344話 「ソイドダディーの死 中編」


 周囲が紫色の濃霧に包まれる。


 手に付いた糊のように触れるだけで肌にネバネバ絡みつく粘着性のもので、なかなか離れてくれない。


 濃密で濃厚で薄暗く、まるで死者の世界に入り込んでしまったかのような息苦しさを覚える。




 この発生源は当然ながら―――ファテロナ。




 むくり



 多くの人々の視線が集まる中、その中心地点にいた彼女が立ち上がる。


 そして何を思ったのか、自分の胸に腕を突き入れた。


 ブスッ ぐちゃぐちゃ ぐちゃっぐちゃっ



「ヒヒヒッ…ウフフフフフッ…」



 距離があるので表情はよく見えないが、どうやら笑っているようである。


 こんな濃霧の中、引きつった半笑いの女性が自分の身体に手を入れている。


 それだけ聞けば淫猥な印象を受けるが、手を入れているのが胸部内なのだから、見ている人間は大きな恐怖を感じるだろう。


 その証拠に、ミエルアイブたちも完全に思考が停止して立ち止まっている。状況が認識できないのだろう。




「フフフ……ハハハハ……げぼっ…ごぼっ……やりました…ね? フフ、イイデスヨ。アハハッハハハハ! とってもイーイキモチ!!! まるでお嬢様の泣き顔を見たトキミタイに―――EEEEEEEEキモチィイイイイイィイイイイイイイEEEEEEEEE!!!!}




 ようやく少し目が慣れてきたので、ファテロナの様子がかすかに見えた。


 左肩はやはり砕けており、胸にも抉られた傷痕が深々と残っている。


 傷は間違いなく内臓に達しているだろう。肺と心臓にも大きなダメージが入ったはずだ。



 そのはずなのに、そこに自ら手を入れて―――



 ドバドバドバッ ボドボドボドッ


 傷口から大量の血液を掻き出している。常人には理解できない謎の行動である。




「ふぁ、ファテロナ侍従長、な、何を…! そんなことをしたら死んでしまいますぞ!!」



 その異様な光景にミエルアイブが声を荒げる。


 完全なる自傷行為である。良識のある大人ならば止めるのが普通だろう。


 思わず近寄ろうとするが、ダディーが鋭い声で止めた。



「やめろ! 近づくな!! 死ぬぞ!!」


「死ぬ…?」


「血がドバドバ出てんだよ! わかるか!? 全部【毒】なんだよ!! てめえらじゃ、吸い込んだら数秒ももたないぞ!」




 ……血液?



 そうだ。血液である。





 彼女の血液は―――毒。





 特に人体に対してひどく危険なものであり、臭いを嗅いだり肌で触れただけでも死んでしまうほどの強毒だ。


 ダディーによって大きな損傷を受けたせいで大量出血している。それが【急速気化】して周囲に濃霧として展開されているのだ。



 だから―――




「ううっ…げぼっ!! ごほっ!!!」


「くるし……がぼおっ……息が…! できな…ごぶっ…」


「くそっ…こんな…ことで……俺らが……ごぼっ」



 濃霧に包まれた者たち、衛士や工場作業員、果てはソイドファミリーの構成員までもが倒れ始める。


 その誰もが目や口から血を出していた。ハンベエの毒煙玉と同じ症状である。常人なら数秒で死に至るだろう。



「やめろ! ファテロナ! このままだと衛士たちも全員死ぬぞ!!」


「ご無体な。この傷を付けたのは…あなた様でございましょう? ウフフッ、アハハハハ! ヒーーーヒヒヒッ! 私は何もしておりませんよ。ええ、そう、私の穴を広げただけ。私の秘密のアナーーーーをおおおおおおおおNEEEEEE!!!」



 ごぼごぼごぼっ べちゃっ


 さらにファテロナは自ら胸を抉り、血を吐き出していく。




「フフフフ…べつにイイデショウ? お嬢様さえ生き残れば、あとはドウデモ…EEEEEEEのです!!! ハァアアーー!! タマンネーー! きもちEEEEEEEEE!!」




(本物のイカレ女だ。こいつは…本当にまずい)



 ソイドダディーが思わず戦慄する。


 毒に対してではなく彼女の狂気の沙汰に関してだ。


 ファテロナはべつに毒濃霧を生み出すために血を掻き出しているわけではない。彼女がそれを生み出す理由はない。


 ただ彼女は【自分が気持ちいい】から、そうしているにすぎない。


 そう、いつも毒を封じて生きている。一応は領主に雇われている立場なので、他の人間を殺さないようにいろいろと閉じ込めて暮らしている。


 それが相当なストレスになっているのだろう。もともと猟奇的で狂気的な彼女にしてみれば自分を抑えることは非常に苦痛だ。


 ベルロアナがいるから我慢しているが、本当ならば常にありのままでいたいと願うのが人間というものであり、武人の本質でもある。



 だから―――解放感。



 自分自身をすべてさらけ出していることに強い快感を得ているのだ。


 それ以外のことは何も考えていない。衛士隊が巻き添えになろうがソイドファミリーの連中が死のうが知ったことではない。


 彼女にとっては面白い存在であるイタ嬢さえいればいい。それ以外はすべて、そのときに楽しめればいいと思う程度の玩具にすぎない。


 完全に狂っている。


 もともと狂っていると思っていたが、どうやら演技ではなく本物だったようだ。




(このままだと全員死ぬ! それだけは避ける!)



「ぬんっ!!」



 ボオオッ


 ダディーが戦気掌で濃霧を焼き払う。完全には無理だが、やらないよりはましだ。


 さらに工場の隣にある倉庫を指差す。



「動けるやつはあそこに行け!! 解毒剤とまではいかねえが、耐毒剤があるはずだ! あとは消紋でも使ってなんとかしろ! おい、ミエルアイブ! てめぇたちもだ!!」


「ぬっ!! 敵からの施しは受けぬぞ!!」


「そんなことを言っている状況か! 周りを見ろ!!」


「はーーはーーー、うぐっ……げほっ」


「だ、大丈夫か!! なんと! DBDの防毒マスクも通じぬのか!」



 すでにミエルアイブ以外の上級衛士の意識は朦朧としている。


 この重装甲アーマーのフルフェイスの頭部には防毒マスクも付いており、普通の毒煙くらいならば防いでしまうのだが、ファテロナの濃霧は突き抜けて侵入してくる。



(マスクも効かないのかよ! …そうか! こいつは【血液系の武人】か! 考えてみりゃ当然だ。血を武器にしているんだからな…!)



 武人にとって血が重要なのは、今までも散々述べてきたことである。


 この血の中には【無限の可能性】が込められており、オーバーロード〈血の沸騰〉は、それを必要以上に読み込むことで強い力を得る。


 それは逆に言えば、人間の中にはすでに【完全なる力】が『胚芽の状態』で眠っていることになる。


 可能性は多様性によって表現されるので、各々の人間、各武人によって血の覚醒状態は違う。だからこそ、いろいろなタイプの人間が生まれるのだ。



 であるからには、武人の中に『特殊な血』を持つ者が出てくるのは不思議ではない。



 ファテロナの場合、血そのものが毒性を持つという特異性によって、暗殺者としては抜群の資質を持っている。


 それと同時に、それだけでは日常生活を送ることができないので、自然と『血を操る』力も目覚めていく。


 たとえば、誰かを殺さないでおこうと思えば、なるべく毒性を抑えるように無意識に制御する等、自然と学んでいくものであろう。


 だが、今はどうだろう。


 彼女は興奮して素の狂気の状態に戻っている。周りなどどうなってもいい、と普通に思っている。



 それが血の毒性をさらに活性化させ―――【血液そのものが動く】領域に達する。



 濃霧として拡散された血毒が付着すると、それは宿主を求める単細胞動物のようにうねうね動き、体内への侵入を開始する。


 防毒マスクのわずかな隙間からねっとり入り込み、かすかに粘膜に触れる。それだけで毒に汚染されるのだ。



「そのままだとお前も死ぬぞ!!」



 ボオオオオオッ


 ダディーが炎龍掌で焼き払うも、次から次へと濃霧は生まれていく。


 濃霧が生まれるということは彼女の血液が減っていくことを意味する。


 武人が血を失うことは『輸血が推奨されていない世界』では非常に危険だ。


 だが、この狂人がそんなことを気にするわけもない。



「いーーE! 私は死にません…YOOOOO!! フフフフッ!! だってぇ、死ぬのは…ANATAですから…ねえええええEEE!!!]


「てめぇは少しは話し合いに応じろや!!!」



 マフィアの組長より怖ろしい存在がいるとすれば、ファテロナのような狂人だろうか。価値観がまったく違うので話し合いすらできない。




 ダメージを与えたことで状況はさらに悪化。ファテロナの血毒と精神の闇がダイレクトに露出する。



 そのうえ、これはべつに彼女の攻撃でもなんでもない。単に血液が流れて自然発生した現象にすぎない。



 これが攻撃性を帯びると―――



 ジュンッ ギュルルルルッ


 ファテロナの近くにあった濃霧が身体に張り付き、毒の防護膜を生み出す。


 失った血液を少しでも戻すことと、それを力に変換するために操作したのだろう。それによって刀身にも今まで以上の強力な毒素が宿っていく。


 その輝きはすでに濃紫ではなく、もっと深みのある強い黒紫であった。


 そこに彼女のドス黒い剣気が加わるのだから、もう何がなんだかわからないほどにヤバイ。




 ズズッ



 再びファテロナが影に消えた―――



 と思った瞬間、一瞬にしてソイドダディーの背後から出現。



 剣を振るう。



「ぬおおっ!」



 ガキンッィイィイイッ


 ダディーは前に飛びつつ回転しながら拳を払う。


 鉤爪と小剣が激突。激しい火花を散らした。



(影に移動した!? だが、炎龍掌で影は極力減らしたはずだ! さっきのとは違う! 今のは何だ!?)



 ダディーは今さっきも炎龍掌を使って、周囲を明るく照らすように努めた。


 アンシュラオン戦でやったように影侭法延えいじんほうえんを使い、自ら影を生み出すならばともかく、この状態で影隠を使っても見破れるはずだ。


 だが、動きがまったく見えなかった。移動した形跡もなかった。



「フフッ…ヒャヒャヒャヒャッ!! 自由!! 私はジユウーーー! ミンシュッ!!! トウッ!! ジエイグン、セツリツ!! グンカク、YEH!!!!」



 すごいことを口走っているので、正直訳せない。申し訳ないが、そこは察していただきたい。


 ファテロナに地球の知識はないはずなので野球同様、おそらく何か電波を遠い星から受信していると思われるが、ともかくヤバイテンションであることは間違いない。



 影隠の上位技、暗殺術奥義、『飛影とびかげ』。



 隠れるだけの影隠と違い、まさに影から影に【瞬間移動】する術である。


 この技、いや、術と呼んだほうがいいだろう。これは完全なる術式であり、言ってしまえば【簡易転移術】とも呼べる高度な術式だ。


 プライリーラが宝珠で行ったような長い距離の転移は人間には極めて難しいが、本当の短距離の転移ならば不可能ではない。


 たとえばポケット倉庫自体も、通常ならば難しいであろう空間操作術を簡易にして一般の術式に落とし込んでいる。


 それと同じように小規模のものならば、案外身近に存在するものである。飛影もその一つであろうか。


 もともと暗殺者や忍者は術士の血が半分入っている系統である。その中でより強い術士の因子を持つ者だけが飛影を使うことができる。


 ファテロナの因子は低いが、劣化しないというハイブリッドという強みがあるので、こうした上級技も使うことが可能なのだろう。



 より正確に述べれば、この術は「空間を跳ぶ」というより「時間を飛ばす」ものである。影から影という限定条件に限って「超加速」する術式といったほうが正しい。


 ただしあまりに速すぎるために、移動中は当人の意識すら間に合っていないので攻撃も防御もできず、出現するポイントも絞られるので非常に無防備になってしまうという弱点がある。


 もちろん肉体意識の速度より上なので普通の人間に対応は不可能だが、鬼神やパミエルキのような魔人ならば簡単に対応されてしまうので注意が必要だ。



 そして、彼女の剣も今までとは違う。



「SYUSYUSUSUSUSUっ!!」



 ファテロナが奇怪な声を上げながら刺突を繰り出す。


 きんきんきんっ ブシュッ!


 いくつかの攻撃は弾いたが、電光のような速度の剣がダディーの肩に触れると、皮膚が硬質化した肌を切り裂いた!



(さっきとは別物だ!! これは―――がはっ!)



 バチバチバチィイーーーーンッ


 全身を駆け巡る「否定」の感覚。自分が人間であることを否定されたかのような衝撃で息が止まる。



 これは―――『人間特効』。



 ファテロナの剣に宿っていたのは、戦罪者たちが使う暗殺剣と同じ力であった。



 暗殺術、『滅刃めつじん』。



 自身の肉体あるいは武器に『人間特効』を付与する術である。


 これが普通の技と違うのは、属性剣のように刃そのものに付与するため、技を繰り出さないでも特効の効果を得られるところだ。


 技は威力が高い反面、一定のモーションが必要なものが多く、ヒット数も決まっているので状況によっては使いにくいこともある。


 その点、通常攻撃ならば自由自在に放つことができるので、それに特効が付与される意味は極めて大きい。単純に攻撃力が二倍になるようなものだ。


 これも簡単な術ではない。『滅属性』を持つ者にしか扱えない特殊な術式だ。


 滅属性は名前が示す通り、何かを滅するための力を生み出す属性である。破壊や混沌といったものを強く象徴している。


 ファテロナは通常の暗殺者以上の血毒を持ち、『滅属性』まで持っている。破壊するために生まれたような女性であった。



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