肉おばちゃんと僕

西乃 まりも

 まずい、非常にまずい。

 こんな日に限って、赤信号にことごとく引っかかってしまうとは!

こういう自分の「持ってなさ」加減には、ほとほと嫌気が差してくる。自転車のハンドルを握り締め、横断歩道の向こう側に見える「スーパーマルナカ」を恨めしげに眺めていた飯田聡史は、逸る心で腕時計に目を落とす。時計の針は既に五時五十五分を指していた。

 今日は肉の買い出しを頼まれているというのに、大学生協のバイトが長引いてしまい、あろうことかまだスーパーに辿りつけてさえいない。最低価格での食材の仕入れは、下宿先の大家(の娘)である桧山萌が聡史へと課した鉄の掟なのだ。

 下宿代を電気ガス水道代混みの一万円にしてもらい、更には桧山家母屋にあるキッチン及び冷蔵庫の使用を許可してもらう見返りとして、マルナカでの食材の仕入れ、萌の調理補助、聡史の住む学生用下宿である桧山荘の清掃、果ては下宿人の素行調査(女人禁制の徹底)まで、彼の担う業務は多岐にわたっている。要は、お金と便宜の見返りとして萌の下僕みたいなものになり下がっているのだ。だが、仕方ない――聡史は貧乏だった。貧乏なのに自宅から通えないバカ高い私大に通っているのだから、費用は何とか自力で捻出するしかない。まずは学費を溜めなければ。住むところはなるだけ安く上げないと、後期の授業料が払えないという最悪の事態にだって陥りかねなかった。

 それに。萌との契約を守ることはもちろん大変ではあったが、実のところ、聡史はそれらの仕事の多くを苦痛とは思っていなかった。もともとやりくり好きな性格だし、その辺りの徹底した節約志向が、偶然にも萌と方向を同じくしていた面はある。しかしそれよりも何よりも、彼女に初めて出会って以来、時折見せるその愛らしい笑顔にずっとやられっぱなしだったのだ。

 ――それは例え、相手にとっての自分が、下僕程度の扱いだったとしても。

 今朝チェックしたチラシによれば、今日は豚バラ細切れ肉が狙い目だ。慣例からすれば午後六時ぴったりに半額セールが始まる。マルナカの肉は他所のスーパーよりも鮮度がよく、半額になった時点で手に取ったとしても、その品質はお墨付きなのだ。だからこの時間帯になると、セールを狙った目利きの主婦がこぞって集まってくる。精肉担当のパート社員が半額シールを貼った瞬間に、誰よりも早くパックを掠め取るのだ。そのためには、六時までには何としても精肉コーナーの前でスタンバイしておかねばならない。

 信号が青に変わるのもそこそこに、聡史は自転車のペダルをフル回転させた。


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