29 育枝ⅠⅠⅠ

育枝は、悲鳴をあげたくなる自分を抑えた。

「佐々木? 佐々木でしょ?」

ここで悲鳴を上げたら、きっと笑われる。

みんな、きっとどこかで見ているのだ。

そして育枝が笑い出すのを、いまかいまかと待っている。


「出てきなさいよ! 笑おうったってそうはいかないんだから。全部お見通しなんだから!」


ぱきっ。ぱきっ。


なにかが、向こうの林を移動している。だんだん近づいてくる。


急に、はっきりとした潮の臭いが鼻をついた。

それに、魚屋のような生臭い魚の香り。


育枝は、ぎょっとした。


林の中に、眼が見えた。

銀色に光る玉が二つ、暗がりに浮いている。それが眼でなくてなんだというのだろう?


「いたずらはやめて!」

育枝は叫んだ。

眼を激しくこすった。


光は消えた。

ざわざわと草の揺れる音がした。


育枝は、いやいやと首を横に振り、そしてだっと走り出した。

脚の速さなら自信がある。

なんだか知らないけど私を怖がらせるなんて、そんなの、そんなの、走って、まいてやる―。


ざっざっ、ざっざっ、ざっざっ。

ざっ…、ざっ…、ざっ…。


自分の足音? ううん。


誰かもう一人、後ろにいる。


信じられない歩幅だ。

育枝がざっざっと走る間をざっと一息に走っている。

音はちっとも遠くならない。近くなっている。


ざっざっ、ざっざっ、ざっざっ。

ざっ…、ざっ…、ざっ…。


育枝の呼吸は乱れた。


ばしっ。


垂れていた枝が顔を引っ掻いた。

ショックだった。

顔に傷をつけてしまうなんて、なんてことか! 肌には自信があったのに!


だが、このままだと、顔の傷なんて気にしなくても済むようなことになってしまうのではないか、と恐ろしい考えが頭に染みてきて、育枝の顔はひきつった。


なにかが。


なにかが育枝を追ってきている。

だんだん近づいている。


映画とかドラマだと、こういうとき、ヒロインはたいてい転ぶ。そして、そこに悪者の手が伸びてきて、でもそこにヒーローが現れて間一髪で―。


「あっ…!」

育枝は本当に転んだ。

地面に這っていた木の根に足をとられた。


後ろから足音がやってくる。


なにしてんのよ、佐々木、早く、早く助けに来なさいよ、ヒロインがピンチなのよ、あんた、頼りないけど私のヒーローなんだから、早く―。


ざざあっ。


草が揺れた。


なにかが、すぐ後ろに現れた水っぽい音がした。


いまごろになって、辰也の怪談話が頭の隅をよぎった。


育枝は振り向いた。


ざわざわざわ。


また、草が揺れた。

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