第三十二話:侵入者


 すぐに話はまとまって、私と雨京さんは神楽木家へ帰ることになった。

 けれど、その前に。

 かすみさんの様子を一目見ておこうと、彼女が眠る部屋へお見舞いに行くことにした。


 日当たりのいい六畳ほどの一室。

 柔らかで清潔そうな白い布団につつまれて、かすみさんは眠りについていた。

 すうすうと寝息を立て、かすかに布団が上下している。

 そのかたわらに座り、雨京さんは小さく息を吐く。


「……かすみは、さぞ辛い思いをしたのだろうな」


「そうですね。数日の間、気が休まらなかったと思います」


「そのぶん眠りが深くなるというのは理解できるが……目覚めた時のことが少し気がかりでもある」


「はい。連れ去られた先で受けた仕打ちを思い出して、気を病んでしまわないか……私もそこが不安です」


「ああ」


 重々しく、沈鬱な表情で雨京さんはうなずく。

 ――かすみさんの心の傷は、いかばかりか。

 こうして眠っている今は、おしはかることも難しい。

 あの夜の深門の言葉を思いだせば、そのたびに耳をふさいで叫び出したくなる。

 きっと私が想像する以上に、ひどい仕打ちをうけたことだろう。


「そばにいて、話をきいて、かすみさんの気持ちが落ち着くまでゆっくりと休ませてあげるしかないですね」


「……そうだな。縁談も、一旦すべて白紙にもどすとしよう」


「それがいいと思います。しばらくはお家で静かに療養するのが一番かと」


「ああ。頼むぞ、美湖。かすみのそばについていてあげてくれ」


「まかせてください!」


 私は胸をはって、拳でドンとその中心をたたく。

 雨京さんはそれを見て、かすかに目を細めて笑ってくれた。



 そうして私たちは、かすみさんに別れを告げて診療所をあとにする。

 門を出てすぐの場所には、ずらりと見送りの面々が立ってくれていた。

 むた兄とゆきちゃん、長岡さんに田中さん。


「――そちらの両人は、昨夜美湖に力をかしてくださった方々ですか?」


 雨京さんが、田中さんと長岡さんのほうに視線を向けて問う。


「はい。初めまして、長岡と申します」


「田中です、どうも」


 二人はそれぞれ挨拶をして、頭を下げる。

 雨京さんもそれに答える形で、丁寧にお辞儀をしながら口をひらいた。


「神楽木雨京と申します。このたびは、妹達が世話になりました。心から礼を」


「いえいえそんな、お礼なんていいんですよ。それより、かすみさんが無事で本当によかった」


「そうっすよ、礼には及びません。ただ、あやしいモンじゃねぇと分かってくれたなら、今後は天野を訪ねて行った時に追い返さねぇでくれると有難いっすね」


「……御用の際は、こちらから伺いましょう」


 熟考したのち、雨京さんは言葉をにごした。

 というより、はっきりと田中さんの申し出を拒んだ形になる。


「いや、それはまぁ、そうですよね。かぐら屋ほどのお店だと、出入りする人間にも気をつかうでしょうし……」


 事情は分かるといったふうにうなずきながら、長岡さんは田中さんの背をたたいた。


「……そんじゃ、何かあったらゆきちゃんか霧太郎さんに文でもことづけますよ」


 しぶしぶ納得したように田中さんが頭を掻く。

 ……なんだか少し申し訳ないな。


「手間をとらせてかたじけない。そちらには後日、美湖と共にあらためて礼に伺います」


「そりゃ大歓迎っす! できれば事前にしらせをください。うちの大将は留守が多いんで」


「あ、それじゃあ私がおしらせにいきますっ!!」


 はいっと元気に手を上げて、役目を買って出る。

 とにかく何でもいいから、田中さんたちに会いに行く口実ができれば嬉しい。


「では、そのときは美湖に頼むとしよう」


「やったぁ! 近いうちにまたうかがいますね、田中さんっ!」


「おうよ! 待ってるぜ!」


 天につきだしたままの私のてのひらを、ぱしっと勢いよくはたきながら、田中さんは笑う。

 つられてこちらも笑みがこぼれた。



「――それでは本日はこれにて。山村さん、妹のことを頼みます」


「お任せください。わざわざご足労ありがとうございました」


 ふたたび深々と頭を下げあう二人につられて、私とゆきちゃんも向かい合って小さく頭を下げる。


「ゆきちゃん、また明日会いに行くね」


「待ってるで! かすみさんのことはうちがしっかり見とくから心配せんでな!」


「うん、ありがとう。それじゃあね!」


 私は、ゆきちゃんやむた兄、そして長岡さんや田中さんの顔をぐるりと見渡して手をふった。

 そして、雨京さんのとなりについて歩きだす。




 ――さぁ、帰ろう。

 なんだか神楽木家に戻るのはすごく久々な気がするなぁ。


 いつのまにやら陽は沈み、あたりはうっすらと暗くなっている。

 雨京さんは、去りぎわにむた兄から借りたらしい提灯をさげて、早足で歩いていく。

 置いていかれないようにと急ぎ足でその背をおいかけた。

 今日は珍しく、付き人がいない。

 もしかしたら雨京さんは、かぐら屋でむた兄達から話を聞いて、そのまま一人飛び出してきたのかもしれない。



「そうだ、雨京さん」


「何だ?」


 昨日降った雨もすっかり乾き、かすかに砂ぼこりをあげる地面を草履の裏ですりながら、私は雨京さんの顔を見上げる。


「雨京さんは、どんなふうにおにぎりを握りますか?」


「……どうしたのだ、唐突に」


「いえ、それぞれのおうちで握りかたが違うんだってお話をきいたので」


「――握り飯は奥が深いからな」


 と、つぶやいて雨京さんは静かに拳をにぎった。

 料理人として興味深い分野の話だからか、少し足どりをゆるめて私の話に耳をかたむけてくれる。


「雨京さんが作るおにぎりは、きっとすごくおいしいんでしょうね」


「そのうち、暇があれば作ろう」


「じゃあ、そのときは私も手伝います! いろいろと教えてください!」


「ああ。いいだろう」


 そう約束して、雨京さんは小さくうなずいてくれた。

 いつしか人通りが増えた大通りを、私は機嫌よく跳ねるように歩いていく。


 ――こんなにも和やかに雨京さんと話ができる日が来るなんて、思いもしなかった。

 田中さんたちとの交流も認めてくれて、その上雨京さん自らが彼らのもとにお礼に伺うことになるなんて……。


 一晩でこうも変わるものなんだ。

 それもすべて、昨日の私の行動が引き寄せた結果だ。

 思いきって動いてみて本当によかった。

 神楽木家に帰ったら、今度こそ大人しく日々を過ごしていこう。

 かすみさんのお世話をしながら、私もちゃんと脇腹の傷を完治させるんだ。




 それからしばらく歩くと、神楽木家が見えてきた。

 大きな門の両脇に立つ屈強な門番さんたちが、そろって雨京さんに頭を下げる。


「旦那様、お帰りで」


「ああ。留守の間、変わりはなかったか?」


「ございません。が、心なしか、付近をうろつく浪士どもが減ったように感じます」


「それが今後も続いてくれるといいのだがな……気を抜かず、引き続き頼む」


「はいっ!」


 門番さんは槍を立てて背筋を伸ばす。

 通りの向こうには、武装した神楽木家の警固人が二人組で屋敷の周辺を見回っているのが見える。


「それでは美湖、私はこれからかぐら屋へ戻る」


「はい! 雨京さん、お仕事頑張ってくださいね!」


「ああ。屋敷ではやえの言うことを聞いて、大人しくしているのだぞ」


「はい!」


 もう言いつけをやぶって心配をかけたりはしない。

 私が元気にうなずいてみせると、雨京さんはこちらを一瞥し、門番さんに一言声をかけてかぐら屋の方へと去っていった。


「さ、お嬢。中へどうぞ」


「あ、はい。ありがとうございます」


 慣れない呼び方に少しばかり苦笑しながら、開かれた大門をくぐる。

 そうして数歩あるき、門番さんにかるく会釈すると、またすぐに門が閉まった。

 ほっと一息ついて、小走りで玄関へと向かう。

 戸を開けて静かに草履を脱いでいると、廊下の奥から血相を変えたやえさんが飛び出してきた。


「美湖さまっ!! ご無事でしたか!? かすみ様は!?」


 私の肩をそっとつかんで、心配そうに眉を寄せるやえさん。

 落ち着いた人だと思っていたけれど、こんな顔もするんだ。


「やえさん、昨日は突然飛び出して本当にごめんなさい。私は無事です、けがもないです。かすみさんは、まだ眠ったままなのでしばらくは診療所に預けることになりました」


「そうでございますか……了解いたしました。では、お食事を用意いたしましょう」


「わ、本当ですか!? お腹すいてたんです!」


 そういえば、昨夜おにぎりを食べて以降何も口にしていない。


「すぐにお作りいたしますので、お部屋でお待ちください」


「はいっ! ありがとうございます!」


 なんだか、ごはんの話になったとたんに食欲がわいてきたな。

 私は情けなく音をたてるお腹をさすりながら、やえさんと別れて離れへと向かった。




「ふぅ……」


 離れの自室に到着すると、持っていた風呂敷をおいて、ぺたりとその場に座りこんだ。

 ぐるりと部屋を見渡せば、昨日私がここを出た時よりもいくらか片付いているようだった。


(そっか、ゆきちゃんの荷物がないんだ……)


 昨日のうちに取りに来たのかな。

 私が出ていったとなれば、ゆきちゃんは神楽木家に残る理由もないわけだし……。

 あらためてたくさんの人を振り回してしまったことを痛感し、心が痛む。

 ふと文机の上に目をやると、去り際にあわてて書き残した置き手紙がなくなっている。おそらくやえさんが部屋から持ち出したのだろう。



(それにしても、昨夜はすごい戦いだったな……)


 鮮明に頭に残る緊迫のひとときを思い返して、ため息をつく。

 握ったピストールの感触が、まだ手のひらに残っている。

 ピストールは屯所に戻ってすぐに田中さんに返したけれど、手元からなくなってしまうとなんだか少し寂しくもある。

 短刀も私のものではなかったわけだし、なんだかんだで今は丸腰。

 身を守るものを何ひとつもっていない。


(そう考えると、ちょっと不安だな……)


 もちろん、もうあんな事はそうそう起こり得ないとは思う。

 けれど、気がかりなことがまだ一つ残っているのだ。



 私は立ち上がって、外塀に面する障子をそっと開いた。

 そうして、四方を見わたす。あたりに人影はない。

 綺麗に手入れされた庭木の輪郭が、まっくろに縁取られて闇の中に浮かびあがっている。

 ざわざわと葉をゆらすかすかな音だけがその場に響き、冷たい夜風がそっと髪を撫でるように吹き抜けていった。

 縁側の左手に立つ縁柱に目をやると、はっきりと何かが突き刺さって一部がえぐられた跡が見える。



(ここに文を投げこんだのは、結局誰だったんだろう……)


 それだけが謎のままだ。

 おそらく、矢生一派の仕業じゃない。

 敵か味方かはわからないけど、名も知らぬ第三者が、あの事件に関わっている。

 そう考えると、何だかまだ少し不安だな――……。

 急に寒気がして、私は肩のあたりをさすりながら部屋の中へと戻った。



(敷地の中の警固を厳しくしてもらえないか、あとで雨京さんに頼んでみよう)


 そんなことを考えながら、荷物の整理をしようと風呂敷に手をのばしたその時――。


 縁側に面した障子を突き破って、部屋の中に小さな玉が飛び込んできた。

 手のひらにおさまるほどの大きさのそれは、てっぺんから一本線のようなものが延びており、その先端からわずかに煙を噴いている。


 はっとして、私は風呂敷をつかんで部屋から飛び出す。

 そして、長く続く廊下を数歩すすんだところで、それは炸裂した。

 すさまじい爆音を響かせて。




 その場にうずくまって身を縮めていた私は、おそるおそる顔を上げて離れのほうへと目を向ける。

 障子は爆破の衝撃で枠から外れ、ところどころ粉砕されてあたりに飛び散っていた。

 部屋の中の様子は、立ち込める煙でよく見えない。



 あまりに突然の出来事に、頭の中が真っ白になる。


(さっき確認した時は、誰もいなかったのに……)


 気づかれないようにどこかに身を隠していたということ?

 それとも、私が帰ってきたのを見計らって塀を乗り越えてきた――?

 どちらにしろ、姿は見えなくとも間違いなく近くに敵が潜んでいる。

 私は震える足に力を込めて立ち上がると、一刻も早くその場から離れようと風呂敷を抱えて走り出した。



「美湖様、ご無事ですか!?」


 廊下の途中で、薙刀を持ったやえさんと合流することができた。


「やえさん! 私は無事です。どうやら離れに爆弾が投げ込まれたみたいで……」


「爆弾、でございますか……!? 何者かが敷地内に?」


「たぶん、そうです」


 やえさんは顔色を変えて薙刀を構えながら、私をかばうようにして前に出た。

 そうして、じりじりと離れのほうに進んでいく。




「あーあ。やったと思ったんだけどなぁ、逃げられちゃったかぁ」


 いくらか散った煙の奥から姿を現したのは、昨夜矢生一派の屋敷で出会った女だった。

 たしか名前は、りく。

 どくりと、飛び出しそうなほどに胸が脈打った。


「何者です! そのまま止まりなさい!!」


 平然とこちらに歩みよってくるりくに対して声を荒げながら、やえさんは相手との距離をとって足取りをゆるめる。


「やえさん! あの人は、かすみさんを連れ去った連中の仲間です」


「そうですか、この女が……」


「火薬を使いますから、気をつけて」


 よく見れば、りくは足首から先をさらしで巻いて手当てしている。

 おそらく、昨夜中岡さんが撃った銃弾が足をかすめた時にできた傷だろう。


「きのうはよくもやってくれたわねぇ、このブス」


 りくは両手に短刀を構えて、ゆっくりとやえさんとの距離をつめる。


「どうしてこんなところに!? 屋敷のまわりには警固人が……」


「そんなの、たったの四、五人でしょお? いくらでもかいくぐれるわよ。ってゆーか、敷地内の警固はスッカスカなのねぇ! こんなんじゃいつ寝首かかれても文句言えないわぁ!」


 りくは嘲りをこめた甲高い声で一笑すると、腰を落としてやえさんの持つ薙刀の柄に斬りかかった。

 左右の短刀でハサミのように刃を交差させながら一撃を加え、すぐさま飛びのく。

 鈍く金具がひしゃげる音が響き、木製の持ち手部分から先を引きちぎられるようにして、薙刀は折れた。


「薙刀女にはキョーミないから、すっこんでてよ。アタシがどうしても会いたかったのは、こっちのブス」


 りくはそう言うと、右手に持っていた短刀をやえさんに向かって投げる。

 避ける間もなく、それは彼女のふとももに深く突き刺さった。



「やえさんっ!!」


「……っ美湖様、大事ありません。それより今すぐかぐら屋までお逃げください」


「いやです! 私も一緒に戦いますっ!!」


 鮮血がしたたる傷口を押さえて、やえさんは膝をつく。

 私はそんな彼女の前に立ちはだかり、取り落とした薙刀を拾った。

 無惨に折れて先端を欠いたそれは、もはやただの棒きれも同然だけれど、ないよりはましだろう。



「アタシさぁ、どうしてもアンタだけは許せないの。きのう完全に場違いだったアンタは、一人じゃなんもできないくせに大勢の男を引き連れて、そいつらを盾にしながら調子づいてちょろちょろして……」


「私から見れば、あなただってじゅうぶん場違いだったけど」


「場違いじゃない! だってあそこはアタシの家だったんだもん。アンタたちのおかげで、もうあそこには帰れない!」


「被害者ぶらないで! 私だって、帰る家を焼かれたんだから!! もとはといえば、あなたたちが盗みをはたらいたことが原因でしょ!?」


「盗んだ? それがどうかしたぁ? 盗られるほうがマヌケなのよ。なんの対策もなく無警戒でそのへんに置いてあるものは、持ってってくださいって言ってるよーなもんでしょお? 道端に落ちてる銭とおんなじ。拾ったもん勝ちなの」


 ……めちゃくちゃだ。

 もはやこの女には、悪事をはたらいているという意識すらないらしい。

 さも当たり前というふうなその口調の軽さに、怒りがこみ上げてくる。



「そういう考えなのね、あなたも、矢生も!」


「だから、呼び捨てにすんなって言ってるでしょお!! アタシは、アタシとあの方に武器を向けた相手は絶対に許さない! 特にそれが女なら……アンタみたいな生意気で勘違いなブスなら、気が狂いそうなほど憎らしくてたまらないの!!!」


 りくは目を血走らせて叫び、地面を大きく蹴ってこちらに斬りかかってきた。


「――っ!」


 身をひるがえして転がるようにその場から離れ、薙刀を構える。


「くそっ、本調子だったらアンタなんか一撃で……」


 大振りの一撃を外したりくは、忌々しげに表情をゆがめながらわずかに腰を沈めた。

 先ほどから動いたり止まったりを繰り返しながら、こちらとの距離を保とうとしているところを見ると、怪我をした足をかばっているんだろう。

 おそらくりくは今、素早く動くことができないのだ。このぶんだと走ることも難しいはず。

 そして何より、あたりにほかの仲間の姿が見当たらない。

 ここには単独で来たんだろう。


 ――となれば、何とかなるかもしれない。



「きっとさっきの音を聞いて、すぐに人が駆けつけてくるよ! あなたはここで捕まることになる!」


「そうねぇ、そろそろでしょうね……! でもその前にアンタを殺す!!」


「――どうして、そこまで私をつけ狙うの!?」


 短刀の柄を握りこんで摺り足になったりくの肩口を、思いきり薙刀で突く。

 が、それはむなしく空をきり、私はそのまま前のめりに傾いた。


「言ったでしょ。アタシは廉様に近づいた女は絶対に許せないの。アンタはあの方が進めてきたことを台無しにして、しかも武器まで向けた」


「台無しって、私たちは盗まれたものを取り返しただけじゃない!!」


「それだけじゃないでしょ。昨夜のアレで、アタシたちの陣営はほぼ壊滅よ。こうなりゃもう潰し合いでしょ? だからまずは、見せしめにアンタの首をとる!」


 りくは私の髪をつかんで地面に引き倒すと、片手に持っていた短刀を大きく振り上げた。



 ――ちょうどその時。


「貴様っ!! 何者だ!!」


「お嬢から離れんか!!」


 槍を持った門番さんや警固人さんたちが、ぞろぞろと私たちを囲むようにして集結した。

 総勢六名の大柄な男の人たちが、りくに向けて槍を突き付けながらこちらににじり寄ってくる。



「あーあ、もうちょっとだったのに……仕方ないなぁ」


 りくは不快そうに眉をひそめながら、私の首の下あたりを引っ掻くようにして短刀を走らせる。

 すると鎖骨の少し上の肉が薄く裂かれて、勢いよく血が吹き出した。

 それを見て口角を上げながら、ふところに手を入れたりくは、中から何かを取り出してよどみない動作でそれを地面に投げつける。


「またねぇ、ブス女。今夜は宣戦布告のゴアイサツだけで勘弁したげる。こっからは命がけの鬼ごっこよ。アンタがどこにいようと追いかけて、必ず殺してやるから」


 そんな、あざ笑うような声のあと。

 小さく何かが炸裂するような音がしたかと思えば、あたりはみるみるうちに灰色の煙でおおわれていく。

 昨夜と同じ、煙玉だ。


 ――このままでは逃げられてしまう!

 力を振り絞って体を起こし、りくの立っていた場所を探るように薙刀で突いてみるものの、手応えはない。



「逃げたようだぞ!」


「探せ!! 屋敷の中もだ!!」


 警固人さんたちは二名をその場に残して、残る面々を追跡に向かわせる。

 だんだんと煙が晴れ、あたりに静寂が戻ると、そこにはぐったりと体を横たえて肩で息をしているやえさんの姿があった。



「やえさん! 大丈夫ですか!? しっかりしてください!!」


「美湖様……お怪我をされて……お守りできず、申し訳ございません……」


「私の怪我は大したことありません! 誰か、やえさんの手当てを!!」


 私は、半狂乱になって叫んだ。

 自分の首もともさっくりと切れて、着物がみるみる紅く染まっていくけれど、もうそんなことは気にしていられない。


 私の怪我が軽いものだということは、傷口に目を向ければすぐにわかる。

 それよりも、やえさんだ。

 短刀の刃は深々とふとももに突き刺さり、おびただしい量の血が流れ出ている。

 もうあたりにはりくの姿は見えないものの、屋敷のどこを見回しても敵が潜んでいるような気がして、とても気は休まらなかった。



『どこにいようと追いかけて、必ず殺してやる』


 去りぎわのりくの言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。

 私はてっきり、かすみさんさえ助け出せばすべてが解決するものだと思っていた。

 けれど、それは甘かった。

 誰かに武器を向ければ、そこには敵意が生まれる。

 怒りで燃え上がったそれに執念が加われば、やがて復讐心に変わる。

 私もあの時、深門に対して強烈な復讐心を向けながら何度も引き金を引いた。

 憎くてたまらない相手が、死んでしまってもかまわないと思いながら――。


 りくは『潰しあい』だと宣言した。

 きっとそれは、私の命を狙うだけにとどまらない。

 標的はあの場にいた全員になるだろう。


 ――連鎖してしまうんだ。

 誰かに向けた強い敵意や悪意は。

 簡単には断ち切れず、互いに血を流しながらも報復は続いていく。

 私はもう、どこに逃げても追われる立場になってしまった。



(どうすればいいの……)


 力なく膝をつき、うなだれる。

 気づけば幾すじも、とめどなく涙が頬を伝っていた。





 それから二刻ほど過ぎただろうか。

 四ツ半ごろには、神楽木家周辺の様子は一変していた。


 まず、警固が強化された。

 門前に二人、さらに塀の周りを囲むように四方に人員が配置され、付近を巡回する警固人も増えた。

 加えて、敷地内にも武装した傭い人たちが多く入ってきた。

 彼らは蔵や雨京さんの部屋のまわりを中心に守りを固める。


 そして、新選組と町奉行から立て続けに取り調べを受けた。

 新選組はもともと、いずみ屋の一件から継続してかぐら屋周辺の探索を続けていたので、爆発からすぐに大人数で神楽木家へと駆けつけた。

 いつもは適当にあしらって追い返す雨京さんも、今回ばかりは話に応じたそうだ。

 私は部屋で休んでいるように言われていたからどんな話をしたのかすべては分からないけれど、

『女が単独で乗り込んできた』ことと『家の中のものはなにも盗られた様子はない』ことは報告したそうだ。


 新選組は、相手が女だと聞いて首をかしげながらも、引き続き不逞浪士(矢生たちだろう)について探るとのことだ。

 町奉行にもおおむね同じようなことを報告し、似たようなやりとりをしたそうだけれど。

 一つ新選組と違ったのは、奉行所は今回の一件を「盗賊団」による犯行とみて調べていることだ。




 すべてが終わって一息つきながら、雨京さんの部屋で話をする。


「美湖、少しは落ち着いたか? すまなかったな、まさか屋敷の中にいながら危険にさらしてしまうとは……」


「いえ、誰のせいでもありませんから。それより、やえさんが……」


「やえの傷は深いそうだな。明日にでも、螢静堂で診ていただこう」


「はい……」


 うつむいて、ぎゅっと両拳をにぎる。

 またしても私は、人を盾にして逃げ延びた。

 相手は私を狙ってきたのだから、真っ先に自分が前に出るべきだった。


「美湖の怪我はどうなのだ?」


「私は大丈夫です。傷は浅くて、もう血も止まりました」


 首下の傷は一見派手だけれど、軽く撫でるような切り口で、ふさがるまでそう時間はかからないそうだ。


「ならば幸いだ。疲れただろう、今夜はもう休みなさい」


「はい、ですがその前に一つだけ聞かせてください」


「何だ?」


 煌々とした蝋燭の灯に照らされる広い一室で、私は四方を見渡しながら口をひらいた。

 もはやどこに誰が潜んでいるか分からない。

 すっかり疑心暗鬼にとりつかれてしまった私は、大事な話をする前にどうしてもあたりに人の気配がないか確認しておきたかったのだ。

 幸い、この部屋の中に不穏な空気は感じない。


「奉行所の方の話です。今夜のことを盗賊のしわざと見ているって」


「そのことか。明日にでもお前に話そうと思っていたのだが……」


「詳しく聞かせてください!」


 急かすように身を乗り出す私をいさめながら、雨京さんは重々しくうなずいた。


「この一月、京のいたる所で盗みが多発しているそうだ。集団で商家を狙い、火付けをして去るという手口でな……蔵やぶりに火薬を使うこともあるらしい」


「じゃあ、ほかに同じような目にあったお店も?」


「ああ。葉月から立て続けに二十件ほど……屋敷も人も燃やしつくして立ち去るので、証拠となるものはほぼ残らんそうだ」



 今は長月のはじめ。

 つまり一月で約二十軒の商家が襲われたことになる。

 あきらかに異常な頻度だ。


「それって、いずみ屋の時とほとんど同じですね」


「ああ。しかし、美湖が知る犯人は浪士風の男たちなのだろう。今のところは、浪士のしわざか盗賊のしわざか判断がつかんのだ」


「そう、ですね……」


 浪士風の盗賊団ってことはないんだろうか。

 矢生たちの所業を思い返せば、そんな表現が一番しっくり来るんだけどな。


「ひとまずは、定期的に新選組や奉行所とのやりとりが続くだろう。私たちは警戒をゆるめず普段通り生活していくしかない」


「はい……」


「心配はいらん、お前の周辺は特に厳しく見張りを立てる。しばらくは屋敷の中でおとなしくしていなさい」


「わかりました……」


 明日はかすみさんをお見舞いに行く予定だったのに、このぶんだとそれもかなわないかもしれない。


 ――外に出るのが怖い。

 張りつめていた糸がぷつりと切れて、体中から力が抜けていくのを感じる。



「では、そろそろ休め。当分は私の隣の部屋で過ごしてもらう。何かあればすぐに声をかけなさい」


 そう言って雨京さんは立ち上がり、隣室へとつながる襖を開けた。

 私のために新しく用意されたその部屋は、離れと変わらないくらいのちょうどいい広さで、中央にはすでに布団が敷いてある。


「ありがとうございます。そして、ごめんなさい。忙しいのにたくさん時間をとらせてしまって……」


「気にすることはない。ゆっくり休みなさい」


「はい、おやすみなさい雨京さん」


 うっすらと行灯がともる部屋の中に足を踏み入れて、頭を下げる。

 雨京さんは小さくうなずき返すと、静かに部屋を区切る襖をしめた。



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