18 決別

賢司と由里は階段の下で落ち合った。

「由里、なにがあった? なにがあったんだ?」


顔を見合わせると、由里は悲しく首を横に振った。

「私にもわからない。ごめんなさい。私、眠っていた。気が付いたら騒いでいて、豊田さんが、その…おかしくなって。なにが起きたのかなんて、わからない」


階段から激しい音がした。

今度は何事かと二人が警戒したところに、紀雄が転落してきた。階段を踏み外したのだ。


紀雄は派手に階段を転げ落ちてきて、一番下まで落下して身体が止まると、動物的なうめきを上げながらもんどりうった。


賢司は、由里を背にして、紀雄に近づいた。


紀雄がのろのろと起き上がった。

彼もまた、妙子と同じように下半身を剥き出しにしていた。


そこに露出していたものを見て由里は顔をそむけた。なにが起きたのかわかった。

いまの紀雄から漂う雰囲気は人間のそれではない。


賢司は、逃げ出したくなる自分を必死に抑えて、紀雄を素早く観察した。

顔面はべっとりと血で濡れていて、血の間から片方だけ鋭い眼光がきらめいている。


「紀雄。なにが起きた? 辰也だけじゃ気が済まないのか?」

賢司の声は震えた。

「出ていけ。ここから出ていって、俺と由里の前に姿を見せないでくれ」


紀雄は、ひゅうひゅうと息をしていた。

明らかに憎悪の混じった眼で賢司を睨み、ひと声上げると殴りかかってきた。


紀雄の恐ろしい形相に、賢司の身体は萎縮していた。

よける間もなく紀雄の拳に顔面を殴られ、頬から顎にかけて激しい痛みが走った。

賢司はふらついて後退した。背中が壁に触れた。


紀雄の手が賢司の顎を鷲づかみにした。

「どけぇ! 前から気にいらなかったんだよ! 俺はてめえの指図なんか受けねえ!」


紀雄は、そのまま賢司の身体を壁に突き飛ばした。賢司はしたたかに後頭部と背中を打ち、乾いた息を漏らして床に倒れた。


紀雄は、うずくまった賢司の腹に強烈な蹴りを入れると、くるっと向きを変え、荒っぽく歩いて玄関から出ていった。

玄関を出てすぐのところには辰也の遺体があったが、紀雄はそれに気付いた様子すらないようだった。


賢司は床に唾と血を吐いてから、呼吸を整えようとした。

「くそっ! 紀雄を追わないと…」

起き上がろうとした賢司を由里が引き留めた。


「なんだ、離せ由里!」

「ダメ! 行ってはダメ!」


賢司は、由里に構わず歩き出した。

それでも由里はついてくる。

「賢司君、あなたまで行くことない。賢司君あなた、若林君の…彼のしたことを見たでしょう?」


玄関まで来た賢司は、辰也の亡骸に眼をやった。

「だから行くんだ。このままじゃ、妙子がまた紀雄に襲われる。その前にあいつを止める。それで、辰也の借りを返す」


「ダメ! そんなことをしたら、あなたも彼らと同じになる。あなたも人間じゃなくなっちゃう! 恨みと憎しみに動かされちゃダメ!」

「じゃあどうするんだ? このまま紀雄を放っとくのか? 妙子を見殺しにするのか?」


「彼女はもう壊れたの! 見たでしょう?」

「壊れた…」

賢司は息を呑んだ。実に適切な言葉だった。


「いまは、自分が生きることだけを考えて。あなたは、いつもみんなのことを先に考えてきたもの。だから、いまぐらい、エゴイストになっていいじゃない」


賢司は、玄関のほうを見つめた。

陽が傾きつつある。

少しだけ暗くなってきたようだ。


「お願いだから賢司君、ここにいて。生きるの。生きるために海神と戦うの」


「戦う、ね」

賢司はつぶやいた。

「紀雄も辰也も海神と戦う前にやられちまった。由里、お前は強いな。怖くないのか?」


「強い?」

いきなり由里の顔が歪んだ。

「強くなんかない。私だって、怖くてたまらないの。一人じゃとても耐えられない。だからあなたにそばにいてほしいの」


賢司は思わずまじまじと由里を見つめた。

「意外だな。由里がそんなことを言うなんて。いいのか、俺なんかあてにして? 俺も紀雄みたいにキレてお前のこと襲うかもしれないぜ?」


「ううん。きっとそんなことない。私は賢司君を信じてるもの。賢司君は気付かなかったと思うけど、私はずっと賢司君のこと見てきた。私の知ってる賢司君は、自分に負けたりしない人だもの。信頼を裏切ったりしない人だもの。だから私は…」


「私は…なに?」


「なんでもない」

由里は笑った。


疲れは隠せないが、それでもきれいだった。由里の笑顔を見て、賢司は強くうなずいた。

「よし決めた。悔しいけど俺は、みんなを守れなかった。けど、由里。お前と自分のことぐらい、なんとか守ってみせるよ」


「ありがとう」

そう言った由里の顔から、さっと笑みが消えて、真剣な顔になった。

「みんなのことは、本当に残念。…私、思ったことがあるの」


「なんだ?」


由里は答える代わりにさらに訊ね返してきた。

「私、賢司君のこと信じてる。賢司君は?」

「なんだよ、いきなり。俺も由里のこと信じてるよ。仲間だもん」


「ええ…。ありがとう。でも宮崎さんも佐々木君も、豊田さんも若林君も、その、仲間が信じられなくなって、そうしたら、ああなってしまったでしょ? だから私、思ったの。こんな状況だもの、信じ合えなくなったらおしまいだって。私は、どんなことがあっても賢司君のことを信じていようって。たとえあなたが私のことを信じてくれなくても、私はあなたを信じようって」


「…好きにしろよ」

賢司は、なんだかとてもむずがゆくなって、そうぶっきらぼうに言い返した。

そして、ぼんやりと外を眺めた。


信じられなくなったらおしまい、か。


俺は由里のことを信じ続けることが出来るだろうか。

そう、賢司は自問した。


そしてはっと気付いた。

その疑いを自分の中に持たずにいられることが、信じるということなのだ、と。


日没は近い。

そしてそれは、海神が再び現れるときが近いということを意味している。


海神はいつどこからやってくるのか。

あとちょうど十時間ぐらいで流星のときだ。

そのときまで、戦い抜くしかない。


紀雄と妙子はどうしているんだろう?

無事ならいいが。


いかに別れた仲間であって、いまは獣のようになってしまった二人だといっても、やはり出来れば無事でいてほしかった。

この悪夢が終われば、二人も、また人間に戻れるかもしれない。


生きている限りは。


そう、生きている限り、きっと望みはある。

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