第116話 明の反応

「旦那様は、夜にきちんと寝所で休んだのがよかったのか、今朝から顔色も機嫌もよろしゅうございましてね」


雨妹ユイメイリー将軍の前を行く老女がそう話しながら、寝所へと案内してくれる。

 やがてある部屋に近付いたところで、酒臭さが鼻につきはじめた。

 確かに中にミンがいるようだが、臭いでわかるというのも嫌なものだ。


「酒狂いの臭いがしやがる。

 聞いていたよりも酷ぇな、こりゃあ」


李将軍がそんなことを漏らす。

 まずは、老女が一人中へ入って明へ話しかける。


「旦那様、昨夜に介抱してくださったお方が、またいらしておりますよ」


「なにぃ? 立勇リーヨンがかぁ?」


中から明のものであろう声が聞こえてきた。

 立勇の名前が出たのは、昨夜は二人して名乗りはしなかったものの、雨妹が呼んだ名前を老女が覚えていたのだろう。


「生憎と、立勇じゃあねぇんだな」


そこへ、李将軍がズカズカと入っていく。


「将軍閣下……!? なぜここへ!?」


これには明がビックリ仰天というような声を出すが、生憎と雨妹の視界からは李将軍に隠されて明が見えない。

 顔色が良いという話だがどんなものだろうかと、雨妹は李将軍の背中からひょこりと顔だけ出す。

 寝台の上にいる明は、ぐしゃぐしゃな寝具の上にだらけた格好で座っていて、ただポカンとした顔で李将軍を見ていた。

 確かに、昨日よりもマシな顔色である。


 ――やっぱり睡眠は大事だね。


 雨妹が頷いたその瞬間、明と目がバチッと合う。


「な、な……!?」


すると明は目を見開き、良かった顔色が急激に白くなる。

 この変化に何事かと雨妹が驚いていると。


「まさか、フゥイ……!?」


そう叫んだかと思ったら、「ヒィッ!」という短い悲鳴と共に、身体を小さく丸めてしまう。


「え、と?」


「すまねぇ、勘弁してくれぇ!」


雨妹がこの謎の行動に首を捻るのに、明はただただそう叫ぶばかり。

 その反応は、まるで幽霊にでも出くわしたかのようだ。


「なんだなんだ? なんの話だ?」


これには李将軍も驚いて尋ねてくるが、こちらとてさっぱりわからないため、雨妹は首を横に振るしかできない。


「旦那様、どうなされたのですか!?」


老女が身体を揺すって尋ねるのに、明は「すまない、すまない」と涙交じりに繰り返すばかり。

 しばらく様子を見守っていた李将軍が、やがて大きく息を吐いた。


「……どうも、これ以上は話になんねぇみてぇだな。

 今は引き返すか」


「ですかね」


雨妹もこうも怯えられては、話ができなそうだと納得する。


「おい明、しばらく酒は飲むんじゃねぇぞ!

 見張らせるからな!」


李将軍が怯える明にそう叫ぶと、その場から退出した。


「わざわざご足労いただいたのに、申し訳ございません」


追いかけてきた老女が深々と頭を下げる。


「いいってことよ、また出直すわ」


「また参ります」


ヒラヒラと手をふる李将軍の横で雨妹は笑顔を見せて、屋敷を後にした。



それからしばらく、二人無言で歩いていたのだが、角を曲がって屋敷が見えなくなってから、李将軍が立ち止まって振り返る。


「明のあの様子を知れば、さぞ陛下も悲しまれようなぁ」


李将軍が惜しむようにそう言った。


「皇帝陛下が、ですか?」


まさかの名前が出て来て雨妹がギョッとするのに、李将軍が顎を撫でながら話す。


「あの明はな、かつては皇帝陛下お気に入りの御付きだったんだよ」


聞いた内容に、雨妹は眼を瞬かせる。


「それって、太子付きの立勇様みたいなものですかね?」


「まあ、そんな感じだ」


雨妹の確認に、李将軍が頷く。

 将軍の覚え目出度いとは立勇から聞いていたが、まさか皇帝からも目をかけられていたとは驚きだ。


「陛下はよほど信頼していたのか、お忍びにも明を付き添わせていたもんだ」


「それは……、えらく信頼されていたんですね」


雨妹は李将軍にそう応じながら、以前に太子から聞いた「お気に入りを連れてのお忍び外出」の話を思い出す。

 そしてもう一点、気になるのは。

 先程の明の叫んだ「慧」とは、雨妹の母――すなわちかつての張美人の名前なのである。

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