ウサギの声2

     ◇


 駅で電車を待ちながら、私は早く紫苑先輩に会いたいなと思っていた。最近は偽物の世界で先輩と会えていなくて少しだけ寂しいが、それでも普通の世界で毎日のように会えているから幸せだった。

 といっても、文化祭の後の二日間は振替休日だったから、先輩と会うのは文化祭ぶりだ。文化祭のことを思い出すだけでにやけてしまうから、マスクでもしてくればよかったと後悔した。恋をすると女の子は可愛くなると言うけれど、挙動不審になるだけだと私は思う。

 一日目の文化祭の後は、向こうの世界で甲斐崎さんと蘇芳ちゃんに会うのがなんとなく気まずかったけれど、二人共いつも通りに接してくれてほっとしたものだ。

 そういえば、紫苑先輩が私を甲斐崎さん達に任せるようになったのはいつからだっただろう。一人でしたいことがあるから、と言って私と行動するのをやめたのだ。『浅葱、今日からは枯葉達と一緒に行動して』といったような内容のメールが送られてきた時は、悲しいよりも納得がいかない気持ちでいっぱいだった。

 目の届く所にいてだとか、勝手に死んでいるなんて許さないだとか言ってくれたのに、自分から離れていってしまうなんてあんまりだ。

 けれどきっと、紫苑先輩は私が足手まといになるから一緒にいたくないのではなく、私を危険に晒すことになるから一緒にいたくないと判断したのだろう。と考えてみると、自分の不甲斐なさに苛立った。

 私は今も、甲斐崎さんや蘇芳ちゃんに守られてばかりだ。能力を多少使えるようになったけれど、やはりいきなり人兎に襲撃された時などは恐怖のせいでうまく使えない。紫苑先輩がどこかで一人で戦っているのなら、私もそこに赴いて力になりたいと思ったけれど、無駄に命を落とすだけのような気がした。

 何も出来ていない自分に深い溜息を吐き出してから、私は顔を上げた。いつも乗る電車が、ちょうど目の前で走り去っていった。


「……え?」


 揺らされた髪をそっと押さえて、ぎこちなく首を動かして電車を目で追いかける。目の錯覚でもなんでもなく、無情にも電車は遠ざかっていく。今から走って飛び乗れば乗れるだろうか、なんて非現実的なことを考えて現実逃避しても笑えない。

 十トンくらいの絶望が頭上に降ってきたみたいで、がくっと項垂れた。


「――なにしてるのさ」


 呆れたような声に、私ははっとして頭を持ち上げる。なぜか目の前に紫苑先輩がいて、幻覚を見てしまうくらい疲れているのかと自分自身に呆れてみたが、どこからどう見ても幻でもなんでもなく紫苑先輩その人だ。


「えっと、先輩どうしてここにいるんですか?」

「はぁ? 珍しく君が乗ってこないからどうしたのかと思ってホームを見てみたら、馬鹿みたいにぼうっとしてる君がいたからわざわざ降りてやったんだけど?」

「わ、わざわざありがとうございますっ!」


 ぺこぺこと頭を下げたが、紫苑先輩は私なんて見ていなかった。先輩は駅の時計をじっと見てから、首を傾けて私を見てくる。


「文化祭の疲れ、取れてないの? それとも寝不足?」

「い、いえ! 幸せ疲れです!」

「幸せ太り?」

「太ってはないですよ!?」


 響きがいいと思って幸せ疲れと言ってみたのだが、まさか幸せ太りと同じ響きだったとは。気付かされて苦笑する。正直に言うと、文化祭時に食べ過ぎたせいで体重が少しだけ増えていたが、見て分かるほどでもないので太ってないと言っても許されるだろう。

 うんうんと一人で頷く。ふと紫苑先輩の顔色を窺ってみると、「ん?」という表情を浮かべられた。


「紫苑先輩こそ、疲れてませんか?」

「僕は疲れてないから安心して」


 薄く笑う顔から、確かに疲れは見て取れない。「それなら良かったです」と返してみたけれど、駅のアナウンスに掻き消されてしまった。停車した電車に乗って、私は扉の横の手すりを掴んだ。

 隣に立っている紫苑先輩から目を逸らして、窓の外を眺める。ぼけっとしていると、浅葱、と呼びかけられた。


「今日の帰りに三日市の図書館に行きたいんだけど、また案内してもらえないかな?」

「もちろんいいですよ!」


 弓張の方には図書館はないんですか? と聞こうかとも思ったが、せっかく紫苑先輩と放課後に一緒にいられるのだから、余計な質問は仕舞い込んでおく。

 電車に揺られながら、私は放課後の下らない妄想に頭を働かせていた。図書館、ということであまり会話は出来ないだろうけれど、二人で静かに過ごすのも落ち着けて良いだろう。文化祭の二日目も屋上の扉の前でのんびり過ごしたが、楽しかった。

 これから電車を降りて学校に着くまで何を話そうか、帰り道で何を話そうかなどと考えながら、流れていく景色を目で追いかける。

 そうしているとすぐに電車は停まって、繊駅に着いた。

 電車を降り、改札を抜けて駅を出た。紫苑先輩と並んで歩道を進んで行く。隣を歩く紫苑先輩を少しだけ見上げてみたら、目が合った。私が先輩の方を見るとは思っていなかったのか、驚いたように瞼が持ち上げられている。多分、私も同じような顔をしていることだろう。私はそっと目を逸らして、かけるつもりだった言葉を心地良い風に乗せた。


「先輩、今日のお昼ご飯ちゃんと持ってきました?」

「そりゃあ、ね」

「ですよね……あはは」


 やはり質問がいきなりすぎたせいか、紫苑先輩の語尾に小さな疑問符が付いていたように感じられる。今日は珍しく自分で弁当を作り、先輩にも食べてもらいたかったから多めに作ったのだ。昨日のうちに連絡しておけばよかったと思ったが、自分で作ると決めたのが今日の朝なのだから仕方ない。

 今日は珍しく私が先に起きていったため、弁当が用意されていなかった。私が作っている時に萌葱がリビングにやってきて「お、自分で作ってる。感心感心」などと言っていたから、遅く起きてきたのは私に料理をさせる作戦だったのかもしれない。

 多く作りすぎてしまった分をどうするか考えていると、つい唸り声を出してしまう。紫苑先輩がそんな私を訝しげに見ているのは、視界の端の雰囲気から察せられた。


「……もしかして、僕の分も作ってきた?」

「ふぇ!? あっ、えっと、す、少しだけ!!」

「え。冗談のつもりだったんだけど本当だったんだ……」


 呆れられるかと思ったが、紫苑先輩の顔を見る限り、ただ驚かれただけみたいだった。少しだけとは言ったけれど、自分の分の弁当箱とは別にもう一つ弁当箱を持って来ており、その量は少しとは言えない。いや、私の弁当箱より小さめだから少しと言ってもいいのかもしれないが、少食な人の一食分くらいの量だ。

 頑張れば私だけでも食べきれるかもしれないが、残すのが賢明だろう。しかし食べ物を残すなんて勿体ないと萌葱に怒られそうだ。渡ろうとした横断歩道の信号が赤なのを見て足を止め、私が悩んでいると、紫苑先輩が言った。


「じゃあ、折角だしいただくよ。僕のも少しだけあげる」

「し、紫苑先輩の……手作り!」


 食べてもらえる嬉しさよりも、食べさせてもらえる嬉しさの方が勝っていて、なんだか恥ずかしくなってくる。恥ずかしげもなく嬉しそうな大声を上げてしまったことを振り返ってみると頭を抱えたくなった。


「浅葱って意外と食い意地張ってるよね」

「先輩? それ褒め言葉じゃないですからね?」

「思ったことを言っただけだよ」


 紫苑先輩が歩き出したため、前を向くと、信号は青に変わっていた。慌てて早足で進み、先輩の隣に並ぶ。

 今日はいつも以上に昼休みが楽しみだ。朝から幸せな気持ちで満たされて、私は小さな小さな鼻歌を漏らした。もちろんそれは、先輩に聞かれて微笑されてしまった。


     ◇


 昼休み、私はいつものように鞄を持って教室を出ようとする。いつもは一日中、先輩以外の誰にも声をかけられないから、「宮下さん!」と呼ばれて驚きのあまり猫みたいな声を上げるところだった。

 教室の入り口の傍で足を止めて振り向くと、文化祭の一日目に受付をしていた二人の女子生徒が私に手を振っている。戸惑いつつも、私は愛想笑いを返して頭を傾かせ、呼ばれた理由を無言のまま訊く。どう言葉にすればいいか分からなかったのだ。臆病な心のせいで私はここから走り去りたいらしく、足が少しだけ震えていた。


「ねぇ、お弁当一緒に食べない?」


 かけられた言葉に、私の震えが治まった。きょとんとしたまま彼女達を見つめたら、にこにこと微笑まれる。

 とても嬉しい誘いだったが、私はこれを断らなければならない。もしここに紫苑先輩がいたらきっと、彼女達と食べたらどうかと言いそうだけれど、今はここに先輩がいない。それに、先輩と一緒に食べたいと思う自分がいて、せっかく向けてもらえた優しさのやり場に視線を彷徨わせた。


「えっと……」


 どう断れば、嫌な奴と思われずにここを離れられるだろうか。良い言葉が出てこない。二人は優しい目をして私の言葉を待っていてくれているのに、今この空気が少しだけ苦痛だった。


「あ、ありがとう……。でも、その、私」

「あっ、もしかして他に一緒に食べる人いる!?」


 私の言い方から察したように、はっとしたような顔をされる。私はゆっくりと、小さく頷いた。すると今まで黙ったまま微笑んでいてくれた方の子が、額に手を当てて「あちゃー」と大袈裟に言った。


「先約があったか~……。いきなり誘っちゃってごめんね!」

「う、ううん! 私こそ、ごめんなさい。誘ってもらえて、嬉しかったよ……!」

「そかそか! じゃあ、また話そうね!」


 大きく手を振られた私は、小さく振り返して教室を飛び出した。教室の外に出て少し歩くと、あの二人の声が聞こえてくる。「宮下さんってさ」という言葉にどきっとして、足を止めてしまった。私の名前の後に、どんな言葉が続けられるのだろう。やはり断るべきではなかったのだろうか、などと後ろ向きにばかり考えていると、予想外の発言が聞こえてきた。


「ほんと可愛いよね!」


 恥ずかしさで赤くなった顔を咄嗟に隠したけれど、昼休みは皆教室で昼食を食べているため、幸い廊下の人通りは少ない。しばし固まっていたら、あの二人はまだ私の話をしているようだった。


「私、一年生の女子で一番可愛いの宮下さんだと思ってるよ。あれはやばい、撫でたくなる」

「分かるけど! 撫でちゃ駄目だよ!?」

「じゃあ抱きしめる!」

「もっと駄目だから!」


 流石にそろそろ耐え切れなくなって、私は早歩きでその場を離れた。紫苑先輩を待たせていることを思い出し、足を進める速度を上げていく。

 頭が上手く回っていない状態で階段を駆け上がって、屋上の扉におでこをぶつけてしまった。そんな自分に苛立ち、「っ、もう!」とつい声に出してしまった。

 ふうと深呼吸をしてから扉を開けると、フェンスを背にして座り、読書をしている紫苑先輩の姿を見つける。先輩は私の方を見もせずに本を閉じて、傍に置いていた鞄から弁当箱を取り出した。


「遅かったね。今すごい音がしたけど大丈夫?」

「だ、大丈夫、です」

「……顔、真っ赤だけど平気? 顔面ぶつけた?」

「ぶつけたのはおでこですから!」


 紫苑先輩の隣に座って、頬を膨らませながら鞄を漁った。弁当箱を二つ出して、小さめの箱を先輩に差し出す。


「どうぞ。美味しくなかったら、すみません」

「ありがとう。ああ、食べたいもの食べていいよ」


 私と紫苑先輩の間に、先輩の弁当箱がそっと置かれた。私はすぐさま先輩手作りの卵焼きに箸を伸ばす。食べた直後「美味しいです!」と感想を叫んでいた。私の家は甘い卵焼きを作ることが多いけれど、紫苑先輩の卵焼きはだし巻き卵だ。出汁の味と卵の味がいい感じに絡み合っていてとても美味しい。


「それは良かったよ。浅葱、料理苦手なのかと思ったけどそうでもないんだね。色も形も普通だし」

「いったいどんなものが出てくると思っていたんですか」

「蓋を開けたら真っ黒、みたいな」

「得意ではないですけど、そこまで酷くないです!」

「見れば分かるよ。それにちゃんと美味しいし」


 美味しい、と言ってもらえて、私はほっと胸を撫で下ろした。母や萌葱の料理に比べたら劣るだろうけれど、本当に美味しそうに食べてくれている紫苑先輩を見ていると自惚れてしまいそうだ。

 私はお茶を一口飲んで、ふうと小さく息を吐き出す。


「さっき、同じクラスの子に、一緒にお昼食べないかって誘われたんです」

「……僕のことなんか気にせず、一緒に食べてくればよかったのに」

「それは嫌だったんですよ」


 私がはっきりした声で言うと、紫苑先輩は不思議そうな顔をして私を見ていた。今の先輩が考えていることは、なんとなく分かる。同い年の友人と一緒にいた方が良い、自分と仲良くするよりクラスメートと仲良くした方が良い、といったようなことを考えているのだと思う。

 私は、真っ直ぐに伝える。


「先輩と、食べたかったんです」

「……そっか」

「私、その子達と、友達になれそうで……嬉しいです。教室でも、友達が出来るかもしれなくて、嬉しいんです。でも、それで紫苑先輩との距離が……開いてしまうのは、嫌なんです」


 紫苑先輩に抱いている感情に気付いて欲しい。そう訴えるみたいに、訥々と続けていた。先輩は無言のまま、聞いていてくれていた。しんと静まったことで微妙な空気になっていることに気が付いて、私は話を変え始める。


「紫苑先輩、テストって来週でしたっけ?」

「……テスト? いや、来週がテスト一週間前で、再来週がテスト期間だった気がするけど」

「じゃあ、待宵に行くのは、テストが終わった後の土曜日でどうでしょうか?」

「いいよ、そうしようか」


 やった、と心の中で喜びつつ、私は手帳に予定を書き込んでいく。じっと十月の予定を眺めてはっとしたように「あ!」と声を上げた。その声に目を丸くしている紫苑先輩に、ずいと近寄る。


「あと、その次の週の土曜日も、空けておいてもらえないでしょうか!」

「ああ、うん。まあ、用事とか入らないだろうから大丈夫だと思うけど」

「良かった……! 先輩との予定がどんどん増えていって、嬉しいです。楽しみにしていますね!」


 先輩が頷いたのを見てから、私は食事を再開する。紫苑先輩は今日も何度か私に笑いかけてくれているけれど、何かに悩んでいるような表情が見え隠れしていた。夜、偽物の世界で何かあったのかもしれないと思うも、聞くかどうか迷いに迷って、結局何も聞かないまま昼休みは終わってしまった。

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