3 転落
動くことが出来なかった。
ものの一メートルもないところに、大きな魚の顔があって、ぎょろりとした瞳が銀色に輝いていた。
地面との距離からして、こんなところに海神の顔があるはずがない、これはなにかおかしい―。
賢司の思考はそこでいったん中断せざるを得なかった。考え続ける必要もなかった。
答えは海神の手が明かしてくれた。
がくん。
突然、脚に物凄い力がかかった。
ぐいと脚を引っ張られ、賢司は派手に尻餅をついて転倒した。
尻の下でバルコニーの脆い床板がメキメキときしむ。
バルコニーに倒れた賢司の身体を、海神は、恐ろしい力でさらに引っ張った。
賢司はとっさに身体を裏返して、床にうつぶせに貼りついた。
「賢司君っ!」
由里が駆け寄って、賢司の肩を掴んで引き戻そうとした。
だが、海神との力の差は明らかだった。
「由里、やめろ無駄だ! 手を離せ! お前まで落ちるッ!」
「ダメ、離すなんて出来ないッ!」
「いいから離せ! 由里! きりたんぽに火を点けるんだよ! あいつをあぶれ!」
賢司は由里にそう怒鳴り散らした。
由里は険しい顔でうなずいた。そして潔くぱっと手を離す。
賢司の身体は一気に引きずられた。服がバルコニーの床に擦れてビリビリと破けた。
落ちる―。
賢司は思って、必死の思いで、両手が床板の端に踏みとどまるように力をこめた。はずみで、床板の一部がへし折れた。
賢司は宙ぶらりんになった。胸から上だけが、なんとかバルコニーに残った。
脚は下からぐいと海神に引っ張られている。脂汗を流しながら足元を見下ろした。
海神は、柱を登ってここまでやってきて、賢司の脚までたどり着いたのだ。
「ちくしょお、上がってくんなッ!」
賢司は脚を振って海神の頭を蹴り飛ばした。
だが蹴ったときに海神の手に力が入り、ぐっと賢司の足首に爪のようなものが食いこんできた。痛かった。
由里は、すぐに行動していた。
ジッポに点火して、その火を、床に突き刺した枝―賢司が『きりたんぽ』と呼んだ、先に可燃物をどっしり巻き付けた枝―に次々と点けていった。
そのそれぞれを摘んで、手で松明のように掲げ持った。
板が腕に食いこんできたが賢司は離さなかった。
海神が脚を引く力は次第に強まっていく。
賢司はこんな光景をよく映画で見たことがあるなあと現実逃避的に思った。スリルのあるシーンだと思っていたが、自分がその立場におかれるなんて、もうこれから二度と味わいたくはない。
脚の痛みは耐え難くなってきた。腕力もそろそろ限界だ。
由里は、賢司の表情が偽りなく苦痛に歪んでいるのを見てとった。
手に燃える枝を束にして持ち、海神になんとかそれを浴びせようとして、しかしそこでぎくりとした。
海神は賢司のほとんど真下にいる。
海神の頭や身体に、炎をまとった枝を落とすことは可能だが、どう考えても同時に賢司にも火がかかる。
「なにしてんだ、早く海神に!」
賢司は、かすれた悲鳴をあげた。
「ここからだと賢司君にもかかるの!」
「いいからやれ! 手がもたないんだ、早くッ!」
由里は身を乗り出した。出来る限り手を伸ばして、賢司の後頭部と肩を迂回して海神の頭を狙おうとした。
枝に絡み付いた火がちろちろと彼女の指先を舐めた。熱かったが、賢司はもっと熱いはずだと思って耐えた。
由里が、賢司の腰の辺りまで炎を下ろすと、炎が賢司の背中を舐めた。服に燃え移ったらしく、熱さが急に増した。
だがその甲斐あってか、海神の身体が、少しだけ後ろにのけぞった。
由里はそのタイミングを逃さなかった。
手を離すと、火に包まれた枝の束が、散らばりながら落下していき、海神の真上から降り注いだ。
由里は、海神が確かに悲鳴のようなものを上げたのを聞いた。海神は火の洗礼を浴び、両手で頭をかきむしった。
賢司は、脚から圧力がとれたことに気付いた。海神が脚から離れ、地面にどすんと落下する。
だが同時に、賢司の手もバルコニーを離れた。背中から腹まで火がまわってきたのを感じて、熱さに耐えられなかった。
「賢司君!」
胃が浮き上がるような感覚にとらわれながら、あおむけに落下していく。
首の骨を折った辰也とは落下の向きが違うとはいっても、骨の何本かは折れそうだ―。
賢司は、衝撃に備えて身を堅くした。
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