第141話 東の事情

 雨妹ユイメイは一歩前に出て、自己紹介をする。


「どうも、私は百花宮で宮女をやっております、ミン様の昔馴染みの部下です」


「私はその付き添いだ」


雨妹が名乗らないのはともかく、立勇リーヨンまで名乗らない。

 雨妹が名乗らずに立勇が名乗るのは釣り合いがとれないと思ったのだろうか?

 どうやら雨妹の明に名乗らずにいる方針を尊重してくれるようだ。


「宮城の宮女殿ですか、それはどうも。

 私はこちらで厄介になっている者で、ドォンと呼ばれています」


東も自己紹介をしてくれたところで、場所を移して、雨妹が持ってきたカオを食べることになった。

 もちろん、雨妹自身が食べる分もちゃんとあるのだ。



皆で部屋に入って卓を囲むと、しばらくして老女がお茶と温め直した糕を取り分けて配った。

 しっかりと自分の分の糕を確保しているらしいのが、この老女らしいところだ。

 まずは皆で糕を味わう。


 ――うん、いつどこで誰と食べても、美娜さんの糕は美味しい!


 雨妹は幸せの味を堪能してお腹が落ち着いたところで、本題に入った。


「実は、東さんの事情を聴いたのです。

 記憶がないのだそうですね?」


雨妹が尋ねるのに、東は近所の住人から聞かれ慣れているのだろう、特に構えることもなく「はい」と頷く。


「東さんは、全くなにも覚えていないのですか?」


さらなる質問に、これにも頷く東が「ですが」と続ける。


「ぼんやりとなんですが、都に行かなければならないという思いがありまして。

 行くあてもないならば目指そうかと、ここまで」


「へぇ、そうなのですね」


雨妹は東が本当に全くなにも覚えていないわけではないらしいことに、少し安心する。

 記憶障害は前世でも事故後の患者にたまにあったのだが、ほんの少しでも思い出す手がかりがあると、やりようが広がるのだ。


「都に行くことを覚えていたってことは、都によほど大事な用事があったんですかねぇ?」


雨妹の指摘に、東は少し考えるようにして応じる。


「大事な用事……はい、とても大事な事だったと思うのです。

 だから早く思いだそうと色々試しまして、都を歩けばなにか思い出すかと考えて散歩をしているのですが、今のところは特になにも思い出せずにいます」


そう話す東は、苦しそうに見えた。


 ――うーん、思いつめているみたいだなぁ。


 思いつめると心労が続いて、思い出すのがより困難に陥るだろう。

 心労はあらゆる障害をややこしくするものであるので。


「東から来られたという話だが、どのあたりにおられたので?」


立勇も東に尋ねる。

 どうやら彼もそれなりに興味があるらしい。


「隣国との国境に近い里だと、御厄介になった里長に言われました。

 山の中で倒れていたところを、拾っていただいたのです」


「国境とは、それはまた遠いことだ」


東の話を聞いた立勇が、眉を上げて少し思案するような仕草をしつつ明に視線をやると、明が軽く頷くのが見て取れた。

 二人でなにやら通じ合ったようだ。


 ――なんだろう、すごく気になるんだけど?


 雨妹はまさに華流ドラマの始まりのような状況であることに、若干ドキドキしながら、とりあえず気持ちを落ち着けようと老女が淹れてくれたお茶を口にして、予想以上に美味しいことに驚く。

 この老女、実は若い頃は優秀な女官だったのだろうか?

 その美味しいお茶で気分を洗われたところで、雨妹は敢えて明るい表情で東に告げた。


「東さん、失くしものというものは、案外探していると見つからないものみたいですよ?

 忘れかけていた時にひょっこり見つかるなんてこともありますから」


「……そうなのですか?」


雨妹の言葉に、東が目を丸くする。


「そうなのです。

 だから東さんは思いつめずに、のんびり気楽にしましょう」


雨妹がそう語ると、しかし東は「いいえ」と首を横に振る。


「のんびりするわけにはいきません。

 早く自分の事を思い出さないことには、こちらのお宅にご迷惑になります」


「そんなこと、気にする必要はないぞ」


明が東にそう言ってやるが、しかし東の表情は晴れない。


 ――そう思っちゃうのも、わからなくはないけどねぇ。


 自分が存在した時間の記憶や意味、目的がないと、「ここにいていいんだ」という安心感が得られず不安なのだろう。

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