第91話 同級生、壁、謎、同級生。
俺はここに秘密基地があることを確かに知っていたが、四月と五月に一回ずつ入っただけでそれ以来床のタイルを剝がしていないので、かなり久しぶりにこのハシゴを降りることになる。
体操着に着替えた俺たち二人は、早速床のタイルを剝がしハシゴを露出させた。
懐中電灯をビニール袋に入れて持ち手の部分を肩まで引っ張り上げると、俺が先んじてハシゴを下り始めた。
長い梯子を手探りしながら降りていると、頭の上にある三好さんの臀部が揺れるのが視界の端に入る。
何の考えもなしに、
「意外とおっきいんだな」
とか口走って、「み、見ないで!!」と、顔を蹴られて梯子から落ちそうになったりしながら地面に到達すると、真っ暗な空間が俺たちを迎えた。
「なんにも見えないね……」
「だね」
三好さんも梯子から地面に足を着けると俺と同じ感想を口にする。
ガサガサと音を立てながら懐中電灯を取り出し、地面に向けて明かりを灯した。
「あっ……」
暗さに怯えていたのだろう。明かりを見て、三好さんの口から安堵の息が漏れた。
二本目を三好さんに渡し、板張りの地面を軽く靴裏で叩く。カツカツという下に空間のないことを示す音が鳴る。
明かりを前方に向け、壁の位置を確認する。前に入ったときと空間の広さはあまり変わらないように思う。
ランタンの形をした照明が、上にぶら下がっているのを見つけそれをつけると、空間は一気に明るくなった。懐中電灯はもう必要ない。
「眩しいね」
手でランタンからの光を遮る三好さん。
「目が慣れるまでの辛抱だよ」
そう返すと、細めた目で周りを見回す。
前に来たときより、少し物が多いし、壁や床に何か描かれている気がする。
光になれない目でははっきり見えないが、かなり大きな物が描かれているように見える。俺は強く目を瞑ると、数秒の間そのまま閉じ、目の中に明滅する黒いもやが消えるのを待つとゆっくり目を開いた。
俺がそれを見たのとほぼ同時だっただろう。
三好さんもそれを見た。
壁一面に描かれた大きな画。右を見ても左を見ても、後ろにも、果ては天井にも描かれた画。
「ねえ……。これ、なに……?」
三好さんの質問。しかし俺にはそれに答える余裕がなかった。
きっと何かがある。その確信があって入ってきてなお、衝撃を禁じ得ずにいる。
上がる心拍数と、乱れる呼吸を必至に抑え、俺はなんとか冷静さを保とうとしていた。できる限りの平静さを無理矢理、意識に貼り付けるようにして。
「(なんだよこれ……。どう説明すれば良い? ……これで、全部振り出しか………?)」
俺が一人絶望に浸る最中、ふいに、服の袖が軽く引かれた。見るまでもなく三好さんの小さく震えた手が、俺の体操服をつまんでいた。
俺が、動揺してどうする。弓削さんがわざわざ見せなかった物を、俺が見せたんだ。この責任は、俺が取らないと。
三好さんをこの秘密基地に入れたのに意味はある。だけれど、それは三好さんの為じゃなくて、俺の、俺個人の理由だ。だから。
強く噛みしめていた奥歯を意識して離し、大きく空気を吸い込んで、その勢いのまま吐き出すと、強ばっていた体から力が抜ける。やっぱ、緊張してるときには深呼吸、だな。
「大丈夫。壁画は壁画。ただの絵だよ。そんなに怯えるほどのものじゃないよ」
「で……でも……」
んー……。確かに、壁画って言うと仰々しい感じがするよな………。
「じゃあ、あれだ。地下道とか小さいトンネルとかビルの壁に描いてある悪戯書きと一緒だと思えば良いんだよ。どうせここは学校の敷地だし」
「そ、そっか……。学校の壁、だもんね」
「そうそう」
いつもの調子で、なんとか話せている。
三好さんも、表情の硬さが少しずつとれているように感じられた。
袖を握られたまま、壁に近付いて絵を見てみる。正直な所、なにが描かれているのかはさっぱりも解らない。その分からなさが、壁の落書きが壁画に見える所以とも言えるが。
「これって、長谷川先輩が描いた物なの?」
恐る恐る壁に触ってみたりしている三好さんが、また少し強ばった顔をこちらに向けてくる。
「ま、そうだね」
そこは確信している。
「先輩の絵はね、もの凄く、下手なんだよ」
「へ、へぇ……」
目の前に広がる「何だろうこれ」な絵を眺めながら、首を傾げる。下手なくせに、妙な迫力のあるその絵に、しかし、俺の心拍数は下がる所を知らない。
ある種、閉所恐怖症になりかけた俺たち二人は、早々に梯子を登り地上に出ると、先ほど同様片方ずつ外に出て着替える方法で着替えを終え、帰り支度をしていた。
壁に描かれた絵は、三好さんのスマホにおさめてあるので、あとでコンビニにでも行ってコピーするつもりだ。
変な壁画みたいに、壁紙にすると呪われる的な要素がないことを願うばかりだ。何せ、弓削さんの忠告を無視したみたいな形になっているのだ。神から罰が当てられてもおかしくはない。おかしいのは俺の頭か。
神だの呪いだの、いつから信じるようになったんだか。
鞄に体操服を畳んでしまうと、窓の外を見やる。
雨は降っているが、さっきよりはマシな程度に弱まっている。風も、窓ガラスが叩かれるような音が止んでいることから、弱まっていることが察せられる。
鞄をごそごそしていた三好さんの行動が済むのを待って、「じゃあ帰るかあ」と声を掛けた。
「うん。それじゃ、その、よろしくお願いします…………」
歯切れの悪い台詞を気にすることなく、普段通りに部室を後にした。
昇降口をでると、当たり前だが今日二度目の土砂降りの雨と対面。折りたたみの傘は確かに持っているが、これで濡れないのは多分、頭頂部だけだ。
どう考えても、傘という物はこんな雨量を想定して作られていないと思う。風にしたって、凄い簡単にぶっ壊れるシーンをかなり頻繁に目撃する。
日本という災害の多い国において、雨風をしのぐにはやはり、合羽が最適なのかもしれない。あれはあれで、顔面がめっちゃ濡れるけど、化粧しない俺からしてみれば、顔が濡れるくらいはノープロブレムだ。
が、しかし、合羽なんて持ってないので、今日の所はこのもう絶対に濡れる折りたたみ傘で気休めにしよう。どうせ家に帰るんだし、帰ってすぐシャワー浴びれば良いし。
学校から出ると、坂を下り、川沿いに差し掛かる。
さっと顔から血の気が引いて、足が止まる。
どう見ても、日頃の川の水量とは明らかに違う。橋の下すれすれを通り抜ける川の水は、時折橋の欄干にぶつかり水しぶきを上げ、木の枝やゴミやなんかを巻き込みながら下流へと下っていく。
いつもは、橋の何メートルも下を潜っている川が、今は橋の真下。
いやいや、あそこは通れないでしょ。
マジ怖いし。絶対無理でしょ。
少し前に行ってしまった三好さんが、俺が立ち止まったのに気付いて振り向く。
「どうしたの、こっちでしょ?」
轟々と唸る風の声にかき消されないように、大きな声でそう尋ねてくる三好さんに、怖いから無理、とは恥ずかしくて言えない。
「い、いや、川、凄いなあと思って」
返す言葉も大きな声になったが、「ん?」と聞き返されてしまう。もう一度同じことを言うと。
「だね! 超怖い!!」
ですよねえと、心の中で凄い同意した。
そんなことを思っていると、さっきまでとは比べものにならない程の強い風が体にぶつかってきた。
俺の差していた傘は完全にへし折れてしまう。まじか、と自分の手元を眺めていると、「きゃあ!!」という聞き慣れた声の悲鳴が耳に飛び込んできた。反射的に顔上げ、目の端に叫び声を上げた少女の伸びきった足を見、風の吹き抜けた方向に回り込むと、風の勢いに押されて飛ぶように足を浮かせた三好さんの体を抱き留めた。勢いに乗ったまま俺の腰が背の低いガードレールにぶつかり、「おおっとおお!!」と、仰け反りそうになる体を無理矢理起こし、上半身の筋肉だけで勢いに堪えた。
あと一歩、風に押されていれば、三好さんもろとも氾濫した川にドボン。
顔を手のひら一枚分の近くで見つめ合いながら、川を見、顔を見と、三回繰り返して、互いに息を吐いた。
「あ、ありが、とう」
震える体。声もそれに呼応して震えている。
「どういたしまして。マジで死ぬかと思ったね」
膝が笑っている俺も、本気でちびりそうだったので、笑うしかない。
「うおっ!」
再び吹いた少し強い風に、三好さんの傘が煽られて俺はまたガードレールに押し付けられる。
「取りあえず、傘とじよう。危ない」
「そ、そうだね。でも、濡れちゃう……」
「シャワー貸すし、死ぬより良いでしょ」
ドオオっと流れる川を一瞥し、三好さんは頷いた。
傘を閉じ、川から距離を取っても、まだ俺たちは抱きついた態勢のまま。離そうとしたのだが、何故か「い、今離したら、抱きつかれたって由利亜先輩に言うから」そんな感じに脅された。
びしょびしょに濡れながら、抱き合う高校生男女。絵面的には実に青春なのだが、何故だろう、甘酸っぱくない。
しばしの時間をその態勢のまま過ごすと、三好さんの震えも和らいできた。
「そろそろ、歩こうか」
俺の胸に埋められた小さな頭は横に振られ、俺の言葉の拒否を示していた。
ふむ。
これはどう言う状況なんだろうか?
端的に見れば、同級生女子に抱きつかた男子高校生という図なのだが、それを考えれば、何か一つ、イベントが怒ってもおかしくないのではなかろうか?
帰宅、同級生、女の子………
そうか!!
「三好さん三好さん」
呼びかけると、俺の顔を上目遣いに覗き込んでくる。
「手、つなぎません?」
彼氏でもない男と、手をつないで彼氏でもない男の家に行く。なんだこの構図。
相当なビッチなんじゃないかと思ったが、クラスでも良くしてくれる同級生の女友達に、あまり失礼なことを考える物じゃないな。
再び顔を埋めた三好さんは、数秒の後、「うん、つなぐ」と、こもった声で答えたのだった。
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