第47話 霧

どれくらい歩き続けたのかわからなかったが、ドルイドは魔力も体力も尽きかけていても弱音を吐くわけにはいかなかった。

しだいにあたりに霧が立ち込め、ただでさえ視界がきかないのに、さらに周りの状況がわからなくなっていく。今までは見えない分は魔力を使って視界を補っていたがその力もないため、密集する木の根やちょっとした坂に足を取られる始末だ。

一層、霧が濃くなりドルイドが息を整えようと一瞬足を止めた時、ついにパッツィが口を開いたのだった。


「ここだよ。」


ドルイドは、はっとして頭を上げたがもちろん霧以外何も見えない。傍にいるパッツィすらもおぼろげなのだ。この近くに彼がいるのだろうか。


「この先に彼がいるの?」


ドルイドの質問に答えるようにパッツィがドルイドにしゃがむように手を引いた。ドルイドが膝を折ると、やっとパッツィの顔が見える。

パッツィは水をすくうように重ねた両手から光を生み出し、2人を囲うように光を広げると2人の間の霧が取り去られた。

そうしてパッツィが辺りを見渡して言った。


「この姿で会ったのは初めてかな?

これが彼だよ。」


ドルイドは驚きで言葉を失う。しばらく何も言えずに当たりを見回した。

確かに吸血鬼は、霧に姿を変えることができると書かれた文献を見たことあるが、純粋な吸血鬼ではない彼にその力があったとは信じられなかった。


「この霧が…彼…?」


ようやく発した言葉にパッツィが答えた。


「今は魔力が高まっているから、できるんじゃないかな。」

「私の声が聞こえているの…?」

「どうだろうか…。霧になっていると思考が曖昧になるらしいから。」


ということは、意図的に霧の姿になっている可能性はある。呼びかけに答えないようにしているのかもしれない。だがここで彼の魔力が尽きるのを待つわけにはいかなかった。

ドルイドはパッツィの光を飛び出して、レイモンドに呼びかけた。


「レイモンド…!

私の声が聞こえる?

あなたに話があるのよ!

出てきてちょうだい!」


ドルイドは声は森に虚しく響いたが、大気が動くことはなかった。


「…レイモンド…!」


ドルイドは必死に呼びかけた。


「お願いよ、レイモンド!

私にチャンスをちょうだい!

あなたに謝罪がしたいの!

話だけでも聞いて…!」


お願いよ…、と呟く最後の言葉は虚しく空に消えていく。しばらく待っても彼からの返答はなかった。霧の状態でドルイドの声が聞こえていないのかもしれないし、実は聞こえているがこれが彼からの返答なのかもしれなかった。そう思うと絶望的な気持ちになる。

ドルイドは再び彼の名を呼んだ。


「…レイ…!」

「騒がしい。

全くもって不快だ。」


ドルイドが弾かれるように声のする方を振り向くと霧の中で体軀のよい鹿の足が見えた。

気づいた時には、ドルイドはまばゆい雄鹿を見上げていた。


「…樫の賢者…」


ドルイドは息を呑んだ。突然の来訪に驚いたことも確かだが、もうひとつ衝撃だったのは彼が以前会った時と同じ姿をしていたからだ。ドルイドの認識では、彼はドルイドに会う度に姿を変えていたはずだ。それが今は以前の姿を保っている。雄鹿の姿が気に入ったのか、それともこれが本来の姿だからなのかドルイドには見当がつかなかった。ただ、彼が執着するその姿を思い出させたのはレイモンドであることがドルイドを不安にさせる。


「奴を連れ戻しに来たのだろう。」


樫の賢者は霧の中でも淡く光る体躯を震わせながら尋ねた。


「…話をしに来ました。」


ドルイドはあなどられないようにいつものようによく通る声で答えた。


「奴はお前とは話さない。

わからないか?

お前と会うのを拒んでいるのだ。」


ドルイドの不安を言葉にされ、怯みそうになるのを必死で堪えた。


「それでも私は彼と話がしたいのです。」


樫の賢者は、ドルイドの言葉に目を眇める。鹿の体に埋め込まれた目はまさに人間そのもので奇妙なちぐはぐさを感じる。知恵のある目は、ドルイドの真意を推し量るようだった。

その睨み合いはしばらく続いたが、彼は急に、ふと笑ったような気配を見せた。そしてこう言った。


「…確かに奴はお前と会うことを拒んでいるが…お前の態度次第で私が奴を会わせてやらなくもない。」


ドルイドは思わず身を乗り出した。


「それはどういう…」


続きの言葉は驚きで掻き消された。自分が見ているものが信じられなかったからだ。

というのも大鹿がいた場所には、いつの間にか金色の衣を纏う美しい男が立っていたからだ。それは一瞬のことで、姿を変えたというより、突然入れ替わったような現象だった。男の全身からは輝きと力が発散され、その波動が大鹿のものと同じものだとわかったところでやっと彼が樫の賢者だと信じることができた。

この姿もまた彼の一部なのだろう。だがドルイドはそんな姿を今まで見たことがなかった。男は金色の豪華な着物を衣擦れひとつさせずドルイドとの距離を詰めてきた。

ドルイドはなんとかその場に踏みとどまる。


「お前の魔力を私に差し出せば、奴と話す時間を与えてやってもよい。」


ドルイドは思わず顔をしかめる。


「私の魔力…?」


男は美しい顔を歪ませ笑う。


「そうだ。お前の魔力だ。

何、大したことではない。お前が生み出す魔力のほんの一部を私に差し出すだけでよいのだ。」

「ですが私の魔力は…。」


ドルイドが困惑の色を浮かべると、男は何でもないことのように言い返す。


「そのような些末なこと、私に影響など与えることはできない。

人間の縮尺で私を図ろうとするな。

私を誰だと思っている。」


だが以前はドルイドの身体を差し出すと言っても、彼は拒んだのだ。ということはその問題を克服できるほどに彼は力が増したということになる。確かに樫の賢者の力はドルイドにもわかるほどに増していると感じるが、わからないのはそのカラクリだった。それがドルイドを不安にさせ、判断を鈍らせる。

本当に彼に魔力を渡してよいのか…、ドルイドが逡巡していると、裾からの伸びた美しい指先がドルイドの顎を捉えてついと上向かせる。


「何を迷うことがある。

魔力は回復する。お前が失うものなど無いではないか。」


目の前のアンバーの瞳がドルイドの思考を曖昧にさせていく。


「…私…は…」


頭の中でこれは危険だと警鐘が鳴り響いたが、頭が働かず体が動かない。頭の隅で罠に嵌められたのだと気づいた時には遅かった。

遠くで、パッツィの叫び声が聞こえたが、夢の中の出来事のようで反応できない。

ただパッツィがこれ以上、彼を怒らせないことだけを願うことしかできなかった。


「ドリー…!!」


すると突然、ドルイドの腕は強く後ろに引き寄せられたのだった。

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