第87話 憂鬱な公主

 ――それにこの連中、明らかに誰かの後ろ盾がありそうだし。


 雨妹は今まで自分が×をつけた名前を確かめる。

 いくらここが黄家の領地で、皇族に反感が高い土地柄だったとしても。

 権力者に楯突くのはやはり危ない行為だ。

 普通なら、せいぜいが遠巻きにする程度だろう。

 それなのにあの料理人の男を始めとした数人は、あからさまに太子の遣いをないがしろにしてくる。

 それはたとえここで解雇になっても、今後の生活の保障がされているからだろうと予測されるのだ。


 ――多分相手は、利民様の伯母さんとやらかな。


 攻める際に敵の内側から工作するのは、戦略としての常套手段なので、別段おかしな話ではない。

 雨妹は伊達に前世で華流ドラマオタクをしていたわけではない。

 華流ドラマには戦のシーンも多く、そうした戦術・戦略に詳しくなるものなのだ。

 ともあれ、雨妹は紙を懐にしまい、潘(パン)公主の元へ向かう。


「潘公主、失礼します」


雨妹が部屋の外から声をかけるとお付きの人が現れ、扉を開けてくれる。

 そして室内では潘公主が、エアロバイクを漕ぎながらも、どこか心ここにあらずといった様子であった。


 ――心配なんだろうなぁ、利民様が。


 利民が出掛けたのは、今回はいつもの航海ついでの海賊退治ではない。

 海賊の根城を襲撃に行っているのだ。

 当然、返り討ちになる可能性もあるわけで。

 こんな不安しかない時には、下手な慰めなどなんの役にも立たないものだ。

 むしろ「お前になにが分かるんだ」と怒りを誘うことになりかねない。

 そうならないようにできることは、いつも通りの日常を過ごせるように、心を砕くことだろう。


「潘公主、少々車を漕ぐ速度が上がっているのではないですか?」


雨妹が声をかけると、潘公主はそこでようやくこちらに気付いたようだ。


「そうかしら?」


雨妹は潘公主に、しっかり頷いて見せる。


「利民様が戻っていらしたら、港の散策が楽しめることでしょうね」


雨妹が語る将来図に、潘公主が目を細める。


「……そうね。

 以前利民様に連れていっていただいた際には、わたくしがすぐに疲れてしまったの。

 佳は車が入れない道が多いのね、知らなかったわ」


確かに佳はいかにも港町といった景観で、家と家の間隔が狭く密集している。

 一方で後宮暮らしの公主は、それまで移動と言えば軒車などの車移動が常だったはず。

 自らの足で歩く機会の少ない潘公主だと、散策も難儀したことだろう。


「そのようでございますね。

 ですが今度はきっと、もっと色々見て歩けることでしょう。

 利民様もきっと驚かれますよ」


「ふふっ、そうかしらね」


ここで微かにだが、やっと潘公主が笑った。

 と思ったら、興味深そうに雨妹を見た。


「ねえ雨妹、あなたは立勇のことが心配ではなくって?」


「はい?」


雨妹はきょとんとしてしまう。


 ――いやいや、心配するならむしろ自分だし。


 なにせ雨妹は、囮扱いでここにいるのだから。



時は戻り、立勇の出航前。


「一体どういったおつもりですか?」


雨妹は彼に話を聞こうと屋敷の庭の片隅に連れ立って行き、詰め寄っていた。

 そもそも太子の近衛である立勇が、利民の海賊退治に協力することにあまり得はないのだ。

 これはあくまで、黄家の問題なのだから。


 ――この人、そんなに親切心溢れた性格じゃないし。


 雨妹は立勇というか、立彬に度々助けられているが、それだって先回りして助けて回るような行動だったわけではない。

 よく雨妹の近くに出現するのも太子の意見ゆえだろうことは、態度を見ていれば分かる。

 基本、関係ない事に情を見せるような男ではないのだ。

 なのに何故今回、立勇が敢えて海賊退治に同行したかというと。


「潘公主の体調はほぼ問題ないのなら、あとは環境が整えばいい」


こんなことを言われた。


「環境を整えるとは、海賊退治に協力して利民を一刻も早く潘公主の元へ戻してやる、ということですか?」


雨妹が考えを述べると、立勇は「ふん」と鼻を鳴らす。


「海賊なんぞは、どうせいずれどうにかなる。

 所詮海賊ごときが、黄家の戦力に敵うはずがないからな」


「まあ、確かに」


幾ら強敵とはいえ、荒くれ者が集まっているだけの海賊が、統制された軍隊に敵うべくもない。

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