第86話 無礼者には罰を、感謝には慈悲を。
長い説明と糾弾に、先輩は沈黙で応じた。
俺を見ていた目は、話が終わってから五分近く正面の壁を見つめ続けている。
『美しいだけの人間はいないと確信している』
この言葉に嘘はない。
人間である以上、一つの物しか持っていないものはいない。
光ある所に陰あり。この言葉を俺は今まで光を持った人間もいれば、陰を持った人間もいる、なんて優しいように受け止めていたのだ。
もっと素直に受け取るのなら、光と影は表裏一体の物であり、それは同時に有されるべき物だと考えることを必要としている。
長谷川真琴のような人がいて、山野太一のような人間がいるわけでは決して無い。先輩の光は、先輩自身を陰らせている。それはプラスとマイナスをゼロにしている訳ではなく、プラスが表に見えている間の輝きを俺たちが見て、マイナスがプラスを凌駕し表に現れたとき、輝かしい栄光は歴史となって記憶に消える。
俺たちの見ている光は表の一面でしかなく、裏の一面としての、光の代償を支払う偉人達の姿を知らないだけ。
今俺は、闇の世界の裏に踏み込んでいる。
直前まで光の世界にいた俺の目では、ここは暗すぎてなにも見えやしないのだけれど、引っ張り込まれたこの場所で見つけた唯一のヒントは、俺の中には光も影もないという物だった。
輝かしい部分も、僻み妬む暗い部分も、なにもない。
ただただ空っぽなだけ。
しかしこれは即ちで、裏表がないと言うことではない。一枚の紙にも裏と表があるように、俺は灰色のコピー用紙のような中身をしている。中身というか、紙その物。
空っぽという言葉をここまで簡単に投げ捨てる人間もそういないのかと思うのだけれど、実際問題、中身どころか器もないと言うことに気付いてしまったのだ。
自分のいる環境から一歩進んでみるだけで、まさかこんなに自分のことが解らなくなるとは思ってもいなかった。
普通に生きていれば行き当たらない世界に触れ、見たくもないものを見た。
世界の裏側、陰を集めた闇の部分。密接していることだけは隠されることもなく公言されていて、きっと目で見ることくらいはある所。
恐ろしく、魅力的で、眺めるだけの場所。
見えるだけ。遠い、遠い、遠い場所。
交わりはなく、関わることは不可能。
目の前にあることで、近さを自覚することもない。
俺は最初、先輩の病気という物を絶対に科学でどうにか出来る物だと考えていた。知らないことや、解らないことを考慮せず、確信を持ってそう考えていた。
何故?
そんな疑問を受けるのも、不本意なほどに自信を持っていたのだ。神秘や奇跡なんて人の空想の産物で、妄想の域をでない人の理想。そう思っていた。
いや、正直今もその考えは変わっていない。この場を終えれば俺はこの闇であり裏の世界との関係も断ち切れる。そうなれば、きっと神秘も奇跡もないも同然の物になるのだ。
弓削さんが、先輩が、兄が、俺から手を引いてくれるのなら。
「ねえ……太一君……?」
掠れきった声に呼ばれ、気付かないうちに俯いていた顔を上げてベッドの上に座る人物を見る。
長い髪が顔にかかって表情は見えないが、声の調子からしても、さっきまで自分のしていた話からしてもあまり良い顔色をしているとは考えづらかった。
「……あ、はい」
躊躇いを捨てきれないままにした返事にはここに来る前に決めた覚悟も、なにも無かった。
思い切りかぶりを振ることで、虚勢だけでも張ることを体に言い聞かせた。
「……私は…生きてない、それって、どういうこと………?」
全部を説明する。その覚悟を決めて、俺はここに来た。
その覚悟が沈黙の内に霧消してしまったなどと言うことは考えたくもなかったが、全くしょうもないことに、口が開かなくなってしまっていた。
話し出す前の恐怖のような感覚ではない。不自然なくらい自然に、当たり前の出来事ででもあるかのように、無理矢理にこじ開けた口から声が出ないのだ。
「……あ…っ………」
自分の喉元に手を当て息を吸い込む。呼吸は、出来る。
目も見えている。腕を上げ袖口を鼻に近づけ息を吸い込む。臭いも解るし、触覚もある。
案外冷静な自分に若干驚きながらも、自らの現状を確認しもう一度発声を試みるが、
(やっぱり、出ない……)
返事のないことに違和感を感じた先輩が俺の方を見て解答を待っているが、俺は首を横に振り喉に手を当てることで声が出ないことを主張してみる。
「太一君、答えてよ……」
どうやら、全然通じていないらしい。
すだれになった髪の隙間からのぞく先輩の目には、陰鬱とした感情がありありと浮かんで見えたが、声が出ないのではどうしようもなかった。
こうなったら、なりふり構っていられない。
立ち上がって身振り手振りを交えながらどうにかこうにか伝えようとしてみるが、怪訝な目で俺を見て首を傾げるだけで何一つ伝わっていないように見える。と言うか絶対伝わってない。
何度か声が出ないかも試してみているが、効果は無い。
「………太一…君…?」
やめて!
自分が凄く滑稽な行動をいているのは解ってるから!
そんな首を撥ねられて暴れ狂う鶏を見るような目で俺を見ないで!!!!
「もしかして、声が、出ないの?」
人間都合の良いときに限って感謝したりするよね!!!
ありがとう神様!!!!!!
心の中で大歓声を上げながら首を大きく何度も縦に振ると、先輩がナースコールで人を呼んでくれた。
こうして、解決するはずだった話は後日に持ち越された。
俺の声は、看護師が来て病室を出る前には元に戻っていた。
~後書き~
彼は白馬の王子様なんかじゃない。
私に罰と、死を与える死神。きっと彼自身に自覚はない、あったなら、彼ならもっと他の方法を探してきたはずだ。彼はそれくらいの事をしてのける存在だと、知っていたはずなのに。
自分で掘った墓穴だ。それでも。
今の私は、彼の事が怖い。
何も知らず、まったく関係のない場所からのアプローチで、何故私の事をそんな風に知ることが出来たのか。
私は彼の事が、山野太一と言う
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