115話 「哀れなる弱き鳥と、無知なる豚の喜劇 前編」


 馬車が歓楽街を抜け、郊外の診察所を通り過ぎ、ホテル街に向かう。


 その間、ビッグは一言もしゃべらなかった。自分自身を抑えるだけで精一杯だったからだ。



「…じー」



 サナは、じっとビッグを見つめていた。


 仮面に隠れたエメラルドの瞳が、目の前の大男の激しく揺れ動く心境を観察している。


 それを見たアンシュラオンは、とても愛しそうにサナの背中を撫でた。



「珍しいかい?」


「…こくり」


「よく見ておくといい。これが人間の感情の一つだ」


「…こくり」



 彼女は観察している。人間というものを。ビッグが放つ焦りや不安、怒りや憎しみが入り混じった複雑な感情を。


 こんな大男が、あんな小さな鳥のために必死になっている。迷っている。葛藤している。


 意思無き黒き少女は、それをすべて見ているのだ。



(ああ、素晴らしい。こうした感情は、言葉で言い表せるものじゃない。サナにとっては極上の【餌】に違いない)



 サナは本当に少しずつであるが、意思や感情を出すようになってきた。


 しかしそれは、自分の中から出しているものではないことにも気がついていた。



 黒き少女は―――他人の感情を【吸収】する。



 何かに対するリアクションは、所詮神経の反射にすぎない。それでは生きているとは言えない。


 だから「人間とは何かを」こうして教えているのだ。実際にそれを見せることで学ばせていく。百聞は一見にしかず。それが一番わかりやすいからだ。



 すべてはサナの餌。



 シャイナに言ったことは真実である。アンシュラオンにとって、彼らは単なる餌にすぎない。


 そう、シャイナもサナにとっては珍しい存在。だからこそ価値があるのだ。



(楽しませてくれよ、豚君。この子に最高の人間劇を見せてくれ。それはすべての富に勝るものだからね)



 この様子ならば期待できそうだと、仮面の男は笑うのであった。







 そして、目的地のグラスハイランドに到着。


 入り口で出迎えたのは、ホロロ。



「ホワイト様、お帰りなさいませ」


「客を連れてきた。酒とツマミを頼むよ」


「かしこまりました」


「鳥の様子はどう?」


「問題ありません」


「鳴かなかった?」


「いいえ。おとなしいものです」


「そうか、そうか。それは結構。では、行こうか、豚君」



(この女もグルか)



 ビッグはリンダの報告書に記されていた、ホワイトが目をかけている従業員の顔を記憶する。


 かわいそうだが、ホワイトを制裁する際には彼女も巻き込まねばならないだろう。それが裏の世界のルールというものだ。



(だが、この女…嫌な笑い方をする。ホワイトの関係者ってのは、どいつもこいつも気味が悪いぜ。あの妹もそうだ。なんだ、あの視線は…反吐が出る)



 仮面を被っている妹も、馬車の中でじっと自分を観察していた。


 感情を表には出さないように気をつけていたが、なんとも気持ち悪い視線であった。


 まるで人間が動物や虫を観察するような、その生態を確かめるような「上から目線」を感じた。


 そして、目の前の従業員も自分に対して礼をしたものの、その後の視線が気に入らない。



 餌がやってきた。そんな程度の扱いにさえ感じられる。



 調理にさして興味がない人間が、食材を見た時の感情。あれが大好きな料理の一部になることは知っていても、それ以上の感情が浮かばないことと同じだ。


 ここでは誰も自分のことを人間扱いしていない。それが何よりも恐ろしく感じた。



(リンダ…無事であってくれよ)



 ぎゅっと婚約指輪を握り締め、愛する者の無事を祈る。





 ロビーを抜け、奥のエレベーターで最上階に向かう。


 原理は地球のものと同じだが、一部にクルマにも使われる風のジュエルが使用されているので、浮き上がるような感覚はこちらの世界のほうが強く感じられるだろうか。


 浮遊感とともに、少しずつ目的地に近づいていくことに、ビッグは緊張感を高める。


 無事だとは思いたいが、なにせこのホワイトという男、相当な狂人である。そこに一抹の不安を感じてならない。


 進めば進むごとに、あの嫌な視線も絡みついてくるようだ。


 そう、どんどんホワイトという男の中心部に近づいていくような、とてもとても不気味な感覚だ。



(何を見ても心を乱すな。それだけは決める)



 動揺することが一番いけない。短気になることもいけない。相手がそれを待ち望んでいるからだ。


 誘拐する側にとっては、いかに相手を怯えさせるかが一つのポイントなのだ。


 そのために過剰な演出をすることがあり、それに惑わされると冷静な判断が下せなくなる。相手はそれを狙っているのだ。


 緊張を紛らわせるためか、ビッグは声を出す。



「…そちらの要求は呑む。だから会わせてくれ」


「もちろん、そのつもりだ。鳥も会いたいと思っているだろうからね」


「最初に言っておくが、五体満足でないと呑めない」


「またまた面白いことを言う。オレはどんな怪我や病気だって治せる医者だぞ。麻薬中毒だって治せる。知っているだろう?」


「…そうだった…な。医者だったな。だが医者ならば、こんなことをして心は痛まないのか?」


「なぜだ?」


「なぜって、医者は他人を救う人間のことだろう?」


「くくく…、あいつと同じようなことを言うな。それを言うならば、麻薬組織の人間はもっと悪人かと思っていたよ。婚約者など見捨てるような…ね」


「俺たちだって人間だ」


「自分の大切なものは大事にするか? なるほど、その点に関しては同意見だよ」


「あんたは麻薬に恨みでもあるのか?」


「ないな。道具にいちいち感情は向けない。使えるものは使うだけだ。まあ、最近飼った犬は嫌いだとうるさいがね」


「犬…か」



 ホワイトの笑いを見て、汗が滲むのがわかった。


 この男は、自分以外の存在を人間と認識していない。妹にはそれらしい感情を向けるので、おそらくは自分と妹以外に興味があまりないのだ。



 それ以外は【動物】と同じ。



 犬、豚、鳥。どれも人間に近しい生物だが、けっして対等ではない。彼から見れば下等な存在である。


 頭では考えないようにしているが、身体はそれに気がついたのか、さきほどから小刻みに震えている。



(ちくしょう。止まれよ! こんなんじゃ、なめられるだけだろう!)



 そう思って必死に止めようとするが、本能は今すぐにでも離れたいと訴えていた。だから震えが止まらないのだ。



(リンダ、リンダ、リンダ!! 見捨てない! 助ける!!)



 念仏のように彼女の名前を唱え、ひたすら我慢する。鳥が無事であるように耐える。



「…じー」



 それを後ろにいる黒き少女が見ていることなど、彼はもうわからない。そんな余裕がないからだ。






 エレベーターが最上階に着く。


 出て、左に向かう。



 その先にあるのは―――七号室。



 向かったのは、尋問部屋と呼ばれている八号室の隣の部屋。この部屋は捕まえた人間を隔離しておくための部屋である。同じように広いので、普通に暮らす分には不自由はしない。



「さあ、入りたまえ」



 ホワイトは鍵を開け、ビッグに促す。



「………」


「安心しろ。中には鳥しかいない」


「…ああ」



 いざ到着すると、さらに緊張感が増していく。心臓の音が大きくなり、脳内で反響している。


 だが、自分が動かねば事態は何一つ変わらない。


 やや軽い立ちくらみのような感覚の中、覚悟を決め、ビッグが扉を開ける。



 カチャッ



 何の軋みもなく開くドアは、さすが高級ホテルのVIPルームだといえるだろう。


 この部屋だけでも、普通に借りれば一泊十数万という大金がかかる。それをフロアごと借り切っているホワイトが、ただの一般人でないことは明白である。


 しかも彼は狂人。


 そんな人間の手に渡ったリンダのことが心配で、今にも心が張り裂けそうになる。


 だが、それを悟られるわけにはいかない。瞑っていた目を、ゆっくりと開ける。




 部屋は薄暗かった。




 ただ、小さな灯りは点いているので、状況を理解するのはたやすかった。


 目が徐々に部屋の輪郭を浮き上がらせ、揺れる瞳孔であっても、はっきりとその姿を捉える。





 それは―――リンダ。





 間違いない。見間違えるはずがない。


 自分が愛する女性であり、婚約者である。




 その婚約者は―――







―――裸で





―――檻の中に





―――入れられて





―――身体中に引っかき傷があった





 部屋には鉄製の檻が設置されていて、裸にされたリンダが中に入っていた。


 少しだけ痩せてしまったが、健康状態に著しい欠損があるようには見られない。



 身体中にある、生々しい引っかき傷以外は。



 抑えようと思っていた。我慢しようと思っていた。




 だが、その姿を見た瞬間には―――キレていた。





「リンダぁああぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」





 ビッグが、一気に檻に突進。



 ドガシャッーーーッ!



 その巨体がぶち当たると、鉄製の檻がひしゃげた。


 魔獣用の檻なので非常に頑丈な造りとなっているものだが、武人である彼にとってはたいしたものではない。


 その腕力を持ってすれば、これくらいは強引に破壊することができる。



「いやっ…いやぁああああ!!」



 リンダは悲鳴を上げる。いきなり巨体が突っ込んできたのだ。驚かないほうがおかしいだろう。


 それをなだめようと、ビッグは可能なかぎり怒りを抑えて、できるだけ優しい声を出す。



「リンダ。俺だ。もう大丈夫だぞ。今助けるからな」


「ぁぁあ…あぁああ!」


「どうした、リンダ?」


「ぁぁあ…いやぁああーーーーー!! 来ないでぇえええ!! いやああ!!!」


「なっ!?」



 リンダは頭を押さえながら泣き叫ぶ。


 檻に当たることも気にせず、必死に逃げようとする。涙を流し、髪の毛を振り回しながら。


 そのあまりの壮絶な絶叫に、荒事に慣れているビッグでさえ困惑してしまった。



 だが、一つだけわかったことがある。



(リンダは、俺を見ていない! 見ているのは―――)



 リンダの目にビッグは映っていなかった。




 映っていたのは―――入り口で笑いながら見ているホワイト。




 やはり不思議だ。仮面を被っているのに笑っていることがわかるなんて。


 リンダは、その姿を見て恐慌状態に陥っていたのだ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます