、立つのは苦しいくらいには痛いけど。


 僕は彼等の罵倒や暴行に耐えながら、とりあえず今日が終わったらこの教科書は捨ててしまおう、なんて考えていた。ああ、でも勉強の内容次第では捨てるのはまだ早いかもしれない。


「いい加減何とか言っ――」


「うおりゃああああぁぁ!」


 ――――バキィッ!


 変な音がした。僕がゆっくり顔を上げると、顔面蒼白な彼等のすぐ横の木が不自然な感じに折れている。その下には無残に折れた木と重そうなブロックが落ちている。恐らく、飛んできたブロックが木を折ったのだろう。それよりブロックが飛んでくるとか、当たったら即死な気がする。


「てめえ、あれを避けるなんてやるじゃねえか」

「……いや、避けないと死ぬから」


 どうやら、とんでもない現場に遭遇してしまったらしい。この学校の番長として恐れられる人と、そのライバルの喧嘩だ。通称、銀狼(シルバーウルフ)と金虎(ゴールドタイガー)の抗争。ライバルである金虎の人とは同じクラスだけど、いつも無口な一匹狼って感じだし、僕なんかとは全く接点がなかった。少しかっこいいと思ったことはあるけど。でもきっと、今後も彼と僕に接点はないだろう。僕たちとは次元の違う人種――俗に言うと、不良に分類される人たちだから。


 そんな事よりも、突然の危険人物二人の登場によって圧倒された彼等は、僕に見向きもしないで慌てながら逃げ去ってしまった。僕も巻き込まれないようにこの場から離れなきゃと思い、重い身体を無理矢理奮い立たせる。


 偶然の産物にしろ、この二人の登場によって状況は一変した。結果的に僕はこの二人に助けられたと言えるだろう。少し離れた場所まで歩いてから、足を止める。振り返ってみたら、まるでドラマのような殴り合いの喧嘩をしているのが見えて、僕は改めて生きている世界が違う人たちなんだなあと再確認した。


「とりあえず、ありがとう」


 もう会う事はないだろうけど。でも、もしもこの人たちが更に悪名の方で有名になって、伝説みたいに語り継がれたら――接点はなかったけど中学が同じだった、くらいは言うかもなあ。


 そして僕はゆっくりと歩き出す。こうして僕――夢東明亜は、中学校を卒業した。



 ◇



 世の中には僕と関わらない人種がいっぱい居る。


 例えば総理大臣。演説現場に遭遇しない限り見かけないだろうし、道端で偶然出会うなんて奇跡もないだろう。マスメディア関連の職業を選択する気はないので、僕が将来関わる可能性は極めて低い。


 例えば有名なアーティスト。その人の熱心なファンならば追いかけたりするかもしれないが、僕の心をそこまで動かす芸術家や音楽家は思い浮かばない。

 確か隣町に、僕とそう歳も離れていない人が海外のコンクールで優勝したとかいう噂を聞いた気がするが、精々その程度だ。隣町でも、興味がなければそれっきり。ニュースを見た時には「へえ、凄いなあ」と感心したけど、今となっては何のコンクールだったかも忘れてしまった。やっぱり僕が関わる可能性はないであろう人種だ。

 でも隣町か――もしかしたら偶然すれ違ってたりくらいはするのかもしれない。


 例えば不良と呼ばれる人たち。自分で言うのも変だが、僕はこの近辺では進学校に分類される高校に入学した。だから少し賑やかな人は居ても、暴力に手を染めるような人は居ない。新しくできた僕の友達も皆そうだ。喧嘩をする時には口論止まり。まあ、それはそれでちょっと怖い時もあるけれど。


 高校生活にもすっかり慣れ切っていた僕は、不良と呼ばれる人たちと関わり合う訳がないと思っていた。そう思いたかった。


「おいてめえ、どこの高校だ?」

「空商とか言わねえだろうな? ああ?」


 運が悪かったんだと思う。

 授業が終わり、まっすぐ帰宅した。夕飯はカレーにしようと思ったので、制服から私服に着替えて足りない具材を買いに行った。その帰り道、偶然、こんな事を聞かれたのである。

 そういえば今日の星座占い、運勢は最下位だった気がする。


「海言学院です……」


 制服のまま買い物に行けばよかった。学生証を見せれば納得して貰えるだろうかと思ったけど、確か制服のポケットに入れっぱなしだ。

 そういえば今日の星座占い、忘れ物には気を付けてとアドバイスされた気がする。


「まあ、空商だったら俺たちに殴りかかってくるか」

「チッ、無駄足かよ」


 僕が高校生活を楽しんでいる傍ら、別の高校は大変な事になっているらしい。出会い頭に殴るとか、ドラマの世界みたいだ。面倒事を避ける為にも、流石に現状を把握していた方がいいかもしれない。備えあれば憂いなし。


「おい、関係ない奴まで巻き込むな」


 その時、僕に絡んできた不良たちを牽制するように、聞き覚えのある声が耳に入った。僕は思わず「あ」と声を漏らしてしまう。


「……ああ、中学の」


 もう会う事はないだろうと思っていた。僕の前に現れたのは、同じ中学で危険人物のように恐れられていたひとり。接点は全くなかったが、同じクラスだった金虎――表西くんだ。



 ◇



「えっと、あの時はありがとうございました」

「あの時?」


 僕は表西くんに頭を下げ、お礼の言葉を口にする。中学の卒業式の日。結果的に僕は銀狼と金虎の抗争に助けられた。本人は助けたつもりはないんだろうけど、一応お礼をしておかなければならないだろうなと真っ先に思ったからだ。


「卒業式の時。結果的、僕はあの喧嘩に助けられました」

「あー……あれはまあ、気にしないで」


 すると表西くんは溜息混じりで「それより」と続ける。


「あんたは大丈夫だった? 殴られてたみたいだけど」


 まさかそんな言葉が出てくるとは思わず、僕は開いた口が塞がらなかった。普通に、他人の心配とかする人なんだ。少し、否かなり意外だ。


「僕は大丈夫。それより君は? ブロック飛んできたんだよね?」

「あの馬鹿、加減知らないみたいで。本当に死んだらどうすんだって話だよ」

「……もしかして」

「ん?」

「君って、本当は喧嘩嫌いなの?」


 意外に常識人だった表西くんに恐る恐る問いかけてみると、表西くんは驚いたように蝋色の瞳を見開かせる。あ、この表情はヤバいかもしれない。調子に乗って下手な発言をしてしまったかもしれない――と思っていると――。


「んー、半分正解で半分はずれ。どうしてそう思った?」


 別に怒らせてはいないみたいで安心した。ほっと息を吐きながら「超えちゃいけないラインはちゃんとわかってるみたいだったから」と呟くと、表西くんは少しだけ口の端を持ち上げながら「ふーん」と何故か納得している。僕には何故ここで納得するのか意味がわからない。


「あんた、真面目な奴だ」

「たまに言われます」

「でも臆病」

「うっ」

「それで、優しい」


 だんだん褒められているのか貶されているのかわからなくなってきた。本音か嘘かもわからなくなってきた。表西くんの真意は、僕には掴めそうもない。


「あんた、ちょっと俺の愚痴に付き合ってよ」


 楽しそうにしながらそう告げた表西くんに対し、僕は「へ?」と間抜けな声を上げる事しかできなかった。

 そういえば今日の星座占い、ラッキーカラーは金色だった気がする。



 ◇



 その後、成り行きで表西くんの愚痴を聞く事になったのだが、僕は自分の認識の甘さを自覚する事になった。表西くんは、それはもう、僕が思っていたよりも遥かに“普通の人”って感じだったのだ。


 どうやら表西くんは家庭の事情で忙しい日々を送っているらしく、他人に構っている余裕がなかったらしい。中学の頃は無口で近寄り難い雰囲気を放っていたが、あれは基本的に睡眠時間に宛てていたそうだ。高校に進学した今、それは現在進行形でもあるみたい。


「ちなみに、家庭の事情ってそんなに大変なの? あっ、言い辛い内容なら言わなくていいんだけど……」

「世話だよ、世話」

「世話?」

「もうすぐ中学になる妹と弟が居てね。両親は海外に出張中」

「す、凄い……ドラマの設定みたいだ……」


 でもきちんと妹さんや弟さんの面倒を看ているなら、表西くんは優しい人だ。人を見かけだけで判断するのはやめようと心に誓った。


「最近は慣れてちょっと余裕出てきたけど、やっぱストレス溜まってて。何か学校での態度気に入らないって奴等に絡まれるからさ、売られた喧嘩は買ってたんだよ。だから喧嘩は面倒で嫌いだけど、ストレス発散できる点は嫌いじゃない」


 だからさっきは半分正解で半分はずれだったんだ。すんなり納得した。

 もしかしたら中学の頃も、表西くんは一方的に銀狼に絡まれていたのかもしれない。ライバルなんて言われていたけど、本当は巻き込まれただけだったのだろうか。


「でも、ちょっと厄介な事になっててさ」

「厄介?」

「ほら、あんたも覚えているだろ? 同じ中学の銀狼」


 今ちょうどその事を考えていたとは伝えず、僕は黙って頷く。彼とまた何かあったのだろうか。


「卒業式の時、決着つかなくて。勝負は高校に持ち越しってなったんだけど」

「もしかして、それから毎日のように……?」

「いや。俺は海言工業。あっちは空聞商業。面倒だから高校は別の事を伏せてたら、あいつ遂に気付いたみたいで」


 ちなみに現在、秋である。


「笑えるよな、半年くらい気付かないで学校中捜し回ってたらしいよ」

「君も結構いい性格してるね……」

「キレた銀狼が空商生を使って俺を捜し回ってる。あの脳筋が指示したとは思えないけど、一部の空商生が便乗して過激になってるからさ。あいつと半年ぶりに再戦してくる事にした」


 正直に言うと、そんな事をさらっと言っちゃう辺りかっこいいと思った。昔の僕ならば、その印象だけで終わりだ。でも今の僕は違う。本当の表西くんの――たぶん一片くらいを知ってしまったから。


「もし君が大怪我でもしたら、妹さんや弟さん、心配するんじゃない?」

「…………」

「表西くん」

「ちょっと長引くかもしれないからさ。一応、学生証はちゃんと持っておけよ」


 表西くんの背中を見つめながら、僕は考える。

 どうして表西くんは僕に声をかけたんだろう。たぶん出会ったのは偶然だ。声をかけたのも、ただの気まぐれかもしれない。

 どうして僕なんかに愚痴を零したのだろう。表西くんは疲れていたのかもしれない。あの頃の僕のように。僕は全部飲み込んで諦めてしまったけど、表西くんはもしかして誰かに助けを求めて――。


「表西くん!」


 いつの間にか僕は声を張り上げ、思いの丈を訴えていた。


「ぼ、僕と、とと、と、友達に! なろう!」

「……はあ?」

「僕は何の役に立たないかも、しれないけど。愚痴を聞くくらいなら、できるから……あっ、あとは怪我した時の応急処置、とか! 待ってて僕、家から救急箱持ってくるッ!」

「いや、まだ怪我してないし乗り込むのは今日じゃないから! って、おい夢東!」


 こうして、僕に新しい友達ができた。奇妙な出会い――というよりは再会だったけど、彼は僕にとって掛け替えのない友となる。そんな予感がしていた。

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