119話 「魔人の逆鱗」


 豚は、その言葉を最後まで言うことができなかった。



「っ……っ―――っっっっ!!」



 言葉を発するための空気が流れない。振動させることができないからだ。



 アンシュラオンが―――ビッグの喉を左手で掴まえている。



 いつ動いたのか、いつ彼を起こしたのか、いつ腕を伸ばしたのか。その動作の何一つ、この場にいた人間には見えなかった。


 その速度はデアンカ・ギースと打ち合っていた時よりも速い。


 そう、あの時でさえ、この男は本気ではなかったのだ。


 だからこんな小さな豚に対して、彼がこれほどの力を行使するなど誰も思わなかった。彼自身でさえも。



 だが、豚は発してしまった―――禁忌の言葉を。



 それだけは言ってはいけなかったのに…!!!



「今…なんと言った」



 静かな。とても静かな声が響く。


 少年のようなボーイソプラノだった声が、妙に低く感じられたのは、けっして仮面でくぐもったことだけが理由ではないだろう。


 彼の言葉には、明らかな変化があった。



 【温度】が―――下がった。



 不思議だが、言葉にはしっかりと温度がある。


 温かい言葉には人を癒す力、励ます力が宿っている。同じ言葉でも心がこもっていれば温かく感じられ、その中に秘められた好意によって喜びに満たされるだろう。



 では、その反対になれば?



 空気が妙に冷たい。


 ここには冷房などないのに、まるで突然冷凍庫になってしまったかのように、強烈な冷気が満ちてきた。



「っ…」



 その肌寒さに通路にいたホロロが身震いする。


 吐く息すら真っ白になったかのように、世界のすべてが凍結したような感覚に襲われる。


 それは彼が凍気を発したからではない。彼は何もしていない。


 ただ、彼の気配が変わっただけ。



 人間から―――【魔人】へと変わっただけ。




「てめぇの薄汚れた目で、汚い口で、オレのサナに触れたな? てめぇが、お前ごときが、オレの所有物に触れたな?」


「っっ…っ」


「なぁ、何とか言えよ。なぁ、豚でもしゃべるくらいはできるだろう?」


「っ―――!! っっ!!」



 自分よりも遥かに細い腕に触れることもできない。


 戦気ではない。彼は戦気を放出してもいない。


 そうにもかかわらず何か見えない力が邪魔をして、ビッグの腕が、その身体自体が動くことができない。


 ぞわぞわと這い上がる【何かの力】が間違いなく存在している。しかし、それを形容する言葉が見当たらない。


 それに触れただけで人間は動きが取れなくなる。存在そのものが否定されたように、震えることしかできなくなる。


 これはどこかで見たような…。


 ああ、たしか【彼の姉】が使っていた技に似ている。竜神機でさえ動きが封じられたという、あの【災厄障壁】と呼ばれるものに。



 ぎょろり。



「―――っ!!」



 仮面の隙間から、普段は絶対に見えない赤い瞳が見えた。



 冷たいのに―――熱い。



 恐ろしく冷たい目なのに、燃えるように熱い。いや、赤いのに青い、と言うべきだろうか。


 殺気と呼ぶにも生温い何かが、ある日突然、太陽が二度と昇らないことを知った時のような、「ヒト」にとって最悪の日が訪れたような絶望感を与えてくる。


 これを形容することができない。人類には、これを翻訳する機能が備わっていないのだ。


 同じだとでも思っていたのだろうか? 同じ存在だとでも勘違いしていたのだろうか?


 ならば、もう絶望するしかない。



 この姿を見た人間という種にとって、それはまさに【天敵】。



 諺に反して蛇を食べる蛙がいる。カエルという種でありながら、彼はヘビを食べて満足そうに優越感に浸るだろう。


 だが、それは覆らない。けっして、二度と、永遠に。


 結局その蛙は、より大きな蛇に食べられる運命にあるからだ。



 そして、目の前にいる蛇は、この世界でもっとも強大な力を持つ白蛇という希少種。



 唯一対抗できるとすれば―――【同じ存在】だけ。



 同じく頂点に君臨する種族だけ。


 もし今の彼をパミエルキが見ていたとしたら、きっとニンマリと笑ったに違いない。



「ほぉら、アーシュ。よくわかったでしょう? あなたは私と同じなのよ。同一で、一緒で、この世界に二人しかいない貴重な存在なの。そして、私たち以外はすべて【家畜】なの。私たちに食べられるためだけに生きている、とっても愛らしい動物なのよ。殺してあげると鳴いて喜ぶの。奪ってあげると鳴いて喜ぶの。ねぇ? 可愛いでしょう? だからほら、あなたの好きにしていいのよ。不快なら殺してあげなさい。きっと喜ぶから」



 パミエルキの甘い、とても甘い声が聴こえる。


 この世界で唯一の同類であり、仲間の声は、とても甘美なものに思えた。



 その瞬間―――アンシュラオンは人間ではなくなった。



 全人類を搾取するためだけに生み出された恐るべき系譜、この世界でただ二人しかいない人間ではない何かになったのだ。




―――【魔人】




 『災厄の魔人』と『白き魔人』。


 それを見た人間が取る行動は、いつだって同じだ。






「ひいいい! い、いやああ!! いやあああああああああああああああああああああああああああああああ!!! いやっいやっ!」







「いや嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼ああああああああ亜嗚呼嗚呼ああああああああああああああああああああああああああああああ亜ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ亜ああああああああああああああああああ亜嗚呼嗚呼ああああああああああああああ亜あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ亜嗚呼嗚呼あああああああああああああああ亜嗚呼嗚呼ああああああああああああああああ」







 その気配を察したリンダが悲鳴を上げる。



「いやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよいやよ。助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて」



 涙を流し、助けを請う。


 もうビッグのことに意識を向けることもできない。


 ただただ恐ろしく、何も考えられないのだ。



 ガンガンガンガンガンッ!!

 ガンガンガンガンガンッ!!

 ガンガンガンガンガンッ!!



 彼女は、必死に頭を地面に打ち付けている。


 額から血が流れても、鉄床に押し付けた爪が剥がれそうになっても、やめる気配がない。



 端から見れば奇異なる行動であるが―――これは【土下座】。



 身体を震わせ、激しい混濁の意識に襲われながらも、必死に許しを請おうとしている【家畜】の姿。


 そこにはプライドなどは存在しない。してはいけない。


 これからベルトコンベアで運ばれ、機械的に細切れにされる肉片に、何のプライドが必要なのだろうか。



「ああっ…あああ!!」



 涙を流し、失禁しても、けっして頭を上げることはない。


 彼女を責めるのは酷だ。誰だってこうなる。


 どんなに心が強い人間でも、異なる存在と出会えばこうなるのだ。




 それはビッグも同じ。


 彼はその瞬間、自分の認識が大きく間違っていたことを知った。



(人間じゃ…ない)



 その時、彼が唯一心に浮かべられた言葉である。


 それを思えただけでも褒めるべきかもしれないほどに、目の前にいる存在は異質であった。


 だから彼は土下座をすべきだった。這いつくばった時、ただただ許しを請うべきだった。


 泣きじゃくって「どうか愚かで無知で醜いこの豚を、あなた様のお好きに使ってください」と言うべきだった。



 しかし、彼は【逆鱗】に触れた。



 絶対に、絶対に、絶対に、絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に―――





 触れてはいけないものに―――!!!!!







 触れたのだ!!!!!!!!!







「その汚い腕で…サナに触れる…だと!」



 逆鱗に触れられた魔人は、右手でビッグの左腕を掴み、握り潰す。


 ぐちゃっと肉が潰れ、骨が砕け、さらに握り続けるので―――切断。


 握り引きちぎる、とでも言えばいいのだろうか。


 ゼリーで出来た腕を握ったように、ぶちゅっと引きちぎられた。



 ポイッ ぐちゃっ



 それを壁に投げ捨てると、ぐちゃぐちゃの肉片となる。



「この目で…サナを見るだと!!!」



 ズブッ! ズブズブズブッ!!


 左目に指を突き刺す。眼球を破壊し、そのまま眼窩がんかに手をかけ――――――引きちぎる。



「っっっ!!!」



 骨が砕け、肉ごと引きちぎる。


 ぶちぶちと繊維が千切れる音がして、強引に剥ぎ取る。


 激しい衝撃と熱く鈍い痛みが襲った後、左半分の視界が真っ暗になる。目を失ったのだから当然だ。



「その汚い口で…何と言った?」



 口の中に指を突っ込み、戦気を放出して焼いていく。



「がっ、がっ!!」


「どうした? なんとか言えよ。言ってみろよ!!」



 ジュージュー ジュージュー

 ジュージュー ジュージュー

 ジュージュー ジュージュー



 ああ、この音は知っている。あれはどこかで…ああ、そうだ。


 牛タンを焼く音だ。


 地球では、牛の舌を焼いて美味しそうに食べている者たちがいたが、あれを焼く音に似ている。


 いや、相手は豚なので豚タンだろうか。



「ふざけたことを抜かすとな、閻魔様に舌を抜かれるんだってよ」



 ブチャッ


 焼けた舌を引っ張ると、途中で千切れて抜けた。



「あ? 嘘をついたらだったかな? まあいい。それよりなんだよ。ずいぶんと脆いな。根元から抜けなかったじゃないか」


「がっっ…っっ…」


「なんだ? 聴こえないな。言いたいことでもあるか? だが、舌がないから話せない? なるほど、なるほど」



 引きちぎった舌を持ち―――



「じゃあ、返してやるよ」


「っ!!!」



 そのまま喉に突っ込み、食道に捻じ込んだ。同時に水気を使って胃に流し込んでやる。


 食道に胃酸が逆流した時のような焼けるような痛みが走り、何かの塊が落ちていくのがわかる。


 が、胃はすでに破裂していたので、収まることなく体内に流れ出る。



「ごがっっ…っっ!!」


「くくくく、あははははは!!! どうだ? 自分の舌の味は? 美味いか? と、舌がなかったら味もわからないのか? …なら、もう口はいらないな」



 ぐいっ ぐちゃっ



 下顎に手を引っかけ―――引きちぎる。



 強引に力づくで、それでいて軽々と下顎が顔面から切り離される。


 顎を失った人間とは、これほど見た目が変わってしまうのかと思えるほど、かなりグロテスクな光景である。



「もっと男前になったじゃないか、豚君。このまま【解体】を続けてもいいんだが…これ以上、オスに触れていると思うと気持ち悪くてしょうがないな」



 これは処刑でも殺人でもない。



 ただの―――屠殺。



 手慣れた職人が、魚を調理するかの如く極めて自然に行われる行為。


 だからこそ何も感じないし、いちいち感じていたら料理なんて作れないだろう。



「っ…っ……」



 舌が無いので何もしゃべることはできないが、ビッグの様子からすべてを知ることができる。



 失禁していた。



 それは身体が正常に働いていたことを示す現象。彼の肉体が、まだ正常さを保っている証拠である。



「はぁ…いい気分だよ。ひどく頭にきているのに、とても冷静だ。なるほど、本当に怒るってのはこういうことか。ここまでオレを怒らせるやつも珍しいな。今ならば何をやっても心地よくなりそうだ」



 身体中の因子が燃えるように熱い。


 リミッターが外れたように、一気に全因子が覚醒していくのがわかる。


 当人は気がついていないが、普段の彼は「人間」として振舞って力を使っている。


 彼のステータスにある因子レベルは、あくまで人間としてのものである。



 だが、魔人となった瞬間、すべては解放される。



 もはや人間というカテゴリーではなくなるのだ。


 おそらく陽禅公もゼブラエスも、この状態のアンシュラオンには対抗できない。


 どんなに強くても人間だからだ。魔人とは種族が違う。根源が違う。


 メーターが振り切れたように、因子の限界も【無限】になる。合計して30などと、そんなみみっちいものではない。


 無限だ。際限がないから無限だ。


 100でも200でも、10000000でも、高まれば高まるほど力となっていく。



 同じことができるのは唯一、パミエルキのみ。



 だから彼女は言ったのだ。「あなたと私は同じだ」と。


 その彼女がいない今、彼を止めるものは存在しない。




「皆殺し…それでも生温い。お前たちには徹底的に痛みを与え続けてやる」


「っ…ッッ……」


「触れているのも気色悪い。豚、お前は廃棄処分だ。鳴き声すら耳障りのゴミが!」



 ゴギンッ!!


 視界が百八十度以上傾き、世界が揺れる。


 次の瞬間、ビッグの意識は完全に闇に包まれた。




 首を―――折ったのだ。




 捻じ切るように、適当に力任せに。







「いっ、いやああぁああああああああああああああああああああ!!!」







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