第三十一話:報告
目を覚ますと、もう夕方だった。
橙に染まる障子をぼんやりと眺めながら、私は静かに身を起こした。
ねぼけた視界に広がるのは、真新しくこざっぱりとした、なじみのない部屋。
昨夜遅くに中岡さんの隊の屯所へと帰ってきて、そのままこの空き部屋に泊めてもらうことになったのだ。
疲れはてていた私は、長岡さんから傷の手当てを受けたあとすぐに眠りにつき、気づけば夕方だ。
我ながらよく寝るなぁ。
体のあちこちが痛い。
特に脇腹と背中。動くたびにズキズキする。
(そうだ、かすみさんは……?)
私とかすみさんは昨夜、この部屋に布団を並べて寝たはずだ。
――が、隣にかすみさんの姿はない。
布団ごとない。どこかに消えている。
(もしかしてかすみさん、目を覚ましたの!?)
あわてて寝床から飛び出し、障子をあけて部屋から転がり出る。
勢いあまって、廊下を歩いていた人にぶつかってしまった。
「あ、すみません!」
頭を下げて、それからおそるおそる相手の顔色をうかがう。
「みこちん! 目ぇ覚めたん!?」
――それは、意外な遭遇だった。
この場に居合わせるはずのないその人物を見て、私は目を丸くする。
「ゆきちゃん!? どうしてここにいるの!?」
そう、ゆきちゃんだ。
彼女は大きく袖口をまくった動きやすい格好をして、濡れた手を拭きながらその場に立ち止まった。
「謙吉さんの仲間が怪我しとるいうから、朝方兄ちゃんといっしょに治療に来たんよ……それより、みこちん! うちは怒ってるからな!!」
「あ、うん……ごめんね、だまって出てきちゃって」
腰に手をあてて、子供を叱り飛ばす母の姿勢をとりながら、ゆきちゃんは分かりやすく頬を膨らませている。
私はただただ、頭を下げて平謝りするしかない。
「謙吉さんから聞いたで!? かすみさんを助けに行くいうて一人で出てきたんやろ? 無茶しすぎや!! なんでうちに相談してくれんかったん!?」
「それは……ゆきちゃんをあぶない目にあわせたくなかったから」
「アホーーっ!! せやから、気ぃつかわんでええっていうてるやろ!! なんでもっと頼ってくれんの!? うちら友達ちゃうんか!?」
「いや、あの……ごめん」
ゆきちゃんは面と向かってありったけの不満をぶつけながら、大粒の涙をこぼしていた。
まるで溜まっていたうっぷんを吐き出すかのように。
おそらく今話してくれている気持ちは、私と再会してからずっと胸に抱いていたものなんだろう。
「ゆきちゃんは一番の友達だよ、それだけは本当」
「うそや! うちよりここの人らを頼ったやろ!」
「う、それはその……」
痛いところをつくなぁ。
「次からは絶対、うちに一番に相談してな」
「うん、そうする。ゆきちゃんありがとう」
「みこちんのアホぉ……心配したんやで」
「うん、うん。ごめんね」
ぐすぐすと鼻をすするゆきちゃんを見て、思わずもらい泣きしてしまう。
涙を流して声をふるわせながら、私は目の前の親友を思いきり抱きしめた。
「……うお、びびった! 何してんだよ。感動の再会か?」
廊下のど真ん中で抱きあって泣く私たちを見て、足を止めたのは田中さんだ。
まるで見てはいけないものを見てしまったかのように気まずい表情で、彼は後ずさりをする。
「あ、田中さん! おはようございます」
「もう夕方だ。やっと起きたかよ寝坊助」
ごしごしと涙をぬぐって挨拶をすると、田中さんは少し表情をくずして笑ってくれた。
「……ところで兄さん、二人とも無事にウチまでついたん?」
ゆきちゃんが手拭いで涙をふきながら尋ねると、田中さんはそちらに向き直って大きくうなずいた。
「おう! 今あっちで霧太郎さんと長岡さんが手当てしてるよ」
「そっか、ほんならよかった。しばらく辛いかもしれんけど、今夜を抜ければあとは大丈夫やと思うわ」
「けどやっぱ心配だなァ……ゆきちゃん、帰る時は送ってくから声かけてくれよな」
「はぁい」
二人は、いつの間にかくだけた雰囲気でやりとりをしている。
どうやら私が寝ている間に仲良くなったみたいだ。
……それにしても、さっきの会話は気になるな。
「ねぇゆきちゃん、けがした人で、螢静堂に移った人がいるの?」
「あ、うん。そうなんよ……かすみさんと、あと一人蛇に咬まれたいう人がおってね。二人は昼前にここからウチの診療所に移したんや」
「え!? そうなんだ……! 二人は無事!?」
「かすみさんはずっと眠ったまんまで、兄ちゃんたちの話やとしばらく起きんやろうって。ほんで、蛇に咬まれた患者さんは今治療中。今後のことは本人の体力次第やね」
「そんな……」
たしかに、蛇に咬まれたという隊士さんはいた。
けれどあの場ではしっかりと自分の足で歩けていたはずだ。
時間をおいて体に毒が回ったということだろうか……。
あらためて、ぞっとする。
私もあの蛇の群れに幾度となく襲われた。咬まれていてもおかしくない。
他人事じゃないんだ。
あの場にいた誰もが、毒牙の餌食になりえた。
こうして無事に帰ってこられたのは、当たり前のことじゃない――。
そばで守ってくれた皆さんに、あらためて感謝しなきゃいけないな……。
「んで、おめぇはこれからどうするよ? 神楽木さんとこに帰るんなら送ってくぜ」
田中さんが、うつむく私の背中を小さく叩く。
「あ、そうだ! 私、雨京さんにかすみさんのこと伝えなきゃいけないんです!」
「おう、そうだな。まぁでも、神楽木家には長岡さんと霧太郎さんが報告に行ったはずだからよ、向こうもだいたいの経緯は知ってると思うぜ」
「それって、いつごろの話ですか?」
「女将さんを螢静堂に運んだあとだから、昼すぎだな」
それじゃ、雨京さんはとっくにすべてを知らされているってことか。
私が寝てる間に、状況は目まぐるしく変わっていたんだな。
「殿は、やっぱ怒ってはるやろうねぇ」
「うう……そうだよね、それは覚悟してる」
「昨日の昼ごろ、みこちんを探してウチの診療所まで来たんやで、殿」
「え!? そうなの!?」
「うん。そんときは、怒ってるっちゅう感じやなかったけど。珍しく血相変えて、心配そうにしとったよ」
「そうなんだ……うう、ますますあわせる顔がないなぁ」
ただでさえ最近の雨京さんは心労がたたって疲れていたというのに。
私のせいで、抱えきれないほど心配ごとを増やしてしまった。
自分がしたことに後悔はないけれど、その結果誰かに負担をかけるのはやっぱり心が痛む。
「ほんじゃまぁ、とにかく帰って元気な顔見せようぜ! ほら、さっさと支度しな!」
「は、はいっ!」
田中さんはつとめて明るい声色でその場を切り換え、そして私の額を指ではじこうとし――途中で一瞬動きを止めて、そっと私の頭に手を置いた。
おそらく額のけがを見て配慮してくれたんだろう。
それから私は部屋に戻って布団をたたみ、急いで荷物をまとめて玄関まで走った。
玄関先で、田中さんとゆきちゃんが待ってくれている。
「あ、そうだ! 中岡さんや坂本さんたちにごあいさつを……」
「んなもんいらねぇって。坂本さんとむっちゃんは朝方酢屋に帰ったし、中岡さんとハシさんも昼ごろから出かけてるよ」
「そうなんですか……うう、もっと早起きしてればよかったです」
私は、ため息をついてがっくりと肩をおとす。
「そう落ち込むこたねぇよ。またいつでも会えるだろ?」
「……会いにきてもいいですか?」
「おう。たまに女将さんの具合とか報告に来いよ」
「はいっ!」
笑顔でうなずいて、先を歩き出したゆきちゃんのもとへと走る。
よかった。もう来るななんて言われなくて……。
昨夜いっしょに戦った人たちとは、一晩かぎりでお別れなんていう寂しい終わり方をしたくない。
また会って、ちゃんとお礼が言いたい。
近いうちに会いにいこう。ここにも、そして酢屋さんにも。
私たちはまず、ゆきちゃんを送りとどけるため螢静堂を訪れた。
「兄ちゃんただいまー! あれ? おらんわ」
格子戸を引いて、ゆきちゃんは元気に診療所の中へと飛び込んだ。
けれど、声をかけた先に人影はない。
がらんとして静まり返っている。
戸口を入ってすぐの空間は広々とひらけていて、床には真っ白な異国の織物が敷いてある。
壁の両面にある大きめの窓はたくさんの光を室内に取り入れ、明るくさわやかな雰囲気だ。
見慣れない瓶や筒がずらりと並ぶ大きな棚に、脚が長く高さのある机。そして木製の腰掛け。
どれも白を基調とした珍しいつくりのものだ。
「むた兄って、異国の医術を勉強したんだっけ?」
「うん。最初は漢方中心の塾におったんやけど、途中から西洋医術に興味持ってな。蘭方医(らんぽうい)言うんよ。ちなみにこの部屋にある道具のほとんどは、謙吉さんが方々から安う集めてきてくれたもんでなぁ」
「そうなの? 長岡さんすごい……!」
「せっかく開業したんやから、理想の診療所を作ろうー! とか謙吉さんと兄ちゃん二人で盛り上がってな……ここまで向こうの形式にならってるとこはそうそうないと思うわ」
「長岡さんも、蘭方医なの?」
「せやでー。謙吉さんは長崎のえらい先生の塾で学んどった筋金入りや!」
「へぇぇ……」
感心しながら、部屋の中を見わたす。
真新しくきらきらとした調度で、そこら中があふれかえっている。
『理想の診療所』かぁ。
むた兄や長岡さんの頭の中には、きっともっともっと密度のある、夢のような完成図が広がっているんだろうな。
最近は蘭方医も増えてきているみたいだから、これからはどこの診療所もこんなふうに異国の様式を取り入れていくのかな。
「なんかここ、落ち着くよな。霧太郎さんは奥の部屋か?」
背もたれのある腰かけにどかりと座って一休みしながら、田中さんが廊下の奥に目を向ける。
「たぶんそうやろね。うち、呼んでくるわ!」
ゆきちゃんが前方を見すえて数歩踏み出すと、長い廊下の曲がり角からぬっと人影が姿をあらわした。
「……あれ、三人とも来てたんだ」
そう言って小さく笑いながら、片手をあげて私たちを迎えたのは長岡さんだった。
「謙吉さん、兄ちゃんは?」
「今、奥で神楽木さんと話してるよ。しばらくは立ち入らないほうがいい」
部屋から追い出されたのか、長岡さんは両手をかるく上げてまさに『お手上げ』の姿勢をとりながら肩をすくめる。
「雨京さんが来てるんですか!? 私、会いたいです!」
このあとかぐら屋まで会いに行こうと思っていたけれど、ここにいるなら話は早い。
「いや、それがねー。神楽木さん、かすみさんを今すぐ連れて帰るって聞かなくてさぁ。ちょっと押し問答みたいになってるから今はやめときなよ」
押し問答か……。
そういえば数日前にも同じようなことがあったな。
私が神楽木家に移った日。
あの時も、雨京さんの独断でなかば強制的に神楽木家への移動が決まったんだ。
「つれて帰っちゃだめなんですか?」
「意識を取り戻すまではできるかぎり動かさないようにしたいからね……それに、ここだと何かあったときにすぐ対応できるからさ」
「そうですか……たしかに、ここに移ってすぐまた別の場所につれていくのは負担がかかりそうですね」
きちんと目を覚まして、かすみさんの口から体調のことや今後の希望を聞けるようになってからうちに帰すのが一番いいのかな。
一日のうちに、あんまりあちこち引っ張りまわすのもかわいそうだ。
「今回ばかりは、霧太さんも粘り強く説得してるよ。だけどやっぱり、このままだと押し負けるかなぁ……あの人まるで譲歩しないからねぇ」
長岡さんは深くため息をつきながら、机の前の腰掛けを引き出して座りこむ。
「ほんならとりあえず、みこちんが顔見せに行ったったら? みこちんが話せば少しは違うやろ」
「うーん。会いたいとは思うけど、説得できる自信はないなぁ……」
雨京さんはこうと決めたら譲らない人だから、おそらく今回も彼の言い分が通るだろう。
……こんなとき、中岡さんがいてくれたらなぁ。
『人を言いくるめるのが得意』……って、ちょっと言い方は悪いけど、つまりは話し上手だってことだよね。
巧みな話術で、ズバッと雨京さんを説き伏せてくれそうだ。
「んじゃまず、行って叱られてこいよ。おめぇの元気な顔見たら神楽木さんも少しは頭が冷えるかもしんねぇ」
田中さんは立ち上がって、どうすべきか悩んでいた私の背中を押す。
そして、廊下の先へ進むように目線でうながした。
「じゃあ、神楽木さんからさんざんにやり込められてる霧太さんを救うって意味で、美湖ちゃんを投入してみようか」
田中さんの提案に乗った、というふうにポンと手を叩いて、長岡さんも立ち上がる。
「ほんでみこちんが、今日のところはひとまずこらえて、私だけ連れて帰って! お兄ちゃん大好きぃー! とか言えばさすがの殿もオチるやろ」
「いやいやいや! それはムリ!! 絶対ムリ……!!」
間違いなくピリピリしているであろう現場に踏み込んで、その台詞は言えない。
言ったとしても、場が凍りつくだけだ。
想像するだけでもうダメ。失神しそう。
「――でも、今日のところは私と二人で帰ろうっていうのは言ってみるね。それでまた、かすみさんが目を覚ましたら迎えにこようって」
「うん、それでいこう! 二人がいる部屋に案内するよ」
「はいっ!」
意を決して、前を歩く長岡さんについていく。
背後から田中さんとゆきちゃんが『ダメもとで、お兄ちゃん大好きは言っとけよ!』『ほんまに効くと思うで!』なんて余計な助言をしてくれているけど、無視しておこう。
一歩すすむごとに小さく床が鳴き、そのたびに身をすくませて忍び足になる。
……どうしよう。
ものすごく緊張してきた。
胸の奥がばくばくと、壊れそうな速さで打ち付けている。
(何はともあれ、まずはきっちり謝るんだ……!)
許してもらえなくても、頭を下げて気持ちを伝えよう。
ついカッとなって熱く反論したりしないように、くれぐれも注意だ。
「神楽木さん、霧太さん、入りますよ」
長い廊下を曲がった先にある応接間の障子を静かに開き、長岡さんは一礼した。
「美湖ちゃんをつれてきました」
そうして丁寧な動きで頭を上げると彼は一歩うしろへ引き、私の背を押して部屋の中へと進ませる。
広い部屋の中央で向かい合う二人と目があった。
むた兄はどこかほっとしたように顔をほころばせ、一方の雨京さんは小さく目を見開いてぴくりと肩をふるわせた。
沈黙を恐れた私は、勢いよく頭を下げて声をはりあげる。
「雨京さん、ごめんなさい! 昨日は勝手に家を飛び出して! たくさん心配をかけて……!! ほんとに、ほんとにごめんなさいっ!!」
開け放った障子の前で、深く腰を曲げたまま私はぎゅっと目をつむっていた。
雨京さんから言葉がかかるまで、そのままの姿勢でいるつもりだった。
「……美湖、無事でいたか。怪我はないのか?」
その第一声は、想像していたものと違っていた。
落ち着いた声色で、静かにその両手が私の肩に添えられる。
「雨京さん……あの、怪我はないです。それで、かすみさんが……」
雨京さんは私の目の前に立ち、眉間に小さくしわをよせたなんとも言えない表情で深く頷いてみせた。
「……ああ、かすみを助け出してくれたのだろう。お前は本当に無茶ばかりするな」
「ごめんなさい」
「謝るな、私も私だ。お前の話をろくに聞いてやろうとしなかったのだからな……かすみの行方や犯人の正体について、お前は周囲の大人たちよりもずっと深く知っていたのだな」
「それはその、協力してくれた人たちがいて……」
「例の浪士殿たちだろう、山村さんから話は聞いた。後日礼にうかがわねばな」
「え!? は、はい……」
――あれ!?
どこまでも思っていた展開と違う!!
雨京さんがなぜだか全面的に素直だ!
いまだかつてない勢いの全肯定っぷりだ!!
叱り飛ばされて、下手をすれば一発くらいぶたれたりするんじゃないかと覚悟していた私は、ぽかんと口をあけて唖然としていた。
完全に拍子抜けだ。
いったい雨京さんはどうしてしまったんだろう。
「てっきりお前は、窮屈な生活をきらって家を飛び出したものとばかり思っていたが……まさか本当にかすみを連れて帰ってくるとは」
「そんな、たいしたことはしてないんです……全部協力してくださったみなさんのおかげで……」
「何を言う、私は感謝しているのだ。心から礼を言うぞ、美湖」
「う、えっと……はい!」
いまだに調子が狂ったままの私は、しどろもどろに相づちをうつのが精一杯だった。
雨京さんの表情は、ここ数日の険しさが嘘のようにやわらかく、晴れやかだ。
今までかすみさんの安否が不明だったのだから、無理もない。
(そうだ、雨京さんはもともとそんなにこわい人じゃなかった)
ここのところは、気持ちを張りつめて余裕がなかっただけだ。
いつも冷静で動じない雨京さんだって、かすみさんの身になにかあればさすがに取り乱すに決まってる。
だって、たった一人の妹なんだもの。
いつもは厳しいことを言っていたって、何より大切な家族なんだ。
(――よかった、本当に)
かすみさんが無事で。
こうして雨京さんのもとに連れて帰ってくることができて。
怒られるどころか誉められて、少しくすぐったいような変な気持ちだけど。
どうやら雨京さんの中では、昨日の家出は帳消しになってしまったようだ。
それはつまり、私がふり絞った勇気を買ってくれたということ……なのかな。
そういうことだと、受け取っておこう。
「美湖も部屋に入って座りなさい。かすみのことについて山村さんと話していたところなのだ」
「あ、はい……」
気づけば立ったまま長話を続けてしまっていた。
会話を中断して待ってくれているむた兄に悪いことしちゃったかな。
私は雨京さんにうながされて、彼のとなりに腰をおろした。
「美湖ちゃん、その体でよう頑張ったなぁ。しばらくはゆっくり休むんやで」
「うん、もう無茶はしないよ。当分はかすみさんのそばにいる」
「そら安心や。そんでな、そのかすみさんのことやけど……」
むた兄が言い終わるのを待たずに、雨京さんがその言葉に口をはさんだ。
「かすみのことは、私がこれから神楽木の家に連れて帰ろうと考えている」
きっぱりと、一歩も譲る気はないといった表情で、雨京さんは真一文字に口をむすぶ。
……ついさっきまでは何を言っても許してくれそうな雰囲気だったのに、いつのまにやら普段と変わらない頑固な姿勢に戻っている。
まいったなぁ。
「……あのぅ、雨京さん。さっき長岡さんから聞いたんですけど、かすみさんはしばらく目を覚まさないそうです。それで、起きるまでは診療所で休ませておいたほうがいいと」
私がそこまで言うと、向かいに座るむた兄は、首がもげ落ちんばかりの勢いで何度も何度も深くうなずいてみせる。
ちらりと廊下の方に目をやれば、わずかに障子を開けた隙間からこちらをのぞく長岡さんが、『よく言った!』と言わんばかりに拳を握り込むのが見えた。
「……しかし、それではかすみが目を覚ました時に私が駆けつけるのが遅れるだろう」
「それはそうかもしれませんけど……」
「屋敷で休ませておけば、いざという時にすぐさま対応できる。山村さんには、当分うちのお抱えになってもらえないかと交渉していたのだ」
「えっ……!?」
思わず、むた兄のほうを見る。
すると彼はげっそりとした表情で、静かに首をふった。
断っても断っても雨京さんが引いてくれなかったんだろう。
「あの、雨京さん。むた兄は、ほかの患者さんのことも診なきゃいけないわけですし、あんまり無理を言っては……」
「もちろん、金銭面で不自由はさせない。通常の倍以上の金は払うつもりだ」
「それだとほかの患者さんが困っちゃいますよ。雨京さんも、一人のお客さんだけに料理を作り続けるわけにはいかないですよね? お抱えっていうのは、急に言われてなれるものじゃないのかなぁって」
「どうしても山村さんの同意をもらえぬ場合は、他の医者を呼ぶまでだ」
うーん。
……やっぱり重要なのは、かすみさんを連れて帰ることか。
かぐら屋からこの診療所まではそれなりに距離があるから、往復する手間をはぶきたいということだろう。
それに雨京さんは店をしきる立場の人だから、気軽に長時間抜け出したりもできない。
かぐら屋と神楽木家は隣接しているから、家に連れ帰ることができた場合は、やえさんたち使用人に逐一かすみさんの具合を報告に来てもらうこともできる。
雨京さんからしてみれば、それが一番融通がきくし安心だろう。
だけど、むた兄や長岡さんが反対している以上は、あまりかすみさんに無理をさせたくない。
「雨京さんはきっと、かすみさんのことが心配で仕方ないんですよね。気持ちはよく分かります」
「……心配というより、責任を感じている。これまで私はかすみを徹底して突き放してきたからな。もう少し、兄妹らしく話をすべきだった」
「はい。かすみさんが目を覚ましたら、たくさんお話をしましょう」
「……そうだな」
「私、毎日ここに通います! それで、かすみさんのそばで目覚めるのを待って、目が覚めたら真っ先に雨京さんのところに報告にいきます!……それじゃ、だめですか?」
雨京さんもたぶん、自分が無理を押し通そうとしていることに気づいている。
さっきの言葉をきいて、なんとなく分かった。
雨京さんは別に、融通がきくからという理由だけでかすみさんを連れ帰ろうとしているわけじゃない。
――きっと、傷ついて帰ってきた妹をよそに預けることに抵抗があるんだろう。
忙しい立場で、自由にできる時間なんてほとんどなくて、なかなかかぐら屋を離れられないからこそ、少しでもかすみさんのことを近くに置いておきたいんだと思う。
「しかし、お前も怪我人だ。あまり無理をしては……」
「大丈夫です、もう元気に動けます! 雨京さんがそばにいられないぶん、私がかすみさんのそばにいますから安心してください!」
「ふむ……」
どうしたものか、と雨京さんは考えこむように腕を組んだ。
なんだかもう一押しでいける気がする。
「美湖ちゃんがここにおらん時に意識が戻った場合は、僕が責任持ってかぐら屋さんまで知らせに行きます。なんやったら、しばらくここに使用人さんを置いてもらっても構いません」
むた兄が、私の意見を補足するように言葉をつなぐ。
――そして、どうやらそれが決め手となったようで、雨京さんは重々しく首を縦にふった。
「……では、女中を一人置かせていただきましょう」
「わ、分かりました! お待ちしてます!」
急に話がまとまりだしたことに若干ついていけてないむた兄は、緊張した様子でひたすらこくこくと頷いていた。
――よかった。
雨京さんも、きちんと話せば分かってくれる。
以前のように頭ごなしに何もかも突っぱねるような厳しさはもうない。
「では、かすみのことはしばらくここに預ける。ただし美湖は、このまま神楽木家に帰ってきてもらうぞ」
「もちろん! 雨京さんといっしょに帰ります!」
「……ならば良い。山村さん、妹をよろしくお願いいたします」
「はい! お任せください!」
雨京さんとむた兄は、お互いに深く頭を下げる。
私はそんな二人を見ながら、大きく息をついて脱力した。
――はやく、かすみさんが目を覚ましてくれるといいな。
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