第140話 東

しかし、雨妹ユイメイミンのビフォーアフターを見るためにここへ来たわけではないのだ。


「ところでですね、噂の記憶喪失の方はどこにいらっしゃるんですか?」


雨妹がキョロキョロとする様子を見た明の肩から力が抜ける。


「目的はソッチか」


「はい、ヤンおばさんからも頼まれちゃいまして」


明からそう確認されて、雨妹はそう告げながら頷く。

 これに明は「アイツめ、相変わらず物見高い女だ」とぼやいた。


「今度はなにをされるのかと思ったが、俺に用事ではないのならいい」


どうやら明はさらに己になにか騒動が降りかかるのかと警戒していたようだ。

 雨妹は生憎と、明に対しての用事はない。

 楊からもついでの頼み事もなかった。

 本当に明は好奇心の繋ぎなのだ。


ドォンはどこだ?」


自分に興味がないことに安心したらしい明が、老女に尋ねる。


「さて、散歩に出ると仰って出ていかれましたが、そろそろ戻る時分だと思いますがね」


これに老女がそう答えた。


「その方は、名前を東さんというのですか?」


雨妹が質問するのに、明は「いいや」と首を横に振る。


「なにせ本人が自分の名前を覚えていないので、呼び名がないと不便なので仮の名だ。

 都まで来た足取りを聞くと、東から来たみたいだからな」


「ははぁ、なるほど」


明がそう説明するのに、雨妹は納得すると同時に、明の意外と細やかな心配りに感心していた。

 人は案外名前などなくても、「おい」とか「お前」とかでも会話は成り立つものだ。

 それをわざわざ呼び名を用意してやるとは、なかなかに親切ではないか。

 記憶喪失は戦場で多く出ると、立勇が立彬である時に言っていた。

 ならば明はその対応にそこそこ慣れているのかもしれない。


 ――でも、名前を適当に付けないのって偉いよね。


 本人の行動の由来から名付けるなんて、そこも好印象だ。

 雨妹は一度だけ辺境の里で、砂漠を越えてくる際に嵐に巻き込まれたショックで記憶を失くした人を見たが、里長はその人に対して「無名ウーミン」なんていう雑な呼び方をしていたというのに。

 雨妹がほんの少し明の事を見直していると。


「もぅし、戻りました」


玄関の方から知らない男の声がした。


「お目当ての東が戻ったみたいだぞ」


「おお!?」


好奇心のおさえられない雨妹は、しかし表面上は普通の顔をして明の後について玄関まで向かうと、そこで野菜を井戸で洗っている男がいた。

 彼は立勇と同じくらいの年頃だろう、スラっと背が高く、容姿は美形というわけではないが不細工ではない、どこか素朴な雰囲気の親しみやすそうな人であった。

 体格はがっしりとした筋肉質で、商人っぽくはないが、農民でも筋肉はつくのでどうだろう? と雨妹が考えていると。


「兵士だな」


立勇リーヨンが小声で呟くのが聞こえた。


「そうなんですか?」


雨妹がヒソッと尋ねるのに、立勇が頷く。


「筋肉の付き方が、農民のそれとは違う。

 それにあの手は剣だこだ。

 農具と剣では付き方が違うからな」


「ほうほう」


雨妹が立勇の考察に聞き入っていると、その男――東の方が雨妹達に気付いたらしい。


「明様、戻りました」


東が改めて挨拶をする。


「散歩の成果はあったか?」


そう明が尋ねるのに、「いえ……」と東が表情を曇らせる。


「まあ焦ることはない、のんびりやればいいさ。

 ここにはいつまでも居ればいいのだから」


シュンとしている東に、明がそう気楽に話す。


「それは、野菜を買ってきなさったのですか?」


次に老女が洗われた野菜について尋ねると、東は「いいえ」と首を横に振る。


「これは貰ったのです、そこの露店の野菜売りから『形の悪い売れ残りだから、持っていけ』と言われて」


東がそう答えて、ようやく雨妹たちの存在について口にした。


「そちらの方は、明様のお客人ですか?」


「客ではない、押しかけ野次馬だ」


東の質問を、明が修正する。


 ――まあ、合っているけどね。


 今の雨妹は正しく野次馬なのである。

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