122話 「ビッグの提案 前編」


「…うう……ぁっ…っ……」



 まるで死人のような淀んだ瞳が周囲を見回す。


 ぎょろぎょろ。

 ぎょろぎょろ。


 まだ左半分の視界は白く濁っていて完全ではないが、現状を把握しようと脳は情報を集め始める。



 まず見えたのが、すべてが清浄に包まれている青い世界。命気によって覆われた世界である。


 次に見えたのが、四角い世界。部屋の世界。人が生活するための空間が広がっている無機質なもの。


 さらに目を動かして見えたのが、有機的なもの。ベッドに横たわっている黒い少女。


 人間がまず着目するのが同じ生命であり、動いているものである。


 だから同じ人間である少女を観察しようとするが、脳はさらに能動的なものを反射で捉えていた。



 たとえば、その隣にいる―――白い影。



 少女の隣には、白髪白服の少年がいた。現在は仮面を被っておらず素顔なので、その白さもかなり際立っている。


 その少年は、その目が動きを捉える以前から、こちらを見ていたようだ。



「よぅ、気がついたか。オレのことがわかるか?」



 アンシュラオンがビッグの顔の前で手を振る。


 思えば素顔を晒すのは初めてなので、もしかしたらわからないかな、という気持ちがあったからだ。



「………」



 ビッグはしばらく呆けたように、その光景を見つめていた。


 左目はもちろん右目の調子もまだよくないので、まだはっきりとは見えないのだろう。



 が、その赤い目を見た瞬間―――理解。




「っ!! ぁっあああ!! ああああああああああ!!!」



 突如、発狂したように大声を上げる。


 この大男が出す声にしては、あまりにも弱々しく哀れみに満ちたものだ。



「ああああ! あぁああああああっ!!! っっっ!!!!」



 まるで天敵を発見した小動物のように必死に両手足を動かして、この場から去ろうとする。


 だが、彼はまだ命気水槽の中にいるので、その動きも惨めなまでに無意味。


 強いエネルギーである命気を掻き混ぜることもできず、ビクビクと痙攣しているようにしか見えない。



「おい、あまり動くな。まだ左腕は完全に治ってないんだ。暴れると、もげるぞ。叫ぶのもやめろ。顎も取れるからな」


「あっーーーっっ!!」


「ふぅ、豚の世話は大変だな…」


「おぶおぶっっーーー」



 仕方ないので命気を回転させ、洗濯機のようにぐるぐる回してビッグの口を封じる。


 しばらく続けると再びぐったりして、おとなしくなった。


 そんなビッグをつまらなそうに見つめながら、眠そうにしているサナの頭を撫でる。



「動くなと言っただろう。文字通り半殺しだったんだ。あと一分も遅ければ、お前は死んでいただろうな。ここまで治すのは大変だったぞ。三時間もかかった」



 実際のところビッグは死ぬ寸前であった。虫の息とは、まさにこのことである。



 現在の時刻は、すでに深夜。午前二時過ぎといったところだろうか。


 ビッグは特に怪我が酷かったので治すのに三時間も費やした。それでもまだ完全に治ってはいない。


 血管や細胞少しならばともかく、ちぎれた部位の再生はとても面倒なのだ。折れた骨や無酸素状態で損傷した脳細胞の修復にも時間がかかった。


 自分ならば簡単にできることも、他人の身体を治すのはやはり難しい。


 が、なんとか再生には成功。こうして無事蘇ったわけである。



「さて、役者もそろったことだ。話をしようか」


「ひっ…」



 椅子に座っているリンダを見る。


 顔色は最低に悪く、今すぐにも死にそうだが健康状態に異常はない。彼女の肌もすでに治っている。



「そんなに怯えるな。殺すつもりはない」


「っ……はっ、はっ、はっ…!! はっ、はっ、はっ!! っ…っっ!」


「また過呼吸か。鳥のメンタルは弱いな」



 が、精神は―――ズタボロ



 リンダは目を見開きながら、荒い呼吸を繰り返す。時々息が詰まるので非常に苦しそうだ。


 しかし、これでもまともになったほうだ。


 さきほど気がついた時など、狂人のように叫び狂ったかと思ったら、床に倒れて身体を痙攣させて失神。それが二回ほど続いて、今ようやくここまでに回復したのだ。


 ちなみに現在は服を着ており、檻にも入っていない。ここは八号室だからだ。


 七号室の掃除はしたのだが、リンダの精神状態が芳しくないので部屋を移動したのだ。


 おそらく今の状態だと、七号室の間取りを見ただけでも恐慌状態に陥るに違いない。




 リンダの呼吸が整うのを待つこと二十分、ただ時間だけが流れた。


 怯えた動物と一緒で、力で無理強いしても仕方ない。これ以上強硬な手段に出たら、リンダは本当に壊れてしまうだろう。


 非常に嫌々だが、鳥の具合に合わせるしかない。その間にビッグの治療も進んだ。



「もう話を聞くくらいはできるだろう?」


「…はっ……はっ……は…い……」


「豚君もいいな?」


「……こくり」



 水槽の中のビッグも、リンダのあまりの怯えっぷりに我に返ったのか、その言葉に頷いた。


 その顔には強い疲労感が滲んでいるので、彼もリンダに近い状況なのだろう。


 ただ、婚約者の前であり、男である以上は恥ずかしいところは見せられないので、なんとか気を保っているにすぎない。


 どちらにせよ両者ともども、身も心もズタボロである。



「最初に言っておくぞ。お前たちの選択肢は二つだ。オレに完全屈服して言うことを聞くか、さきほどのようになるかだ」


「っ…」



 その言葉だけで、ビッグもリンダも身体を硬直させる。


 これに関しては男か女かはまったく関係ない。人間ならば、あの姿に怯えない者はいないだろう。


 あれを見たうえで立ち向かえるとすれば、その者こそ真の英雄である。



「わ……わ、わた……し……な、な……なな…何を……すす……す、すれ…ば……」


「何もする必要はない。お前の役目はほぼ終わっている。そのまま『特に異常なし』と報告を送ればいいだけだ。…にしても、その様子じゃ普通に会話もできないな。ほら、さっさとこれを使え」



 アンシュラオンが【白い粉】とパッチを渡す。



「はぁはぁ…」



 リンダは水の入った専用のパッチに粉を入れ、軽く掻き混ぜてから腕に刺す。


 ジュワワと体内に成分が染み渡り、少しずつ呼吸が落ち着いていくのがわかる。



「ごぼっ…ぼごっ……!」



 ビッグが信じられないというような目でリンダを見て、何かをしゃべっている。


 ごぼごぼやられても気色悪いだけなので、再び命気水槽から顔を出してやる。



「そ、それは……ま、まさ…か……」



 どうやら舌は完全にくっついたようだ。


 まだ微妙に呂律が回っていないようだが、自然治癒力もあるのでそのうち治るだろう。


 それより、なぜビッグが驚いているかのほうが不思議である。



「どうしてお前が驚く? たかが麻薬だろう? お前たちにとっては当たり前のものじゃないのか?」


「…リンダ…は、や、やらない…」


「…私…だけでは……ありません。ファミリーの皆さんは……誰もやりません」



 麻薬を打って少し落ち着いたのか、リンダの様子が正常に戻ってきた。



 そう、今のは―――【麻薬】。



 シャイナが売っていた「コシノシン」という医療麻薬で、非常に高い鎮痛作用と鎮静効果を持った薬である。


 これは初めてリンダを捕まえた時、ショックが大きすぎたのか、あまりに怯えて話にならないので裏ルートで入手したものだ。


 コシノシンは依存性が高いものの、調整して打てば少し手が震える程度の後遺症で済む。


 しかし、もはやリンダは麻薬なしでは正常の状態に戻ることができなくなってしまっていた。


 こうしている今も焦点が微妙に定まっていない。中毒者というより、恐怖が染み付いていて脳裏から離れないのだろう。


 あんなことをされれば当然であるが。



「リン…ダ……」



 ビッグは婚約者のくたびれた顔を見て、沈痛な面持ちを浮かべる。


 ただ、同時に生きていてくれたことに感謝もしていた。哀しいことでも、生きているから感じられるのだ。



「麻薬組織だから全員がラリっているのかと思っていたが…単なるイメージにすぎないか。しかしまあ、他人を麻薬漬けにしておいて自分たちは真っ白のままとは、なかなかあくどいな。まあ、これでおあいこだ。立派な中毒者になれてよかったな。少なくとも一人は常連客が増えたわけだし、利益は増えるぞ」



 そんな二人のことなど気にもせず、アンシュラオンは素直な感想を述べる。


 言われてみたらその通りなのだが、二人もこの男には言われたくないだろう。


 ここにシャイナがいたら確実に「絶対に先生のほうがあくどいですよ!」と言うに違いない。誰も止める人間がいないので言いたい放題である。



「話を戻すぞ。いいか、同じことを言わせるなよ。実質的に、お前たちの選択肢は一つしかない。もうわかるな?」



 これで駄目ならば、もう単純に人質として使う以外の道はない。廃棄処分よりは有意義な使い方だろう。



「ホワイトさんに協力すれば…許して…くれますか?」



 もともと屈しているリンダが、当然ながらそう言う。


 ビッグの言葉がなければ、とばっちりを受けることもなかったので、なんとも哀れな薄幸少女にさえ見えてくる。



「ああ、いいぞ。お前だけじゃない。そこの男にも手は出さない。二人仲良く一緒だ。よかったな」


「り、リンダ…!」



 かなりまともな口調に戻ったビッグが、またまた驚きの声を上げる。彼にとっても意外だったのだろう。


 だが、リンダの精神はもう限界だ。



「私…もう無理。…耐えられない。怖いの…怖くて…しょうがなくて…やめたい。もう終わりにしたいの…」


「リンダ…それはファミリーを…抜けたいってことなのか? 見捨てる…ってこと…なのか?」


「ファミリーは好き。大好き。ダディーさんもマミーさんも……好き。助けて大事にしてくれたから…好き。でも…誰かの恨みを買って…当たり前のように……仕返しされて……こんな目に遭うなんて……耐えられない……」



 リンダにとってファミリーは恩人でもある。



 だが、同時に憎むべきものでもある。



 ビッグのように生まれながら裏の住人ではない彼女にとって、やはり裏社会は普通ではない場所なのだ。


 目的のためならば非道なこともする。自分たちが幸せになるために他人を不幸にしなくてはいけない。


 そして、その復讐で攻撃され、また報復して、再び復讐される。麻薬は必要悪だとしても、そのことに心が耐え切れないのだ。


 これはアンシュラオンに強要されたからではない。恐怖が引き金になったものの、それはむしろ彼女の中の【本音】を引き出すことになったのだ。


 コシノシンも劣等麻薬ほどではないが気が大きくなるので、今まで言えなかったことが言えるようになる。


 だからこれは、すべて本心である。それは身近な存在であるビッグが一番わかることだろう。



「ビーくん、いつかこんな日が来るって思ってた。こんなことしていたら、駄目になる日が来るって考えていたの。…終わりにしなきゃ…終わりに……そうじゃないと……もう…」


「リーたん、でも…それは裏切るって…家族を裏切ることなんだ。俺にとってはそんなこと…」



(ぶっ! ビーくん!? リーたん!? ちょっ、マジかよ! くくく、ここで笑ったら駄目なんだよな? きっついわー、これ! 我慢できるかな? それにしても、ビーくんはないだろう! 笑い死にさせて殺す気か!?)



 いきなりの恋人モードにアンシュラオンが吹き出しそうになるが、さすがにここで笑うのはやめておいた。


 せっかく話が進みそうなのだ。これ以上の面倒は御免である。


 もしこれが「ブヒくん」とかいう呼び方だったら、まず耐えられなかっただろう。その点においては感謝しなければならない。



「でも、このままじゃ…ファミリーが…潰れちゃう。みんな、死んじゃう。殺されちゃうから…それなら少しでも…残るほうが……いい」


「俺たちだけ生き残っても……いや、待ってくれ。それが前提…なのか?」


「…こくり」



 握り締めた手を震わせたリンダが、アンシュラオンの要求を代弁してくれる。


 あそこでビッグがキレなければ、最初からこうする予定だったので実にスムーズな展開だ。



「ど、どうして…全員を…?」



 ビッグは勇気を出して、アンシュラオンに声をかける。


 どうやらそれが規定路線のようなので、黙っていたら実際にそうなってしまう。


 あの魔人の恐ろしさを痛感した直後なのだ。嘘とは思えない。



「残しておいたら恨みを買うだろう? 厄介事は面倒だからな。それにお前たちに存続されると困ることがある。それだけだ」



 シャイナを完全に抜けさせるには、ソイドファミリーを全滅させるのが一番である。綺麗さっぱり、すべて真っ白にするのだ。


 だがビッグにとっては、その部分を簡単に了承できない。


 ようやく少し頭が回ってきたので、打開策を見つけようと必死になる。



「ま、待って……家族は…どうか……」


「お前の家族を残したら意味がないだろう。オレの目的は、お前たちの利権をすべて奪うことだからな。納得するわけがないし、オレはもう今回のことみたいに面倒くさいのは嫌なんだよ。動物の調教がここまで大変とは…動物園やサーカスの調教師を尊敬するよ」



 他の家族まで力で脅して屈服させるのは面倒くさい。


 簡単に言うことを聞くならばいいが、ソイドダディーが納得するとも思えない。殺すほうが楽だ。



「そ、それなら…協力……する。絶対に協力…させる! それに弟は…麻薬を作れる……!」


「知識をいただけば生かしておく必要はないだろう?」


「役に立つ…男だ…。頭が…いい」


「たしかお前の弟ってのは、ニャンプルちゃんにご執心のやつだろう? 頭がいいとは思えないがな。それ以前に、男を生かす理由が見当たらないな」



(だ、駄目…なのか? なんて男だ!)



 目の前のホワイトという男は、実に冷淡な人物である。


 自分に役立たない存在に慈悲は一切ない。しかも男に対してはそれが顕著なので、その段階で打開策が封じられたように思えた。


 しかし、諦めるわけにはいかない。家族の命がかかっているのだ。頭が悪いながらも必死に考える。



(何かないか。何か…! このままじゃ家族が殺される…! そ、そうだ! たしかホワイトは…年上の女が好きだったな……)



 一つだけ思い出したのが、ホワイトが年上好きだということ。年上の女ならば、多少の慈悲くらいはかけてくれるかもしれない。


 で、ファミリーの中で年上女性といえば、この人物しかいない。


 非常に駄目元であるが、いちるの望みをかけて言葉を紡ぐ。もうこれしか思いつかない。



「ま、マミーは……いい女だ」



 若干声が震えたのは、自分でも「無理があるかな?」と思ったからだが、自由に動けるのは口しかないので、今度ばかりはこれに頼るしかなかった。


 ソイドビッグ、一世一代の賭けである。



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