第120話 青年と救世主の真実
――SATURDAY 16:50
ビュンッと空気が切れる音と共に、何人かの悲鳴が木霊する。普段は遊具で遊ぶ子供たちや、ペットの散歩コース等で賑わう陸見公園だったが――この日は異様な光景に包まれていた。
「だ、から……俺は……」
「言え。お前、何をした」
「ひぃっ!?」
周りで泣き喚く同級生たちを気にも留めず、太一は乱暴に瀬尾の胸倉を掴む。瀬尾がもがき苦しんでいても、泣き叫んでいても、今の太一には眼中になかった。容赦や情けもなく、感情の一切が消えてしまったように無表情だった。普段の人当たりのいい太一からは想像もできないような怒り方に恐怖を覚えた瀬尾は、震える声で「何も、し、してないッ!」と涙目で訴える。
何度問い質しても真実を口にしない瀬尾に痺れを切らした太一は、ぱっと手を離す。そのまま「じゃあ、さっきのあれは何なんだよ」と冷たい目で言い放ち、瀬尾の胴体を容赦なく竹刀で叩いた。
「うぐっ!」
「さっさと答えろ。お前は凍夜に何をした」
痛みによって臆したのか、瀬尾は脇腹を押さえながら「俺は、ただ……」とやっと真実を口にする。
「親戚のおじさんが、凍夜の事を訊いてきたから……教えただけで……」
事の重大さに気付いていなかった瀬尾は、少しだけ言い辛いそうに口籠る。大人に頼ったそいう事実から、どこか後ろめたい気持ちがあったが、瀬尾は普段の鬱憤を晴らすように叫んだ。
「あのムカつく凍夜をぎゃふんと言わせてやるって言ってたから! だから俺は「ざまーみろ、水無月凍夜」って思って、それだけだッ!」
その言葉を聞いて、太一はゆっくりと竹刀を振り上げた。周囲では瀬尾に同意するように、同級生たちが「すかしててムカつくんだよ、氷華の兄貴って! あいつ、少しくらい痛い目に遭った方がいいんだよ」「そうだよ、いつも俺たちを見下しやがって。俺の兄ちゃんだって、クラスでもあんな感じって言ってたぜ!」と口にしている。
他人とは一線を画し、どことなく距離を置くように接する水無月凍夜。ピアノの腕も天才的で、子供ながらにして数々の受賞歴を誇っている。
同級生たちが言うように、それが他人を見下しているのではないかと思う時期も太一にはあった。
しかし本人的には、他人と一線を画しているつもりはなく、単に口下手なので――頭の中で色々と考えてから話すようにしているらしい。以前、自分が思った事を全て伝えたら友人を泣かせてしまった苦い経験があり、“気を遣う”事に若干の苦手意識を抱いている。
あまり友人ができなくなってしまい悲しい。
でも久々に友人ができて嬉しい――と凍夜は太一だけに密かに語っていた。
それから太一は、凍夜に関して色々と間違った印象を抱いていたと気付いた。
ピアノの技術や受賞歴も、日々の努力があってこそ。遊ぶ時間を削って、毎日何時間も練習している。
だから基本的に接するのは家族だけで、氷華とは仲がいい。氷華は凍夜は何でも知っていると勘違いしているので、たまに間違った知識を教えたりするのが最近のブーム。
水無月兄妹を思い浮かべながら、太一はじっと閉口している。未だに凍夜への不満を語る同級生たちに対して、次第にふつふつと怒りの感情が込み上げてきた。
不満があるなら本人に面と向かって言え。
お前たちに凍夜の何がわかる。
次々に言葉が溢れそうになる。しかし、一番の怒りはそこではない。
彼等の身勝手な不満で、水無月兄妹を喪うかもしれない。それに対する怒りや憎しみが、太一の中では一番強かった。
「何でそこまで北村が――」
言いかけた瀬尾の言葉を遮るように、太一はやっと言葉を紡ぐ。
「ありがとな。教えてくれて」
そして――。
「え……」
開口一番、太一は同級生たちに対して容赦なく竹刀を振り下ろした。
腕や足を押さえながら蹲る様子を見下しながら、太一は「親戚のおじさんって言ってたな。って事は瀬尾の家族に訊けばいい訳か」と抑揚のない声で呟く。その瞳には一切の罪悪感は見られず、罪悪感どころかまるで“何も感じていないような瞳”だった。
瀬尾は酷い恐怖に震えながら「許して、もう、許して……!」と連呼して泣いているが、今の太一にはその様子など映っていない。
身近な幼馴染に迫っているかもしれない危険。もしかしたら、もう二度と会う事も叶わないかもしれない。
それによって周りが全く見えなくなった太一は、静かに陸見公園を後にした。
◇
――SATURDAY 21:10
凍夜と氷華はワゴンから下ろされると、どこかの薄暗い小屋に閉じ込められた。ここがどこなのか、どうやって助けを呼ぼうかと考えつつ、凍夜はずっと意識を取り戻さない氷華の身体を抱き締める。
もしもこのまま目を覚まさず、冷たくなってしまったら――と最悪の展開を考えてしまい、凍夜はぶんぶんと首を横に振りながら「氷華……お願いだから起きて、氷華……」と呼びかけ続けた。
「父さん、母さん……太一くん……氷華……ッ」
不安を紛らわせるように凍夜が呟くと、扉の外の方からは男たちの話し声が聞こえた。
ピアニストや賞金等の単語が聞こえて、凍夜は身代金目当ての誘拐だと察する。恐らく、コンクール等の優勝賞金で大富豪にでもなったと錯覚したのだろうか。実際、コンクール会場への交通費等が嵩むので、手元に残る額は多い訳ではない。
「神様……俺はこれからどうなってもいいから、氷華を助けて……お願いします……」
氷華の身体をぎゅっと抱き締め、凍夜が消えそうな声で呟くと、氷華は「うう……」と苦しそうな声と共にゆっくり意識を取り戻した。
「氷華!?」
涙を流しながら自分を覗き込む凍夜の腹部が真っ赤に染まっていて、目を覚ました氷華は「凍夜お兄ちゃん、その怪我ッ……!」と顔を青ざめさせる。しかしそれは氷華の後頭部の怪我の返り血であり、凍夜は「俺はどこも怪我してないけど、氷華が」と続けていた。
すると氷華は自分の怪我も顧みないように、安心したような表情を浮かべながら微笑む。
「凍夜お兄ちゃんが、無事でよかった……」
「氷華……?」
その言葉に、凍夜は僅かな違和感を覚えていた。
何か、いつもの氷華とはどこか違うような気がする。
いつもの氷華ならば、例えば転んだ時は――痛みに耐え、涙を堪えながら押し黙り、最終的には堪え切れなくなって凍夜に頭を撫でられながら泣く筈だ。
しかし、今の氷華はどこか違う。
「氷華が、凍夜お兄ちゃんを護るから」
痛みに耐えるような表情もなく、涙を流しながらそう言った氷華は、優しく微笑みながら静かに立ち上がった。氷華の後頭部の怪我はかなり酷い筈だ。きっと、かなりの痛みも伴う。
しかし今の氷華は、痛みすら感じていないような――まるで、後頭部を殴打された事で“痛覚ごと吹き飛んでしまったような”印象を受ける。
凍夜は声を震わせながら「氷華、やっぱりまだ寝ていた方が――」と慌てて止めようとするが、氷華は凍夜の口元を塞いで「暫く静かにしてよう」と笑っていた。
「きっと大丈夫」
今までずっと妹を呼びかけていた凍夜が静かになった事で、不審に思った誘拐犯のひとりは「寝たのか?」と思いながらゆっくりと監禁小屋の扉を開ける。しかしそこには、無言のままでじっと自分を睨み付ける凍夜の姿しか映らず、誘拐犯は「寝てはいねえか」と溜息混じりに呟いた。
「って、ちょっと待て。確か妹の方は――」
――――ガクンッ!
「あ!?」
姿の見えない氷華を捜そうとした瞬間、膝裏に衝撃が走り――誘拐犯はその場にガタリと崩れ込む。扉の影に隠れていた氷華が思い切りタックルした事で、誘拐犯のバランスが崩れたのだ。打ちどころが悪かった誘拐犯は、思い切り頭から倒れた衝撃によって意識を飛ばし、氷華は誘拐犯のポケットからすかさず何かを奪う。
そのまま氷華は凍夜の手を引いて、急いで監禁小屋の外へと飛び出した。
「凍夜お兄ちゃん、早く!」
「う、うん……!」
土地勘のない二人は逃げ惑うように必死に夜道を走るものの、途中から氷華のペースが落ち始め、凍夜は「氷華!」と泣きそうな表情で駆け寄る。
怪我をしている氷華にとっては、走る事はおろか、歩く事すら困難だ。今まで気合いだけで何とかしていた氷華だったが、既に限界を超えている。霞む視界の中で、氷華は「凍夜、お兄ちゃん……先に、逃げて……」と懇願する。
「何言ってるんだ! 氷華を残して行ける訳ないだろッ!」
「でも、この、まま……だ、め……」
再び意識を飛ばしてしまった氷華を背負いながら、凍夜は懸命に前へ進むものの、もうひとりの誘拐犯が二人の行く手を立ち塞いでいた。
近くには黒いワゴン。恐らくこれを運転して先回りしたのだろう。凍夜は悔しそうに睨み付けていると、誘拐犯は「これ以上逃げたら、妹の命はない」と言い放ち、黒光りする拳銃を懐からそっと取り出す。
母親から「拳銃はとても危険なもの」と教わった事を思い出し、凍夜は足が凍ったように動かなくなってしまった。気丈な態度を取ってはいるものの、内心では脅えている事を察した誘拐犯は、満足するように笑いながら凍夜たちに一歩ずつ近づく。
「そうだ、そのまま大人しくして――」
「やあああぁぁっ!」
「!?」
その瞬間、謎の声が木霊した。突如聞こえた第三者の声で、誘拐犯と凍夜は目を見開かせながら顔を上げる。
近くにあるワゴンの影から、突然太一が飛び出してきたのだ。太一はそのまま目にも留まらぬ速さで竹刀を振り下ろし、誘拐犯の手から拳銃を叩き落とす。続けざまに腰を落とすと、体格差を生かして懐に潜り込んだ。
――――バシンッ!
「ッ!」
太一は誘拐犯の胴体に鋭い突きを打ち込み、一瞬で動きを止めてみせた。誘拐犯が鈍い痛みを堪えている隙を見逃さなかった太一は、再び竹刀を振り上げて頭部に思い切り叩き込む。
突然の太一の奇襲に抵抗する暇もなく、ぐしゃりと倒れてしまった誘拐犯を見下しながら、太一は「お前の所為で……」とだけ呟いた。
隙を突いたからとはいえ、華麗に大人を圧倒してしまった太一を前に、凍夜は言葉を失っていた。
しかし、いつもの太一からは結び付かないような怒りに震える瞳を見て、凍夜は一瞬だけ怖気付く。直後、すぐに「今の太一は異常だ」と確信した。
――――カチャリ
誘拐犯が落としてしまった拳銃を拾い上げる太一の姿を見て、凍夜は瞬間的に危険だと判断する。警告音が鳴るように心臓の鼓動が早まるのを実感した。
まさか、太一は――。
導き出してしまった最悪の展開に、凍夜は咄嗟に「やめるんだ、太一くんッ!」と声を荒げる。
「…………」
何も言わずに誘拐犯を見下している太一は、凍夜の叫びも耳に入れず、そのまま流れるような動作で拳銃を構えた。
「やめろッ!」
――――バンッ!
銃声が木霊する。
「やっぱり、俺には難しいや……」
ワゴンに直撃した銃弾を見つめながら、太一は自嘲するように一言だけ漏らした。
その後、誘拐犯を倒した時に氷華が奪っていた携帯電話の通報によって警察が到着。誘拐犯である瀬尾の親戚とその友人は逮捕され、氷華はすぐに病院へ輸送された。
太一と凍夜と氷華の三人は、警察から誘拐に屈せずに逃げ出そうとした勇気ある子供たちと称えられ、両親からは「危険な事はするな」とこっ酷く叱られた。
しかし泣きながら「全員無事でよかった」と抱き締められ、凍夜は静かに「ごめんなさい」と言って涙を零す。
こうして、水無月兄妹誘拐事件はひとまず幕を下ろした。
◇
――SUNDAY 15:00
グランドピアノの前に座りながら、凍夜はひとりで考えていた。
「氷華と太一くんには、何かが足りない」
自分の怪我すら見えないように、危険も顧みず。自己犠牲心の塊の如く、凍夜を護ると言って行動した氷華。
いつもの氷華ならばあんな危険な行動はしない筈だったが、まるで頭の螺子が外れてしまったように異常な行動を取っていた。
他人が見えないように、まるで目的しか見えなくなっているように行動した太一。
今回の太一の目的は“水無月兄妹を救う事”だろう。いつもの太一ならばあんな風に周りが見えなくなるような事はない筈なのに、人が変わったかの如く自分を見失っていた。
それに太一が最後に誘拐犯を拳銃で狙った時。
あれは車に向かって当てた訳ではない。
“太一は本気で誘拐犯を狙ったが、腕が疎かだった為に外した”という見解が真実だった。
また、凍夜は実際に見ていた訳ではなかったが――誘拐犯の情報を得る為に、同級生たちも攻撃したらしい。
容赦も情けも一切なく、まるで人が変わったように。
「父さんや母さんたちも、誰も二人の異常に気付いていない。二人自身も、自分の異常に気付いていない」
凍夜は自分の中で、“これから自分が取るべき行動”について纏め上げ、椅子から立ち上がった。
太一と氷華を間違った意識から救う為には。危険から護る為には。
「俺が二人を導き、間違った思考を壊さなくちゃ」
そして、太一と氷華の“真実”にひとりだけ気付いた凍夜は、静かに行動を開始した。
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