第196話 太子に報告

***


色々あって帰りがすっかり遅くなった立勇リーヨンを、太子宮にて明賢メイシェン秀玲シォウリンと共に待ち構えていた。

 

「どうだったかい? 徐子シュ・ジの様子は」


立勇が帰りの挨拶をするより先に、明賢がそう切り出してくる。

 よほどやきもきしながら待っていたらしい。

 そして徐子のことは口実で、刑部の内部について聞きたいのだろう。


 ――まあ刑部という場所は、よほどのことがないと立ち入り許可が出ないからな。


 明賢も刑部という組織に興味があったのだろう。

 だから雨妹ユイメイチェンの身柄の保証人としての同行を立勇が頼まれたことに、主として二つ返事で了承したのだ。

 刑部は秘密主義というよりも、仕事柄余所者を嫌う。

 それで言うと、初対面の下っ端宮女ながらも徐子への付き添いでの立ち入りをあっさり許可された雨妹が、稀有な存在だと言える。

 それはつまり、雨妹の身柄の安全性を保証する情報について、刑部が掴んでいるということに他ならない。

 そして立勇自身は、雨妹が無茶をして刑部の中をひっかきまわした際の、責任を取らせるという意味合いで同行させられたのだと思っている。

 雨妹自身は、好奇心が他人よりもかなり強めであるものの、無害な人物だと思うが、彼女の背後にいる存在が恐ろしいのだろう。

 その気持ちは立勇にだってわかる。

 立勇は早く話を聞きたいらしい明賢に、「ただいま戻りました」と挨拶をしてから報告を始める。

 

「徐子の体調は悪化しておらず、回復するだろうと陳先生が診立てておりました。

 が、問題が発生しまして」


「問題? まさか、刑部で事件でも起きたのかい?」


驚く明賢に、立勇はまさにその「まさか」が起きたのだと説明した。

 秀玲が新たに淹れてくれたお茶を飲みながら、立勇が刑部での騒動について語ると、明賢も秀玲もあっけにとられていた。


辣椒ラージャオ? そんなものが持ち込まれたのかい?

 しかも犯罪者が持っていた?」


「酷いことにならず、よかったですわねぇ。

 それにしても、もったいない使い方ですこと。

 太子宮の台所番が泣いて欲しがったでしょうに」


目を丸くしてそう言う明賢に続いて、秀玲がため息交じりに話す。

 

「しかも雨妹が対処方法を知っていたことで大事に至らなかったからいいようなものの、知らなかったらと思うと恐ろしいね」


辣椒粉の被害に遭った官吏の状況に、明賢がそう述べた。

 

「雨妹が言うには、辣椒粉を浴びたことによる後遺症の心配はなく、あのまま洗い流さなくても自然と回復するとのことですが、そうであってもかなり長い間苦しんだだろうとのことでした」


立勇はこう告げながらも、あの辣椒粉を浴びてしまった官吏に同情する。

 辣椒ではなく花椒の粉であれば、食事に味を足すのによく使われるが、花椒であっても粉が目に入ればとても沁みて痛い。

 雨妹曰くそれよりもずっと痛いらしいので、出来れば味わいたくない痛みである。

 あの後、あの場にいた者たちは皆沐浴場に集められ、冷水をひたすら浴びせられたという。

 この寒い気候の中、風邪をひくこと間違いなしだ。

 立勇が一人でぶるりと身体を震わせていると、「それにしても」と明賢が口を開く。


「相手にとっての計算外は、娘可愛さで周辺を影に目を光らせている父親の存在だね。

 雨妹の目の前で起きた事件なら、今頃既にその父親の耳に入っていることだろうさ」


明賢がニコリと笑って言ったことに、立勇は眉をひそめる。


「……そうですね。

 状況的に官吏、しかも多少の無理がきく立場の者に、東の国の間者がいる可能性がありますが、知れるのがこうも早ければ、足取りを追うのも容易でしょう」


それに雨妹が辣椒の名を知っていたことは驚きなのだけれども、先だってはドゥとやらいう名の怪しい宦官が、辣椒を使った贅沢な月餅を持ち込んだのだ。

 あの食いしん坊のことだ、あの後で調べたとしてもおかしくはない。

 雨妹はあれであちらこちらの宮に掃除で出入りしているので、どこぞの台所番から聞きかじっても不思議ではないだろう。

 それでも、辣椒被害の対処法の知識の出所は謎なのだが。

 陳医師も雨妹の不思議な知識の根源に興味がないはずがないのだが、どうやら追及する気はないらしい。

 それに尋ねたところで、雨妹はきっと「旅人から聞いたのです!」と答えるのだろう。

 本人とて無理のある言い訳だとわかっているようだが、もはやこの言い分で意地でも押し通す気概のようなものが窺えた。

 立勇の思考がおかしな方向に逸れようとしていると。


「またしても東か。

 これは東の苑州えんしゅうが荒れるかもしれないね」


明賢がそうぼそりと呟いたのに、秀玲が頬に手を当てて思案顔になる。

 

「苑州はここ数年で、大公の首が次々にすげ変わっているのではなかったかしら?」


「今の苑州の大公は、確か成人してもいない子どもだと聞いたかな。

 さて、それからまた変わっていないといいけどね」


明賢はそう言って顎を撫でる。


 長く平穏な時が続いていた皇帝志偉の治世だが、そこに荒風が吹き込もうとしているのかもしれない


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