氷雪と痛覚の週末

第119話 青年と創造主の休日



 ――SATURDAY 10:00


 カフェのテラス席で悠然と足を組みながら、青年は注文したアイスカフェをじっと眺めていた。

 青年があまりにも無表情だったので、もしかしたら何か不満があったのかもしれないと店員は陰で不安に思っていたが――。


「ちょっとアイスが足りないな……」


 何も店員に非はなかった。一般的に適量だと思われるそれは、青年にとって物足りない量だったらしい。長めのスプーンでアイスクリームを掬い、口に運ぶ。コーヒーと混ざって少し溶けたバニラの風味が口の中でゆっくりと広がっていった。


「まあ、味は申し分ないけど」

「本当、そういうところはそっくりだな」


 堂々と向かいの席に座り、優雅に英字新聞を読んでいる振りをしている男に対し、青年は眉を顰めながら「それで、俺にまだ何か用が?」と不機嫌そうに問いかける。多忙な生活を送っている青年は「久々の休日を邪魔しないで欲しいんだけど」と続けるが、英字新聞で顔を隠した男は「そう寂しい事は言わないでくれ。友人だろう?」と笑っていた。青年は呆れたように溜息を吐き、容赦なく「誰が」と否定する。


「お前を友人と思った事はない」

「私は友人と思っているけどな。お前くらいだよ。神である私に対して、ここまで物怖じしない人間は」

「貶してるのか?」

「誉めているつもりだが」


 つまらなそうに頬杖を付きながら、青年は自分が何を言ってもこの男は立ち去る気がないのだろうと判断した。面倒な事この上ないが、適当に相手をするしかない。再度「用件は何だ」と強めの言い方をすると、男は笑みを崩さずに「実は少し気になってな」と呟き英字新聞を畳む。


「京の影響もあって、今回の闘いは“過去”に関連する事が多かった」

「…………」

「そこで思い出したのは、ワールド・トラベラーの過去についてだ。以前、私が彼等の過去を少しだけ調べた時に気付いたが……今の二人の起点は“あの事件”があったからこそと思っている」

「そして、それを裏でコントロールしていたのは俺だ――とでも言いたいのか?」

「本当にお前は驚く程に察しがいいな。只の人間に留めておくのは勿体ない程に」

「だから、俺はお前に従うつもりはない。勿論、友人になるつもりもな」


 少し脱線しかけた話を戻すように、男はこほんと小さく咳払いをした後、「やはり過去を覗き見るより、当事者の話も訊きたいと思って」と、いつの間にか注文していたエスプレッソを啜る。トッピングされたホイップクリームとチョコレートリキュールが舌の上でとろけ、男は幸せそうに頬を緩ませていた。青年は目を細めながら「自分で払えよ、そのモーツァルト」と言い放ち、再び長い足を組み直す。


 そして、青年は快晴の青空を見上げながら「あっちは今頃夕方か」と呟いた。そのまま懐かしい過去を思い浮かべながら、「確かあの日も夕方で――丁度、モーツァルトを練習してた頃だっけ」と自嘲するように口元を吊り上げる。




 ワールド・トラベラーの仲間である精霊たちや、今回死闘を繰り広げた夢東明亜たち。

 それに刹那や京、ノアにも、勿論シンにだって――誰しも、過去は存在する。

 それが幸せで楽しいもので溢れているか、辛く苦しいものの存在で今も尚わだかまりを残しているかは、人それぞれだ。


 しかし、幸せな思い出“だけ”で埋め尽くされている者なんていうのは、本当に一握りの存在なのだろう。大抵は、過去に何かしらの辛い想いを経験し、苦悩し、それを抱えながら生きている。


 それは、救世主であるワールド・トラベラーの二人であっても例外ではない。


 そして、二人と共に生きた青年であっても例外ではない。



 ◇



 ――SATURDAY 16:30


「うーん、やっぱりモーツァルトって弾くの難しいなあ」

「でも凍夜お兄ちゃん上手だよ。世界で一番上手」

「ははっ、世界一は程遠いよ」

「でも日本では一番だもん。きっとすぐだよ!」


 夕暮れに染まる空の下、とある兄妹が仲睦まじく歩いていた。


 兄の名は水無月凍夜。琥珀色の髪に一本の逆毛が特徴的な少年だ。髪色と同色の瞳を焦りの色で染めながら、自分を過大評価している妹を宥めている。


 凍夜は妹の過大評価に謙遜しているが、実際はそんな事もない。凍夜は幼いながらもピアノの才能を開花させ、国内のコンクールでは数々の実績を残していた。近年では国外のコンクールでも優秀な成績を収め、業界からは「奏者としてのプロデビューも時間の問題」と噂されている。


「それに、俺は別に世界一を目指してる訳じゃないからね」

「何で? 凍夜お兄ちゃんなら世界一になれるよ?」

「そうだなあ……俺は世界一じゃなくても、氷華の中で一番ならいいかな」

「じゃあもう一番だね! 氷華の中では世界一だもん」


 妹の名は水無月氷華。凍夜同様に琥珀色の髪と瞳、一本の逆毛が特徴的な少女だ。宝石のように瞳をキラキラと輝かせ、凍夜に対して笑いかける。


 二人は母親から頼まれた夕飯の材料を買い揃え、家路の途中だった。所謂、御使いである。

 凍夜は道中で氷華の話を聞きながら、仲よく手を繋いで二人は歩いている。


「今日の朝ね、太一の剣道の応援に行ったんだよ」

「あ、今日だったのか……太一くんどうだった?」

「かっこよかった! それと優勝してたよ! きっと氷華が特訓に付き合ったからだね」


 まるで自分の事のように鼻を高くしている氷華を見て、凍夜は「そうだね、きっと氷華が特訓してあげたからだ」と優しく同意していた。そのまま少し赤くなっている氷華の細腕を見つめながら、凍夜は「でも、氷華」と諭すように口を開く。


「怪我には気を付けるんだよ。氷華が好きなヴァイオリンも弾けなくなっちゃうからね」

「氷華が好きなのは、凍夜お兄ちゃんのピアノと一緒に弾いてる時だもん。ひとりで弾くのは別に好きじゃない。寂しいからちょっと嫌い」

「俺も、ピアノを弾いていて一番好きな瞬間は、氷華のヴァイオリンと一緒に弾いている時だよ」

「本当? じゃあ帰ったら一緒に弾こう!」

「そうだね。最近はコンクールが忙しくて一緒に弾けてなかったから、久しぶりに一緒に弾こうか」


 氷華はぴょんっと飛び跳ねるように「やったー!」と喜び、凍夜もつられて頬を緩める。嬉しくなった氷華が、凍夜を引っ張りながら急いで家へ帰ろうとしていた時――後ろから「おーい! 氷華! 凍夜!」と聞き慣れた声が耳に飛び込んだ。氷華はぴょこんと逆毛を立てながら「あっ、太一の声だ!」と振り返る。


 凍夜と氷華の前に現れた、道着を着た少年の名は北村太一。二人にとって彼は、隣の家に住む幼馴染だ。

 先程の氷華の発言通り、剣道に情熱をかける少年で、彼もまたその道で優秀な成績を収めている。


 竹刀を背負いながら慌ただしく自分たちに駆け寄る太一の姿を見て、氷華は「どうしたの? 太一?」と首を傾げながら問いかけた。


「さっき、ちょっと気になる事があったんだ」

「気になる事? 何?」

「でも大丈夫っぽい! だから何でもないんだ!」


 太一の発言に疑問を持った凍夜は「何かあった?」と尋ねると、太一は少しだけ言いにくそうな表情で「うーん、実は」と眉間に皺を寄せている。言うべきか、言わないべきか。太一は悩んだが、言わない事で氷華と凍夜を不安にさせるのも嫌だったので、苦笑いを浮かべながら口を開いた。


「ほら、俺たちのクラスに居るじゃん。タイショー」

「ああ、瀬尾くん」


 凍夜が首を傾げていると、氷華は「ほら、たまに突っかかてくる子。凍夜お兄ちゃんがいつも口喧嘩して負かせてる子だよ」と助言した。その言葉を聞いて、凍夜は「ああ、あの子か」と思い出したように理解する。


 瀬尾大将(セノオヒロマサ)、太一と氷華のクラスメイトの男子である。名前の読み方でタイショーというあだ名が付けられている彼は、あだ名の通り少しやんちゃなクラスの中心人物で、正にガキ大将のような存在だった。


 しかも彼は水無月兄妹や太一に対し、何かと因縁を付けて絡む事が多い。

 その原因は、太一が同じ剣道教室に通うライバルで、常に敵わない相手だったから。大将の妹もピアノを習っており、彼女も内心で凍夜に敵わないという劣等感を常に抱いているから。それと単純に氷華が気になっているからなのだが――当の三人はその理由を知る由もない。


「それで、その瀬尾くんがどうしたの?」

「実はさっき、タイショーが公園で「ざまーみろ水無月凍夜」って言ってたの聞こえてさ。凍夜に何かあったのかなって思って」

「別に変わったところはないかな」

「氷華たちね、お母さんから頼まれた極秘任務もちゃんと成功したもん」


 氷華の意味深な発言に「極秘任務?」と太一が復唱しながら首を傾げると、凍夜はすかさず「只の御使いだよ」と苦笑いを浮かべていた。瀬尾の発言が少し気になりつつも、凍夜は「どうせ勝手に言っているだけだろう」と判断し、そのまま三人は共に家路を辿ろうと足を動かし始める。


 いつものように特に変哲もない、見慣れた家路の筈だった。

 水無月兄妹が仲睦まじい事は日常だ。そこに幼馴染の太一が加わり、このように並んで歩く事も、全てが日常。


 だが、この時の日常は違っていた。


 何故か突然――呼吸が一瞬だけ止まった感覚に陥り、太一の鼻先をつんとした臭いが掠める。その直後に目の前の景色がぐらりと揺れ、まるで大きな地震が起こったかのような錯覚を覚えた。何故か立っている事すら困難になり、現状を理解できずに太一はその場に倒れ込む。


「太一ッ!?」

「太一くん!」


 凍夜は突然倒れてしまった太一に慌てて駆け寄ろうとするが、急に視界が陰った事で咄嗟に顔を上げた。顔をマスクで隠した見知らぬ男が「水無月凍夜くんだね?」と不気味な程に優しい声色で問いかける。

 本能的に危ないと察した凍夜は真っ蒼な顔で呆然としていると、隣からの「離して!」という悲鳴を聞いて我に返る。もう一人の見知らぬ男に押さえ込まれた氷華が、そこから脱しようと必死にもがいていた。


「氷華ッ!」


 氷華に手を伸ばそうとする凍夜だったが、マスク男が自分の腕をがっちりと掴んでいて動く事ができない。恐怖に支配された感情に屈せず、必死に強がりながら「離せッ!」と大きめの声で叫ぶと、氷華を押さえている男が「そいつの手以外ならどうなってもいい」と酷く冷たい声で助言していた。

 マスク男が手に持っている金属性のバットがゆらりと揺れ、凍夜は全身で危険を感じ取る。何とかしてマスク男の腕を振り払い、氷華を連れて逃げなくてはと思っても、恐怖で足が竦んでしまって動かなかった。


 呆然としている凍夜を見ながら、男が言った発言を聞いた瞬間、氷華の幼い脳裏には凍夜との会話が過ぎる。


 ――「氷華、楽器っていうものは全身を使って奏でるんだよ。ギターやドラム、トランペットとか……勿論ピアノも」


 ――「そうなの? 手とペダルだけじゃなくて?」


 ――「弾くだけならそれでできるけど、表現するなら全身を使った方がいい。ピアノの場合は、手で弾く為に全身を使う感じかな。ちょっと言葉では説明しにくいんだけどね」


 氷華はすぐに「駄目!」と叫び、男の腕に勢いよく噛み付いた。突然の痛みで腕を離してしまった男は、逃げ出した氷華に気付いて「てめえ!」と叫ぶ。

 ここで逃がしてしまってはいけないと思った男は、氷華を追いかけようとするが――氷華はその場から逃げる訳でもなく、凍夜の方に向かって飛び出していた。


 ――凍夜お兄ちゃんを護れるのは、氷華しか居ない!


「ッ!?」

「凍夜お兄ちゃんは駄目ッ!」


 ――――ガンッ!


 目を瞑って痛みに脅えていたのだが、すぐ目の前で鈍い音が響き渡り、凍夜は恐る恐る瞼を上げる。

 視界に映ったのは、金属バットを振り翳すマスク男ではなく――後頭部から血を流しながら倒れる妹の姿だった。


「ひょ、氷華……氷華ッ!?」

「おい、あれ死んだのか……?」

「このまま残すのは流石にヤバイ! そのガキも連れて行くぞ!」


 近くに停めてあった黒いワゴンに押し込まれても、凍夜は周りが見えていないように必死に氷華の名を呼び続ける。

 凍夜にとっては、見知らぬ男たちに誘拐された事より、妹を喪うかもしれないという恐怖心の方が強かった。



 ◇



 ――SATURDAY 16:35


「!」


 車が遠ざかって行くエンジン音を聞きながら、太一は勢いよく顔を上げた。どうして自分が倒れていたのか、思い出せない。未だにくらくらする頭の中、必死に状況を理解しようと周囲を見渡した。


「氷華と凍夜が、居ない……?」


 ビニール袋から転がり落ちた野菜たちが、無残に踏み潰されている。路上には赤い飛沫まで見えてしまい、最悪の予感が太一の頭を過ぎった。太一は「もしかして」と声を震わせ、蒼い顔で遠ざかる車を見上げた。徐々に小さくなってしまった黒いワゴンを睨み付け、太一はギリッと奥歯を噛み締める。


 今日、太一は県の剣道大会で優勝した。このまま家に帰れば、今日はいつもより少し豪華な夕飯が待っているだろう。

 それでも、この時の太一は家に帰るつもりはなかった。


 そして、家族や周りの大人たちに助けを求めるという考えも、頭から飛んでいた。


「俺が、助けに行かなきゃ……」


 墨色の瞳を大きく見開かせながら、太一はまるで自分に言い聞かせるように唱える。背負っていた竹刀をぎゅっと強く握り直すと、その手は血が滲む程に赤く変色している。


 太一の瞳は、やる気の炎が灯っていると言うよりも――まるで狂気の炎が灯っているようだった。



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