121話 「その目が見ているから 後編」


 あの時とは正反対のように、魔人の白を打ち消すように、奪い取るように、黒き少女の深淵の黒が世界を覆っていく。


 それは何の黒なのだろう。拒絶なのか、否定なのか、無関心なのか、それすらもわからない。


 だが、黒は白を包み込んでいく。それを覆すことはできない。





―――サナ




―――サナ・パム





「サ………ナ………」



 ようやく、その名を口に出す。


 サナ。サナ・パム。それが彼女の名前。彼が呼んで、応えた名前。


 彼が最高の女性にすると約束し、【契約】した相手の名前。



 契約は、単なる口約束ではない。



 魂と魂が結合するに等しく、その身を賭して、精神を賭して、霊を賭して守らねばならない。


 それだけの力を持っているのだから、それだけの責任と義務があるのだ。


 少なくとも目の前の少女を立派に育て上げるという責務がある。それは自ら望んだことだ。




 しばらく見つめあい―――人に戻る。




 アンシュラオンの中から魔人の因子が消えていく。引っ込んでいく。


 それは許したからではない。怒りは怒りとして中にまだ残っている。


 では、なぜ戻ったかといえば―――




 サナが―――つまらなそうにしていたから。




 その目が「もう終わりなのか?」「これが見せたかったものなのか?」「こんなものなのか?」という、静かで冷たい瞳に見えたからだ。


 サナは何も言わない。だが同時に目で訴える。



 これは―――【劇】



 サナのために用意した劇である。喜劇も狂劇も悲劇もすべて、サナのためになるからやったことだ。餌になるからやったことだ。


 この面倒な手間も、そもそもシャイナを助けようとしたことも、すべてはサナの栄養のためである。



 彼女が―――人間になるための。




「…サナ」


「…じー」



(そうだな…。サナは他人を【視る】。観察する。それによって自分を形成していく。ならば、オレという存在も同じように見られているんだ。面倒になったからここでキレる、ってのはルール違反だよな。パズルがちょっと上手くいかないからって、すべてを破壊するのは遊びとして根本的に間違っている。これはオレが自分で望んだことなんだ)



 このルールを作ったのもアンシュラオン自身だ。


 遊びはいつだってルールがあるから面白い。ルールを無視して、相手を殺して勝ってもつまらない。


 それならば一瞬でできること。


 領主を殺すこともソイドファミリーを即座に排除することも、アンシュラオンならば造作もないこと。



 それをやらないのは、サナのためだ。



 サナを成長させるという自身の最高の目的のためにすべてがある。そのサナが楽しくないのならば、やっても意味がないのだ。


 アンシュラオンは、サナのもとに向かい、軽く背を屈めて顔を覗きこむ。



「オレは…悪いお兄ちゃんだったか? 自分でルールを曲げるなんて最低だよな」


「…こくり」


「ははは、サナは容赦ないな。…怖かったか?」


「…ふるふる」


「そうか。怖くないか。サナは魔人だって怖くないんだな。…悪いお兄ちゃんより、今のお兄ちゃんのほうが好きか?」


「…こくり」


「…そうか。…そうだな。サナは…人間……だもんな。これから人間になるんだもんな…。なら、オレも人間のままでいないとな」



 アンシュラオンが仮面を外す。サナのも外してあげる。


 ふわりと舞ったサナの黒い髪の毛を撫でる。


 とても柔らかくしっとりしていて、自分の白い肌に一番映える黒。


 サナは少しだけ汗を掻いていた。怖れていたからではない。単に長く被り続けて暑かったからだ。



 そんなことで、汗を掻く。



 たったそれだけの存在。それが人間である。


 だが、それが愛しいと思えた。ならば、今の自分は人間なのだ。


 人間には人間の兄が必要だ。魔人ではいけない。それでは愛は教えられない。



「おかげでやりすぎないで済んだ。ありがとうな」


「…こくり。ぎゅっ」


「わかっている。約束は守るよ。オレはお前に面白いものを見せてやる。楽しいことをさせてやる。そのためにいろいろと約束しているからな。それも含めての劇だ」



 サナとの約束は当然、リンダも殺さないと約束している。


 それは人間である時に交わしたもの。人間として生きるのならば守るべきものだろう。



 バシャーー ゴロン



 リンダを覆っていた水気がなくなり、鉄床に転げ落ちる。


 かなり皮膚の表面が焼けているが、なぶっていたおかげでまだ致命傷にはなっていない。


 今すぐに命気で修復を開始すれば簡単に治るだろう。



「それと、こいつもまだ間に合うな」



 アンシュラオンが倒れているビッグに向かう。


 腕がちぎれ、目と顎を失い、首が完全に折れるという無残な光景だが、息の根を止めたわけではない。


 魔人になっていた時の嗜虐心が幸いしてか、ギリギリ殺す寸前で止めていたおかげだ。武人の生命力は凄まじいので、首が折れたくらいでは簡単に死なない。



 死は、肉体と霊体を繋いでいる【シルバーコード〈玉の緒〉】が切れた瞬間に確定する。



 逆に言えばシルバーコードが切れていなければ、まだ死んでいないということだ。


 アンシュラオンにシルバーコードは完全には見えないが、術士の因子があるので、ものすごーく目を凝らせば、切れているか切れていないかくらいは判断できる。


 ビッグは、ダディーから受け継いだ強靭な身体のおかげで、まだかろうじて生きていたようだ。


 もしうっかり心臓を潰していたらさすがに死んでいたので、少しだけ冷や汗ものである。



(サナのおかげで助かった。ちょっとしたイライラで、もっと多くの利益を失うところだったよ。目的はサナの教育と金。それを忘れちゃいけないな)



 人間として生きるのならば金が必要である。


 ホテルを借りる金、サナに贅沢をさせるための金、自分自身が好き勝手するための金。どれも大事なものだ。


 ここは火怨山ではないのだ。人間の世界では、金があればたいていのことは叶う。



 目的は、相手の組織を乗っ取ること。



 ただ潰すのではなく、麻薬の栽培および製造方法、販売ルートそのものを奪うことである。


 そのために内通者の存在は必須。仮に協力されられなくても、生かしておくだけで人質の価値はあるのだ。


 家族想いの彼らのことだ。それなりに使い道はあるだろう。



(力を持ちすぎるのも危険かもな。昔は我慢できたことも歯止めが利かなくなる。まあ、まずは金だ。それを忘れないようにしよう。金のためにラブヘイアとも組んだじゃないか。あれを思い出そう)



 地球時代は、よく我慢をしていた。取引先の人間のちょっとした言葉に苛立って殴るのは簡単だが、それによって多大な利益を失うからだ。


 我慢すれば金が手に入るのは、地球もここもあまり変わらない。


 しかも今回のことは自分が計画したこと。自分とサナのためにやっていることだ。それを忘れないように心に留める。



 命気水槽を発動。リンダともども、水槽のような命気のプールにビッグが浮かぶ。


 それと同時に、引きちぎった腕やら目やら下顎やらを一緒に入れていくと、急速に修復が開始される。


 これでようやく一安心である。



「完全に破壊しなくてよかった。命気だけだと、一から再生させるのは難しいんだよな…」



 命気も完全に万能ではない。破壊箇所が大きいと、それが自分の細胞になるまでには相当な時間がかかってしまう。


 場合によっては手遅れになることもあるので、特に部位の欠損には弱いのが弱点だ。


 事実アンシュラオンも、「昔失くした腕の再生をしてくれ」という患者の願いには、完全には応えられていない。


 やれなくはないが自分以外だとオーラの調整が面倒であるし、代金は最低でも五千万くらいもらわないと割に合わない。


 その間は手が離せないので、最悪は数日間も同じ体勢でいなければならなくなる。正直、やりたくない治療法である。



 ただし、ビッグのように元の部位が少しでも残っており、破壊されたばかりならば新鮮なので修復も容易となる。


 もちろん時間はかかるので手間であるが、最初から生み出すよりは遥かに効率的で楽である。



「はぁ…キレたオレが悪いとはいえ…面倒くさいな。姉ちゃんの術式だったら話は別だけどさ…」



 一方、パミエルキが使う術式は、強制的に細胞分裂を促して自己修復させるものなので、失われた箇所の再生に適している。


 その反面、細胞の寿命を減らすことになるので、簡単な傷の修復には向かないのが欠点だ。


 武人ならばともかく、一般人に使い続けると細胞分裂の限界がやってきて、それ以上分裂ができなくなって死ぬことになる非常に危険なものだ。


 ただそれも、魔人という特殊な因子を持っていれば問題ない。


 パミエルキがアンシュラオンを平然と攻撃していたのは、こうした理由があるからだ。



 魔人は―――人間とは違う。



(姉ちゃん…。これが姉ちゃんが言っていたことか。わかるよ。オレの中にも姉ちゃんと同じ力が眠っている。同じ存在なんだ。いつだって姉ちゃんのことを考えている。姉ちゃんと繋がりたいと思っている。でも、オレは人間として生きていくんだ)



 自分が魔人になったら、姉としか生きていくことはできない。


 何もない世界で姉と二人きり。


 それは自ら望んだことでもあるが、今こうして新しい世界に来てサナと出会った以上、そんな生き方をしていてはいけない。


 激情に任せて都市を破壊するのは楽しいかもしれないが、その後には【退屈】が残る。退屈こそ人生において最大の敵だ。


 だから、姉と同じにはならない。



「ごめんね。ホロロさんも怖かったでしょう?」


「…は、はい。で、ですが……美しい……あまりにも………か、神よ……」



 廊下でへたり込んでいるホロロにも声をかける。


 彼女も震えており、失禁間近という状態であったが、その顔は泣きながらも笑っていた。



「オレは神様じゃないよ。この世界には、ちゃんとした女神様がいるんだからね」


「それでも…私の……すべてです」


「…そう。…それもいいかな。そうであれば、オレもまだ人間でいられると思うしね」



 魔人を見て笑えるとは、ホロロも相当ぶっ飛んでいる女性である。


 リンダとは違う意味で心が壊れているのかもしれない。


 そして、そんな人間と一緒ならば自分も人間であろうと思える。



 彼女たちの【視線】があれば、自分は人間として振舞うことができるだろう。



 サナの観察する視線、シャイナのうるさい視線、ホロロの崇拝の視線。時には面倒だと思えることは、案外自分にとって必要なものなのだ。



「さて…こいつらが目覚めるまでは……どうしようかな」



 周囲を見回すと、部屋は盛大に散らかり、血に塗れていた。


 ソイドビッグが失禁した跡まである。最悪だ。臭いも酷い。



「まずは掃除かな…。ホロロさんだけに任せるのは心苦しいしね」


「…こくり」



 それにはサナも同意である。



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