585話 「炎の宣告」


 アンシュラオンが発した言葉。



―――姉



 世間一般でも功罪含めて偉大な名称であるが、こと彼にとってみれば、世界を揺るがしかねない大きな意味を持つ。



「お前はオレの女たちを助けた。だから見逃してやろうと思ったが…そうはいかない事情ができた。くんくん、やっぱりだ。匂う、匂う。間違えるわけがない。姉ちゃんの匂いだ」



 生まれてからずっと嗅いできた匂いである。


 ここ最近毎日嗅いでいたサナの匂いも印象的だが、姉のものは年月もインパクトも圧倒的に上だ。忘れるわけがない。



(気付かれないように配慮はしたが…やはりこの状態がまずかったか)



 もちろん獣魔人にとっては想定外。


 我々が考える通常の匂いという意味では、ほぼ無臭であるし、極力気付かれないようにしていたつもりだ。


 ただやはり獣魔人ともなれば、発せられる波動は段違いだ。


 アンシュラオンも最初は、自分が使った駒たちが発した気配だと誤認していたのだが、もはや見逃すことができないレベルにまで至っていたようだ。



「答えろ。なぜお前から姉ちゃんの匂いがする?」


「………」


「どういう関係だ?」


「………」


「何を命じられた?」


「………」


「何が目的だ?」


「………」


「なるほどな。何か『術式』をかけられたな。姉ちゃんなら造作もないことだろうよ」


「………」



 獣魔人は、答えられない。


 そう、答えないのではない。答えられないのだ。


 獣魔人は駒の一つにすぎない。彼女に関することは、何一つ答える権限を与えられていない。


 このあたりは戦罪者に極めて似ている。



(出会えば、こうなることはわかっていた。だから避けていたのだが…最悪の状況だ)



 背後からかけられる強烈なプレッシャーは、今まで感じたことがないものだ。


 これだけの力を顕現している自分が、眼球一つ動かせない状況にある。


 なにせ後ろにいる少年は【本物】なのだ。



 正真正銘、災厄の魔人に連なる者。



 さきほどまで獣魔人が使っていた思想上では、絶対強者であることを意味する。


 さらに最悪なことに、彼は非常に苛立っている。



「オレが、オレが…! オレが自由に生きて! 自分の意思で楽しんでいるのに、お前たちは邪魔をするのか!!! ふざけるなよ!! オレの獲物は誰にも渡さない!!! 殺す、殺す、殺す!!」



 ゾワワワワワワッ!!


 獣魔人の髪の毛が、発せられた殺意に反応して逆立つ。


 弱い生き物が本能で毛を逆立て、自分を大きく見せようとする行為と同じだ。


 これがすでに実力の差を如実に証明している。


 だが、この瞬間、獣魔人はふと思った。



(なんという…圧力! す、素晴らしい! これが…あの御方たちの本当の力!! 普段はまず見られることがない魔人の力!! それと比べて、今の私はどこにいるのだろうか? どれくらい通用するのだろうか?)



 どうして彼が、こんなことを思ったのかはわからない。


 おそらくJBと賢者の石を圧倒的な力で粉砕し、『調子に乗っていた』のかもしれない。


 血に酔う、といった表現が適切だろうか。血の興奮によって気が大きくなっていたのだ。


 平常時ならば絶対に考えない、ちょっとした好奇心。戦国時代や三国志ならば、主がいない間に城を乗っ取れるのではないかという、ちょっとした野心。


 ラブヘイアという男は純粋だ。


 そこまでの野心はないにしても、憧れの存在を目指して、人であることを捨てようとしているほどの人物だ。


 なればこそ、そう考えるのも致し方がない。それが武人という生き物なのである。



「オレの大事な女たちは、誰にも渡さない!! オレのオレのオレの、オレのものだ!! オレの所有物に手を出すやつは、姉ちゃんだって許さない!!! オレは誰にも支配されない1! 全部オレのものだ!!」



 現在のアンシュラオンは、防衛本能が極めて高まって凶暴な状態にある。


 ずっと姉を怖れて生きてきたのである。彼女が来てしまったらゲームオーバーだ。


 恐怖。愛情。反発。


 姉弟特有の特殊な感情が入り混じり、自分で自分を制御できない精神状態に陥りつつある。



(あの御方の弟君。白い英雄と戦って勝ち目などはない。だが今の私ならば、一太刀くらいは入れられるのではないだろうか? これだけの力だ。自分を測るための良い機会かもしれない。今ならば、この一瞬ならば…いける!)



 自分とて同じ魔人の力を有している存在。


 ならば少しは、と思うのが人情だろうか。


 そして、意を決した。




(私は、私は!!! あなたに近づくために―――)




 初めて見た時から、心に焼きついた。


 一瞬たりとも忘れたことなどはなかった。


 白き輝き。最高の英雄の資質。超常なる力の片鱗。


 だから求めた。ただただ求めた。


 だから、だから、その成長を少しでも認めてほしい。


 かつては指で簡単に止められた剣撃。それを覆す力を見せたい。


 憧れの人に「強くなったな」と思われたい。


 彼の心情を素直に表現すれば、こんな清いものだったに違いない。


 誰にでもある感情であり、誰にも責めることはできない。




 獣魔人が背後を振り返った。




 まだアンシュラオンは、姉のことに気を取られて怒り狂っている。




 これならば十分に間合いに入れる。






 そう思った瞬間―――








―――ブツリッ








 世界が、完全なる闇に包まれた。


 何も見えない。何も感じない。


 テレビが壊れた時のように、ブツリと切れた世界には完全なる暗黒だけが佇む。


 ただし、その状況で唯一、わかったことがあった。





―――自分が【死んだ】





 という事実だけが、直感としてわかってしまったのだ。


 何が起きたのかはわからない。


 すべてが知覚されないまま死んでしまった。


 彼に残されたのは、その事実を認識する刹那の時間だけ。


 ある意味では、これだけでも慈悲だろう。



(ああ、なんて愚かなことを考えたのだろう。なぜ、ただの蟻にしかすぎない私が、天に届くと思ったのだろうか。これが現実なのだ。永遠に届かないのだ)



 どれだけ自分が強くなろうとも蟻は蟻にすぎない。


 自分が巨大な存在になったと錯覚した、小さく愚かしい生物にすぎないのだ。



 なぜならば、すべての存在の頂点に立つのは【彼と彼女の二人】のみ。



 それは最初から決められていることである。それこそ天の理、世の理。


 さきほど己が、JBに対して述べたではないか。傲慢にも偉そうにして。


 だが所詮、自分も彼と同じ存在なのだ。魔人から見れば、すべては平等なのだから。


 同時に、それが嬉しかった。




(永遠に届かない。だからこそ…美しい。やはりあなたは…私の憧れだった)




 そして、ラブヘイアは死んだ。







「ちっ!! 殺しちまった!!」



 殺した側のアンシュラオンも、ほとんど反射的に殺していた。


 防衛本能が過敏になっていたこともあり、警戒態勢は万全だったのだ。


 彼が言っていた「動けば殺す」は事実だった。


 獣魔人の速度は、ほぼ意識と同じレベルであったことは間違いない。


 そうでありながらも【本気のアンシュラオン】から見れば、スローモーションのような動きに見える。


 相手が動いた瞬間、アンシュラオンは考えるよりも早く真後ろにまで迫り、心臓に貫手を突き刺していた。


 それだけで相手が死なないことはわかっていたので、戦気を膨張させて心臓ごと上半身を破壊。


 その次の瞬間には首を撥ね、捕まえて固定し、もう片方の拳によって頭部を完全に破壊していた。



 残されたのは、獣魔人の下半身だけ。



 すべてが刹那の時間で行われたことだ。覇王や姉によって、殺しの技術を徹底的に教え込まれた彼は、これらの動作をほぼ無意識で行っていた。


 その状態に至って、ようやくアンシュラオンも我を取り戻す。



「くそが!! 雑魚のくせに戦意なんて向けやがって!! これで姉ちゃんの情報が得られなくなった!!! この役立たずが!!」



 たとえば捕まえた虫を観察していたら、噛まれてついついカッとして、勢いで握り潰してしまう現象に似ている。


 本気になったアンシュラオンからすれば、獣魔人などこの程度の存在にすぎない。


 だからこそ腹立たしい。こんな雑魚に自分が苛立ったことが。


 しかし、もう殺してしまったのだから仕方がない。


 そこは割りきって冷静に―――などなれない!!



「やばいぞ!! 姉ちゃんが近くにいるのか!?! だとしたら…逃げないとやばい!! もう利権なんてどうでもいい! 今すぐ遠くに逃げるんだ!!」



 姉が来る。


 その恐怖心の前に、冷静などという言葉は何の意味も持たない。


 グラス・ギースで得ようとしていた金も惜しいが、姉に見つからない自由な生活が大前提である。


 即座にサナたちを連れて逃げる。それしか道はない。


 あんな化け物にどうやって対応すればいいというのか。無理だ。まずは逃げるしかない。


 だが、相手はあの姉である。そんな簡単にはいかなかった。



 ゾワリッ



 アンシュラオンの髪の毛が逆立った。


 皮肉にも今しがた獣魔人が同じ状態に陥っていたため、誰もがこの意味を察していることだろう。


 これは弱者の「強者に対する反応」である。


 アンシュラオンは動けない。


 彼の瞳には【炎】が映っていた。



 ブワワッ ボオオオオッ



 残された獣魔人の下半身から炎が生まれ、完全に飲み込み溶かす。


 それによってますます盛んになった炎は、一つの形を生み出した。



 炎が女性の裸体へと変わり―――








―――〈あーくん、みーっけ〉








「っ―――!?!?!!!!」





 ゾワゾワゾワゾワゾワッ!!!



 アンシュラオンの髪の毛が完全に重力に逆らい、天に向かって逆立つ。


 そして、ここに至ってすべてを理解した。




(これは―――【撒き餌】だ!!)




 撒き餌。


 獲物をおびき出すために、餌をばら撒くこと。


 今になって思えば、なぜ獣魔人という存在が野放しになっていたのか理解できる。


 魔人の力を扱う人間など、まったくもって異端にして異常。


 その力を狙う者もいれば、怖れる者も出るだろう。それが獣魔人という下位の存在であるにせよ、魔人であることには変わりない。


 近づいた人間の思惑がどうであれ、餌に釣られることになる。


 当然、食いついた獲物がどのような相手なのかを見極めることが重要だ。


 獣魔人を倒すほどの存在が、いったいどれだけいるだろうか?


 仮に倒せるにしても秒殺―――瞬殺できるほどの相手が、どれだけいるだろう?


 いるとすれば、それはもはや人間を遥かに超えた存在だけだ。



(まんまとやられた!! オレの居場所を見つけるための囮だったんだ!! 姉ちゃんに見つかった!!)



 姉にしてやられた。


 彼女の匂いに神経過敏になり、ついつい反応的に対応してしまったことを悔いる。


 いつも他人を出し抜くことに長け、矮小な者たちをあざ笑っていたが、姉を前にすれば自分も同じ状況になる。


 汗が噴き出す。目が泳いで狼狽する。


 アンシュラオンにとって、姉こそが最大の敵。


 もっとも求め愛しながら、もっとも相対する存在なのである。


 彼女と比べたら傀儡士など雑魚の雑魚。世界のすべてが無意味になる。




「くそっ…くそっ!!! ぐううううっ!! ねぇ…ちゃん!!」








「ねぇええええ――――――――――――ちゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――――――――んんんんんんんんんんんんんんんんんん!!」









 崩壊したホテル。



 自分の安住の地だと思っていた、かりそめの地を失い、少年は【吠える】。



 忘れてはならない。



 忘れることなどできない。



 姉が、あの姉が、ただ黙って待つことなんてできないことを。



 姉なくして、この【伝記】は成立しないことを。



 これは最強の姉と弟の物語であることを。



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