395話 「実戦の拳 後編」


 試合は佳境を迎えた。


 幼い少女が果敢に大人の男に立ち向かい、一時的とはいえ圧倒する。


 だが、結局最後は力負けして賭け試合は滞りなく終了。


 8.8倍というオッズは運営側には負担になるが、少女に高額の賭け金が投入されたことで十分回収も可能な数字だ。


 刺激に飢えている者たちにとっては久々のお祭り騒ぎになったことだろう。


 彼女もまた試合に出るだろうから、今後ともアイドルとして闘技場を盛り上げてほしい。




 めでたし、めでたし。




 それが運営側が描いたシナリオだ。


 しかし、彼らは一つだけ大切なことを忘れている。


 この世でもっとも重要で、唯一無二の絶対のルールの存在を。




 アカガシが前に動いて、サナに圧力をかけようとした時である。




―――ガクンッ




「…え?」



 前に重心をかけた足が、がくんと崩れ落ちた。


 まるでしばらく歩いていなかった寝たきりの患者が、初めてリハビリで立とうとした時のように、突如膝ががくんと折れたのだ。



 フラフラッ ぴたっ



 慌てて身体全体でバランスを取り、無様な転倒だけは避けることができた。


 だが、頭は軽いパニックだ。



(な、なんだ? 足が…変だぞ。どうして転びそうになったんだ? まったく、まだ寝ぼけているのか俺は。打たれた時間が長すぎて攻撃の仕方を忘れたか? こんなの簡単じゃないか。前に足を出して拳を―――)



 相手を強く殴るためには、まず足を踏み出さねばならない。


 大きく踏み出して腕を引き絞って、腰を回転させるだけだ。


 シナリオのことばかり考えていたので、少しぼーっとしてしまったのだろう。まったくもって恥ずかしい話だ。


 反省し、改めて足を動かそうとする。




 ぴたっ




 が、足が―――動かない。



 まるで足裏が地面に吸い付いてしまったかのように、がっしりと固まって動こうとしない。



(何やってんだ!! 前に行くだけだろうが!)



 その状況に苛立ったのは、当然ながら身体の主人であるアカガシである。


 どうしてこんな簡単なことができないのか。足を踏み出すくらい誰にだってできることだ。



 足が―――前に。


 足が―――前に。


 足が―――前に。


 足が―――前に。




 行―――かないぃいいいいいいいいい!!!




「ふざけるな!」



 思わず自分自身に罵倒するほど異常な状況だ。


 なんでなんでなんで、こんな簡単なことができないのか!!


 ありえない! 話にならない!!



(足なんかいい! それより腕が重要だ! 腕だけ動けば殴れるんだからな!!)



 仕方ないので腕だけでも動かそうとするが―――




 するが―――


 するが―――


 するが―――





 動―――かないぃいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!





 激しい筋トレをしたあとのように、腕がぷるぷる震えてまともに伸びない。


 ここでようやくアカガシは強烈な違和感に気付く。



 そう、身体が動かないのだ。



 どこかで自分の意思が途切れてしまったかのように、身体がうんともすんとも動かない。



(っ!! 違う! 違うぞ!! これは気の迷いというものではない!! 何が起こった!? 変なものでも食べたか! 朝食は何だった!? 昼飯は!? それとも病気か!? 急に何か変な病気にかかったのか!?)



 いきなり身体が動かなくなれば、誰だって慌てふためくものだ。


 それが試合中ならば、なおさらである。


 初めて試合に出た時は緊張して震えたものだが、それはもう何年も昔の話だ。ベテランとなった今では、まずありえないことである。



 だからこそ、わからない。



 原因がわからない。理由がわからない。意味がわからない。


 謎の硬直現象に恐怖したのか、汗が一気に噴き出す。




「…しゅっ!」


「っ!!」



 動かないアカガシを見て、サナがラッシュを仕掛ける。



 ドスンッ ドスンッ ドスンッ


 ドスンッ ドスンッ ドスンッ


 ドスンッ ドスンッ ドスンッ



 今は試合中だ。対戦相手がいる戦いである。


 こちらが動けないからといって相手も動かないわけではないのだ。



(くそっ! 俺の身体に何かが起こったのは間違いない!! しばらくは耐えるしかない! 防いで防いで、防ぎまくるんだ!!)



 動けないのだから身を固めるしかない。今度は必死になって自らの意思で防戦の構えを見せる。


 両脇を締めて、がっしりとガード。今度は腹への一撃もシャットダウンするつもりで臨む。



「…しゅっ」



 サナの拳が迫る。


 こんな小さな拳一つ、防ぐことは造作ないことだ。


 そのはずなのに。そうであるはずなのに。そうであるべきなのに。



 ドゴンッ!!



「ぶはっ…」



 少女の拳が腹に突き刺さった。


 その衝撃に思わず吹き出す。



(馬鹿な!! なぜくらった!! 十分ガードは間に合ったはずなのに!!)



 明らかに間に合うタイミングだった。絶対に防いだつもりだった。


 そうにもかかわらず少女の拳は腹に当たった。


 しかも今まで以上の衝撃が伝わってくる。



 はっきり言って―――【痛い】。



(なんだこの痛みは…!! さっきと同じパンチなのか!!? なんでこんなに…重い!!)



 少女の拳の出し方に変化はない。軌道も変わっていない。


 だが、なぜか防げない。


 そのことにアカガシはさらなる混乱に陥る。





(ようやく気付いたようだな。それが戦いの拳、つまりは【実戦の拳】だよ。試合ばかりやっていたお前たちが忘れているものだ)



 アンシュラオンがパニックに陥っているアカガシに、哀れみの視線を向ける。


 本来ならば彼も当たり前に知っているはずのものだ。


 戦うために存在する武人ならば、生まれながらに身についているものだ。


 しかし、家畜が牙や爪を抜かれるように、試合という生温い現状に甘んじた彼らは、【戦う術】を忘れてしまった。




 サナの拳は―――殺すための拳。




 彼女には手加減など教えていない。派手だがダメージのない殴り方など、一度たりとも教えたことはない。


 教えたのは『実戦における殺しの技術』だ。


 的確に相手にダメージを与え、急所を狙い、動きを鈍らせ、確実に殺すための技術である。


 サナはそれを実践しただけのことだ。普段の鍛練通りの動きでしかない。



 しかしながら、牙を失った家畜にとっては脅威そのもの。



 彼らが試合でタフなのは、相手がそれに合わせて殴っているからだ。


 真剣勝負が数秒で終わるように、本気で殺しにきている拳で打ち合えばダメージは深刻なものとなる。


 アカガシはそれを完全に見誤った。サナの拳がいつもと同じ『試合用の拳』だと考えてしまった。


 本気の実戦の拳は、いくら防御を固めていても身体の芯に響く。ダメージを与える。


 それが知らずのうちに彼を致命的な状況へと導いたのだ。



(オレたち武人にボクシンググローブはいらないんだ。いつだって血を浴びて、血を吐き出して、死と隣り合わせに生きるしかないんだよ)



 相手を殺すことでしか生きていけない哀れな存在。それが武人だ。


 武人である以上、それを受け入れるしかない。放棄も否定もできないのだ。



 そして今、サナがその力をリングという『家畜小屋』に持ち込んだ。



 たった一匹の子猫の爪に怯えている中型犬の姿は、あまりに滑稽である。





(動けない…! 身体が反応しない…!! っ!!)



「…しゅっ!」


「っ!!」



 サナは完全に動きが鈍ったアカガシの懐に入り込んで、リズム良く拳打を繰り出す。


 彼女に疲労はない。攻め疲れも見受けられない。依然として全力の拳を叩きつけてくる。


 アカガシは防御できない。しても貫通する。腕を差し入れても強引に割り込まれる。


 もはや彼にはどうしようもできないのだ。




 それによって―――滅多打ち。




 ほとんど防御もできないまま打たれ続けることになる。



 その様子に観客も首を傾げ始める。



「ん? ちょっと打たれすぎじゃないか? さすがにあれはまずいぞ」


「アカガシ!! 手加減しすぎだぞ!!」


「子供だからって甘く見ていると痛い目に遭うって!! こっちは金を賭けてんだ!! 万が一も許されないからな!!」


「そろそろ反撃くらいしたっていいんだぞ!!」



 徐々に彼に金を賭けている者たちが心配を始める。


 ただし、まだ本気の焦りではない。


 差し馬の猛烈な追い上げを知っている者が、「ちょっと出遅れているけど、大丈夫だよな?」くらいに見ている感覚である。


 今は負けていても最後には勝つという確信がある状態だ。



 だから―――気付いていない。



 今、アカガシに起こっている異変に気付いている観客はいなかった。




 ドスンッ ドスンッ ドスンッ


 ドスンッ ドスンッ ドスンッ


 ドスンッ ドスンッ ドスンッ




「ごふっ!! げほっ!」


「…しゅっ」


「ぐううっ! がはっ!」



 メキョッ ドゴンッ!!


 メキィィ ゴンッ!



 拳が突き刺さるごとに音がわずかに変わっていくのがわかるだろうか。


 これは攻撃の質が変わったのではなく【防御の質が変わった】のだ。


 ダメージが蓄積したアカガシの防御力が急激に落ちてきて、サナの拳を受けきれなくなったのである。




 そして、ついにその時はやってくる。




「…しゅっ」




―――バンッ




 サナの拳が入った瞬間、とても鈍い破裂音が聴こえた。


 本当に小さな音だったので観客席には聴こえなかっただろう。


 しかし、リング上では明らかに異常な状況が起こっていた。



「―――っ!! …ごほっ」



 アカガシが、吐血。


 口から赤い血が垂れ、よろめく。


 そのまま彼は動けない。深刻なダメージを受けたのだ。



 そこで何が起きたのか、アンシュラオンにはすべてわかっていた。



(胃と腸が破裂したな。派手な音ではなかったが、しっかりと芯に入った一撃だ。内臓にまで届いたんだ)



 もはや筋肉では防げなくなった衝撃が内臓にまで達し、胃や腸を破壊した。


 常人ならば激痛で気絶してしまうところだが、そこはさすが武人。叫び声も上げずに耐えている。



「ご…のっ…!」



 アカガシは反撃を試みる。最後の力を振り絞って攻撃しようとする。



(もう遅い。シナリオがあるとはいえ、サナを侮りすぎたな。終わりだよ)



 逆に攻撃しようとして防御が完全に疎かになった。




 その状態で、懐に入り込んだサナが―――【跳ねる】。




 今まで腹ばかりを狙ってきたサナが、ここにきて動きを急激に変化させた。


 子供が父親に抱きつくように、思いきり身体ごと突き上げた。


 その一撃がアカガシの喉に直撃。




 バギバギィイイイイ!




 反射的に顎を引いたが、顎ごと巻き込み喉を粉砕。




「ごっ―――バハァアア!」



 内臓が破裂されたダメージで喉にまで上がってきた大量の血液が、喉を破壊されたことで一気に噴き出す。




 ブババババーーーーー!




 プロレスラーの毒霧のように真っ赤な血を吐き出して、目がぐるりと反転。



 ばたん



 そのまま意識を失って倒れた。


 まるで土下座をするように顔面からリングに崩れ落ちた。


 完全なる決定打である。


 彼がこの試合中に目覚めることは絶対にないだろう。







―――シィイイインッ







 その光景に誰もが声を発しない。


 すべての人間がリング上だけを見つめて呆然としている。


 それはレフェリーを兼任するリングアナウンサーも同じであった。何が起こったのかわからないように、ただただ見つめていた。


 その間も倒れたアカガシの身体はビクンビクンと痙攣しており、口からは血が溢れ続けていた。



「試合を止めなくていいのか? 早く治療しないと死ぬぞ」


「っ―――! そ、そこまで!!! ストップだ! そこまで!!」



 アンシュラオンの声でリングアナウンサーが正気に戻る。


 そしてアカガシに近寄り容態を確認すると、慌てて手を振る。



「担架だ! 早くを担架を!! 危険な状態だ!! 死んでしまうぞ!! 早く!!!」



 ボクシングでもそうだが、前に倒れるというのは危険な兆候である。


 ちょうど反撃しようとして前がかりになっていたところに、サナのタイミングを変えた急所への一撃を受けたのだ。


 いくら武人とはいえ攻撃した側も武人だ。衝撃はかなりのものだろう。


 処置を誤れば危険である。命を失う可能性も高い。



(死人が出てもいいとは言われたが…初戦で殺すのは印象が良くないか。マシュホーと同じハングラス派閥だしな)



「見せてみろ」


「い、医者を呼ばないと!」


「オレも医者だ。ほら、離れろ。邪魔だ」


「あっ!」



 相手のセコンドを押しのけ、リングの外に運ばれたアカガシの喉に手を当てると、命気を放出。


 ごぽごぽっ じゅわぁあ


 破壊された顎と喉を癒し、破裂した内臓を修復保護してやる。


 すると次第に呼吸が安定してきた。



「すーーーすーーーー」


「顎と喉は軽く治しておいた。破裂した胃や腸はすぐには治らないが、とりあえず擬似細胞を作っておいたから、一週間もあれば普通に試合に復帰できるだろう」


「なっ……傷が……治った…?」


「医者だと言っただろう? もぐりだけどな。それより大切なことを忘れているんじゃないのか。早くコールをしてくれ。勝者がリングで待っているぞ」


「っ…」



 アンシュラオンの声で、リングアナウンサーがはっと我に返る。



 そして、リングの上に立っている小さな勝利者を称えた。







「勝者―――黒姫ぇえええええええええええええええ!!」







「あっ!? え? か、勝った…のか? あの子が?」


「嘘だろ…あんなに小さいのに…」


「す、すげぇ…! すげえぞ!! アカガシに殴り勝っちまった!!!」


「というか一方的だろうが! 一発もくらってねえよ!!」




 そのコールで観客もようやく事態を呑み込んだようだ。





―――ウォオオオオオオオオオオオオ!!





 会場全体が大歓声で揺れる。


 この中には負けた者も大勢いるだろう。大半がアカガシに賭けたはずだ。


 だが、まったく予想していなかった結果に素直に驚いたのだ。



 小さな少女が大の大人を殴り倒す。



 こんな非日常的な光景が目の前で起こったのだ。


 しかも演技ではない。アカガシは放っておけば死んだかもしれない状態だった。


 最初はあえて殴らせていたのかもしれないが、途中からは本気で対応できない状況に陥っていた。


 長いこと拳闘を見ていれば、それくらいのことはわかるようになる。




 だからこそ―――称える。




 見事に戦い抜いた黒き少女を称えるのだ。



 こうしてサナは鮮烈なデビューを飾る。



 これが地下闘技場、変革の第一歩であった。




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