第93話 契約と時間の喪失


 その“少年”は、文武両道な父と才色兼備な母の間に生まれた。

 完璧な家庭環境で育てられ、小さい頃から多大な英才教育を受けてきた彼は、両親を始め周り人々から多大な信頼と重すぎる期待を、小さい身体ながら一身に受け止める事を強いられる。


「――、あなたは天才だわ」

「お前はこの医院を継がなければならない。その為には常にトップであらねばならない」

「……はい」


“少年”は優秀な父と母に恥じぬよう、必死に勉学や武術に励んでいた。それ故、彼は無意識に他人を寄せ付けないオーラを放っていたのだろう。学校では友人も全くできず、周囲からは完全に孤立してしまう。


 しかし“少年”は“それもしょうがない事”だと割り切って生きていた。例え孤立しても、両親から愛されていれば構わない。


“少年”は愛されない事に一番恐怖していた。

 この“少年”には上に一人兄が居たのだが、ある日突然――神隠しにでも遭ったかのように姿を消してしまった。あまりの突然の出来事に“少年”と一番下の弟は戸惑う。

 しかも両親も何故か“まるで兄の事なんて忘れてしまったかのように”一切の話題を出さなくなったのだ。


 そして両親は兄へと向けていた期待全てを“少年”に向けるようになった。それが彼は何故か酷く怖かった。

 もしも自分も兄のように忘れ去られてしまったら――その恐怖心を払拭するように、彼は必死に勉学に励む。

 全ては両親に愛される為に。それが、自分の生きる意味だから。


 ――お父様とお母様から愛される為、一番になる為……孤立もしょうがない事だ。


 だが、彼も只の人間である。完璧な超人ではない。



 ◇



 ある日、“少年”は酷い高熱を出してしまった。そんな中では本来の実力が出せなくてもしょうがない。

 その時、彼は人生で初めて武術大会で二位という順位になってしまった。


 ――お父様とお母様は悲しむだろうか……いや、だけど僕も不調だったんだ。きっと「次は頑張れ」と声をかけてくれる筈だ。


 しかし、二位という事実を彼の両親は認めようとしない。


「何で……何で二位なんて不名誉を取ったのよ!?」

「お前は私の息子だ! この意味がわかるのかッ!?」

「え――」

「私の息子は、常にトップで在り続けなければならない! それなのにお前は……お前は……トップでない者は私の息子を語る資格はないッ!」

「!」


 彼を待っていたのは――酷い叱責だった。

 トップに輝き続け、栄光を掴む事。世間に認められる事こそが、彼の両親に愛される為の必要条件だった。“普通の”優しい両親が一瞬で別人のように豹変する姿に、幼い“少年”は恐怖で動けなくなってしまう。


 その時、兄が消えた原因は――もしかしたら両親から見放されたからなのかもしれないと察した。

 実際、それは正しい。彼の兄は、この“異質な”両親からの重圧に耐えられなかったのだ。


 ――嫌だ、僕は忘れられたくない……僕はッ!


 母が自分を貶し、父に家を数日間追い出されている間、“少年”はずっと消えてしまった兄の事を考えて恐怖していた。

 兄は今まで、どんな気持ちで耐えていたのだろうか。

 今となってはそれはもうわからない。




 その後も必死に勉学と武術に励んだ“少年”は、見事に次の武術大会ではトップに返り咲き、その他の学問でも優秀な成績を総なめにし、再び両親に認められるようになった。幼いながらもその才能を開花させた彼は世間からも認められ、天才や神童という肩書きを欲しいままにするが――彼の心は一行に晴れない。


「これで、お父様とお母様は、僕の事を……」



 ◇



 両親が主催するパーティー会場で、成長した“青年”は静かに座っていた。


 ――僕は……一体何をしているんだろう。


“青年”は俯きながら自分の感情を隠す。周りには華やかな衣装に身を包んだ大人たちが「流石――くん、院長先生の息子なだけあるわ」「やはり両親が優秀だから息子も優秀なのかしら」という容赦ない言葉を彼に贈り、褒め称えた。悪意のないその言葉は、彼の磨り減った心にナイフのように突き刺さり、足が動かなくなる。限界が近付いていた。


 ――結局、天才と言う名を手にしても……お父様とお母様は……。


 扉の向こうでは楽しそうに笑う両親の声が聞こえ、“青年”はふと顔を上げる。しかし相変わらず足は一歩も動かず、何故かその部屋に入って行く気にはなれなかった。


「彼は本当に優秀だね。実に羨ましい限りだよ」

「はは、私と妻の遺伝子を継いでいるんだ――当然ですよ」

「そう、私と彼の息子だもの。これくらいできて当たり前だわ」

「あれの頭脳は今まで私が見た中で最も優秀だね。この前、あれと同レベルが居るのかもしれないと少し興味があって国外へ行ってみたのだが、とんだ期待外れだった。只の病弱な子供だったよ」

「病気……怖いねえ。もしもあの子が病気になるような事があっては、お二人も大変ですね」

「あれを失うのは世界的損失だ。それだけは私たちも気を付けているよ。だが、あれは病に負けるような愚かな真似はしない筈だ」

「…………」


“青年”はその言葉を聞き、頭の中が徐々に真っ白に染まる感覚に陥る。普段は厳格だが、たまには優しい、そんな“普通で理想の”両親が音を立てて崩れていく感覚だった。

 現実は彼に鋭い牙を向き、空想を容易く引き裂く。彼の才能だけを見て、誰ひとり彼自身を見る事はなかった。

 過去も、今も。そして未来も。

 彼の心の悲鳴を聞こうとする者は、誰ひとり居ない。


 その後も両親は“青年”の存在を自慢し、鼻を高くするばかりで――彼自身を褒める事は一切なかった。


 ――医者の貴方が病に負ける事を愚かだなんて……愚かを通り越して、もう貴方に対して”何も感じない”。


「貴方は人間の命を救えても、貴方という人間は誰も救えないんでしょうね」


 “青年”の空しい呟きが、誰にも聞かれる事なく静かに消えていく。その時“青年”は、兄が消えたのは、両親に見離されたからという訳ではないという事に気付いた。


「ああ、そうか。きっとお兄様が見放されたんじゃない。お兄様があの人たちを見放したんだ」




 更に才能を開花させ続ける“青年”を見た両親は、無情にも彼に対して要求するハードルを上げ続ける。天才や神童と呼ばれ、それに満足した両親は――単調な言葉だけで彼を認め、褒める。

 彼に向ける言葉は「やはり俺の子だ、次はこれを目指せ」「あなたは天才ね、流石私たちの子供」等――愛情の欠片が一切感じられない、機械的で事務的な言葉だった。

 相変わらず両親は“青年”を利用するだけで、彼の心の変化に気付いていない。


 ――もう限界だ、僕はあの人たちの事を両親として見られない。


「僕は……あの人たちに、愛してもらいたいだけだったのに……いくら努力を重ねても、それは……叶わないんだ」


 そして、そんな生活が限界だった“青年”は、自ら“頭が悪くなった”。世間からも逃げ出し、勉強もできない“振り”をしてしまう。


「お前には失望した……出ていけッ!」

「こんなに愚かな子だったなんて……あなたなんて、私たちの息子じゃないわ!」

「…………」


 利用価値がなくなったと思い込んだ両親は、実の息子である“青年”を容赦なく捨てた。



 ◇



「……もう限界だ」


 天才や神童と謳われた彼の頭脳では、今となってはひとりで生きる事も容易かったのだが――彼はもう、全てに疲れ果てていた。


「僕はもう、疲れたんだ。誰にも必要とされていない。誰にも愛されない……僕は眠りたい」


 すっと目を閉じ、幸せだったと思い込んでいた幼少期を走馬灯のように思い浮かべながら「もう、いいんだ……」と呟く。


《本当に、いいの?》


 その時、誰も居ない筈の空間に聞き慣れない声が響き渡った。しかし“青年”は全く動じる事なく、至極冷静に「誰だ」と口を開く。


《おお! 誰も居ない筈の空間、そこで謎の声を聞いてもそこまで冷静なんてね。いやあ私の方がビックリしちゃったヨ。まさか私の声が届くとは》


 妙に軽快な声が不愉快で、“青年”がゆっくり瞼を開けると――輝かしいオーラを纏った怪しい人影が視界に映った。不審に思った“青年”は黙ったままそれを睨み続けていると、怪しい人影は彼のその物怖じしない態度を気に入ったのか、一方的に喋り続ける。


《でも青年、実はビックリしてるね。顔には出していないだけで。私には何でもわかるよ。だって私、仙――ああ、間違っちゃった》

《今の私、雷電の力で青年の脳に直接雷を送っているよ。だから私、喋らなくても大丈夫》

《ところで青年は――青年じゃ呼びにくいね。青年の名前は? 青年はどうしてこんな錆びれた神社に? 青年の願いは本当に眠りたいだけ?》


「僕が喋らないからって調子に乗るな。うるさい」


《わかった。じゃあ私が当ててあげるよ》


 すると怪しい人影は、ニヤリと口元を吊り上げ、淡々と“青年”の素姓を晒し始めた。


《青年はこの界隈じゃ有名だった――天才青年だよ。でも疲れ切った青年は、全てを捨てて逃げた。華々しい地位、輝かしい名誉、糞両親、自分の名前すら――全てを捨てて、逃げたんだ。逃げた、と表したけどね、それは賢明な判断だと思うよ。だってあのままだと青年は死んじゃってただろうから》


「へえ、そこまでわかっているなら……その変な力で僕を殺してください」


《ねえ、私が名前を付けてあげようか。私、あだ名を考えるのは得意だったヨ》


 “青年”の話を聞こうとしない怪しい人影は、そのまま《どうしよっかなー、うーん》と勝手に悩み始める。最初は警戒していた“青年”も、掴みどころのない存在を前に、徐々に相手にする事自体が億劫になっていた。

 暫く怪しい人影を観察していると、それは《よし、決めた!》とぽんと手を叩く。


《今から青年は“ディアガルド”だよ。“ディアガルド・オラージュ”。でもちょっと長いから……よし、ディアって呼ぶ事にしよう!》


「由来は」


《そんなのないよ。私が適当に決めた》


 怪しすぎる存在に付けられた適当な名前でも、何故か嫌な気分はしなかった。寧ろ、新たな人生が始まる予感すらした。どうしてそう思うのかは、理解できない。


 そのまま青年――ディアガルドが自身の新しい名前を復唱していると、怪しい人影は初めて優しく微笑む。どこか満足している様子だった。


《ディアと私はどこか似ている。私の名前も二個目。私も美形。私も天才を通り越して先生や仙人と敬われたよ》


「だから、僕に情けをかけたんですか?」


 その指摘に、怪しい人影は目を丸くしていた。そのまま少し生気が戻ったディアガルドを見据え、楽しそうに笑いながら《ははっ、そうかもしれないネ》と同意する。


「あなたの奇妙な雷を使えば、僕なんて簡単に殺せる筈だ。しかし、殺してくれと頼んでも全く聞き入ってくれない。寧ろ、僕に取り入るような言動だ」


《ふふ、取り入るつもりはないよ。私はディアを利用したいだけだからネ》


「また、利用ですか」


《勘違いしないで欲しいね。私はあの人間たちのような失態は犯さない》


 本心を隠すようにくすくす笑い、怪しい人影はディアガルドの額にすっと人差し指を突き付けた。ディアガルドは面倒そうな顔をしながらも、抵抗の色は見せずに「殺してくれる気になりましたか」と冷静に問いかける。


《さーて、私は何をすると思う? 当ててみなよ、その持ち前の頭脳で》


 そして、ディアガルドは今までの会話を振り返り、簡単な推理を組み立て始めた。


 ――直接脳内に語りかけるなんて芸当、只の人間はできる訳がない。それに、ふざけた態度だが、相当頭もキレる。


「あなたは恐らく人ならざる者。悪霊か、自縛霊か、怨念か――そこまではわかりませんけど。故に、人間に憑依する形で利用したい。そして僕は、あなたの声を聞く事ができた。適性があるから、利用するには丁度いい」


《もっと神様とか守護霊とか、神々しい表現をして欲しかったけど……まあ、概ね正解だね》


 声を上げて笑う怪しい人物を見て、ディアガルドは小さく溜息を零す。しかし内心では、自分と“まともな会話”ができている事に少しだけ心を躍らせていた。


《私、ディアを気に入ったよ。そこで提案。雷電の守護精霊である私と契約してみない?》


「精霊? とんだ空想ですね」


《ま、信じるか信じないかは自由だよ》


「……契約したら、どうなるんですか」


《ディアは精霊になって、雷電を自在に操る事ができる。まあ、死んじゃってからは私みたいになるけど。それで、私はディアの身体を通して外の世界を見る事ができる。互いにいい事尽くめだネ。それに――》


「?」


《いつか、ディアを必要とし、愛してくれる者に出会えるかもしれないよ》


 その言葉に、ディアガルドは固まった。目の前には挑戦的に笑う、雷電の守護精霊と名乗る怪しい人影。雷のようにパチパチと輝いているその怪しげな瞳の中に、目に光を宿した自分を見た。


 ――ああ、僕はまた……もう一度……。


「わかりました。契約しましょう。契約なんて言葉を使うんですから……代償もあるのでは?」


《話が早いね。ディアの場合は……“時間”だ。一日の半分は強制的に眠る事になる》


「そんな事でいいんですか?」


《そうだよ。疲れ果て、眠る事を望んでいる今のディアにとっては苦と感じないだろうね――“今は、まだ”》


 ふふっと口元を綻ばせながら、ディアガルドはそっと手を差し出す。その瞳は、ディアガルドの人生の中で初めて輝いていたように感じられた。


 もしかしたら――いや、きっと――何か裏のある契約だ。それでも、ディアガルドは手を伸ばした。例え“ディアガルド・オラージュ”が適当な名前でも構わない。

 今まで積み上げてきたものや居場所、人間である本質を捨ててでも――全てを捨て、もう一度新たな人生を歩んでみたくなった。


「今まで失ってきた時間と、これから失う時間。一体どちらが無駄となるんでしょうか。いいですよ。それを見定める為なら、生きる為なら――僕の時間くらい、くれてやる」


 満足そうに笑いながら、雷電を司る守護精霊はディアガルドの手を取る。そこから流れ始める強大な精霊の力を前に、ディアガルドはつうっと冷や汗を流した。嫌な気分になる汗だったが、今となってはそれすら新鮮な気分だ。そんな中、ディアガルドの頭の中には再び雷電の声が響く。


《見たところ、現実主義者なディアだけど……空想と断言した精霊の力をここまで簡単に受け入れるなんてね。それは私でも意外だったよ。ちょっとだけ》


 内なる力を確信し、余裕の表情を取り戻したディアガルドは――誰も居ない錆びれた神社で一言だけ呟いた。


「もう一度だけ見てみたくなったんですよ、空想を」




 ディアガルドの頭脳を前にしては、雷電の精霊魔法を自在に操る事も容易かった。


 その後、自由奔放に孤独に生きる中で――彼は運命の出会いを果たす事になる。アクという存在と――そして、後に――。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る