第十章

ウサギの声1

     ◆


 文化祭が終わり、三日が経った。僕はまだ、綾瀬早苗に会えていない。今日も三日駅周辺を徘徊しているが、それらしき姿を見つけることすら出来ていなかった。

 三日駅に一番近い所にある公園。それを囲う柵の中に足を踏み入れ、ベストのポケットからバタフライナイフを取り出した。

 砂場を踏み付けてこちらに向かって来るのは人兎だ。その手には何も持たれていなかったため、珍しく思う。今まで戦った人兎はなにかしら武器を所持していた。こいつは始めから武器を持っていないのか、それとも他の能力者に奪われたのか。もし後者だったなら――この近くに、能力者がいるかもしれない。

 その能力者というのが綾瀬早苗なら、と考えて、周囲を見渡した。簡単に全容を見回せる程度の広さの公園。柵の外、道路を挟んで建っている建物。その陰を窺っても、人影が無い。


「――ッ」


 視界の端に捉えておいた人兎が接近した刹那、慌ててナイフを顔の前に持ってきた。僕の眼前に迫っていた人兎の拳はナイフに受け止められる。押し返そうとするも、どうやら僕の力は人兎のそれに劣っているようだ。防いだつもりの拳はナイフに食い込みながら僕を押してくる。震えるほど力を込めて、向かって来ようとする拳をなんとか留めつつ、呻くような声に命令を乗せた。


「〈折れろ〉」


 呟きが骨と肉の捻れる音に掻き消されていく。人兎の腕が雑巾のような形状となった直後、突き出されたもう片腕をくぐりぬけ、その胸に刃を突き立てた。殺意に満ちた切っ先は更に奥へと沈む。

 もっと、深く刺さないと。

 どれほど深く刺せば心臓を貫けるのか、僕は知らない。だから限界まで、刃を押し込んだ。

 これ以上は刺せない。そう確信すると一気に刃を引き抜いた。撒き散らされる血液。力を込めすぎたせいで震える手。その震えさえ誤魔化すくらい強くナイフを握り締め、倒れ込んできた人兎の体を柄で突き飛ばした。

 長身の体が目の前から消えれば、開けた視界に公園のジャングルジムが入り込む。乾いた拍手が響いたのは、そこからだ。

 ジャングルジムを背にして、綾瀬早苗が立っていた。


「あなた、ここだと良い目をするのね」

「……綾瀬早苗。僕は、お前に聞きたいことがある」


 ナイフの血を払うように虚空を薙ぎ、彼女に数歩近寄る。彼女の能力は分からない。警戒することを忘れてはいけない。僕はいつでも刃を振るえるように構えながら、彼女の口が動くのをただ待っていた。

 くすり、と小さく笑われる。


「知っているわよ。そのためだけに一週間以上も私に会おうとしてくれるなんて、可愛いわよね。それと、どうせなら下の名前で呼んでくれないかしら?」

「下らない話はいいから『ウサギ』を教えてくれない?」


 悩むように腕を組んでから屈んだ早苗は、地面に落ちていた細い木の枝を手にした。指し棒を持つ教師のような姿に、彼女の職業が何か、というこの状況ではどうでもいいことを想起する。

 気を引き締め直して、僕はその一挙一動を見逃さぬよう目を細めた。そんな木の枝を一体何に使うつもりなのか、見当もつかない。


「じゃあ、私を倒してみなさい。お兄さんよりも優しくて甘くて弱いあなたが、私を倒せるなんて思えないけれど」


 嘲笑。しかしそんなものは、今の僕の心を一ミリも揺らせない。戦闘時に挑発に乗るなんて、自分を不利にするだけだ。

 表情一つ変えない僕に、つまらなさそうな声が漏らされた。


「あら、可愛げのない坊や」

「とりあえず、お前を倒せばいいんだろ?」

「ふふっ、並縫いをする時みたいな簡単さじゃないわよ?」


 早苗の手に注意しながら、僕は駆け出した。ナイフの軌道上に彼女の手が乗ったことを視認し、彼女の手首から上を切り捨てる勢いで刃を振るう。その手にある木の枝さえ払えればよかったのだが、軌道上にあった木の枝はぐにゃりと歪んだ。


「――は?」


 間抜けな息が口から飛び出した。一瞬の動揺と停止は当然彼女に見逃してもらえなかった。空気だけを切った虚しい刃に、ただの木の枝が絡みつく。それを振りほどく間すらなく、彼女の腕が大きく横に振るわれ、遠心力のようなものが働いて吹き飛ばされた。

 離しそうになったナイフをしかと握り締めることだけに意識を集中させていたおかげで、受身を取れずに地面へ転がる。

 素早く立ち上がり、彼女の方に顔を向けた。目の前に鞭のような木の枝が迫っていた。反射的にナイフでそれを受け流す。

 彼女が手にしたのはすぐに折れてしまいそうな細い木の枝だったというのに、受け止めたナイフが持っていかれそうなくらい強い一撃を放ってなお、折れる様子は無かった。

 というよりも、彼女が武器としているそれはもう、地面に落ちていた木の枝とは別物のように見える。

 自在に曲がり、伸び、鉄のような硬さにまで変化する。木の枝にして、木の枝にあらず。『そんな木の枝』なんて高をくくったことに対する自嘲の笑みが形作られてきた。

 風を切る音を響かせて、大きな円を描くみたいに振るわれる鞭。僕はそれをなんとか払いのける。金属と金属がぶつかり合っていると錯覚するような擦過音。右に左にと受け流している時でさえ、木の枝の重みに冷や汗をかいていたが、それが地面に叩きつけられた時は思わず顔を引き攣らせた。地面が裂けるのではないかと思うほどの衝撃音は、僅かに大地を震わせていたように感ぜられた。


「驚いたかしら? 素敵な能力でしょう?」

「驚きはしたけど、素敵とは思わないかな」

「あら残念」


 先ほど転がった時の打ち所が悪かったのか、右腕が痛む。それを気のせいだと思い込むようにしながら、僕はもう一度早苗の方へ走り出した。


「〈歪め〉」


 距離はおよそ八十メートル。駆け始めて五秒以内に口に出す指令。彼女が驚きつつも空気の重みに耐えきれなくなり膝を突く。動く暇を一秒も与えないままに、僕はその肩を蹴り飛ばした。


「――甘いのよ」


 彼女の体が倒れる様を見届ける前に能力を解き、自身の愚かさを悔いた。蹴るために持ち上げた足は下ろす前に木の枝に絡め取られ、引っ張られる。

 数刻前と同じように飛ばされて、地面に背を叩きつけた。瞬刻息が詰まり、僕は咳き込む。起き上がる前に、早苗に圧しかかられた。


「呉羽くん、敵を倒すってどういうことかちゃんと分かっているのかしら?」

「……降参させること、かな」


 右手を地面に這わせ、早苗から視線を逸らさずにナイフを探る。落としたナイフが傍に無いなら能力を使う他ないが、この距離では目を塞がれたらお終いだ。使うのであればせめてナイフを手にしてからだ。そうでないと、能力を使えない状況に陥った時に対処する術がない。

 僕の回答に不気味な笑みを浮かべた早苗の左手が、僕の手を押さえつける。武器を取らせないためだったのだろうが――もう遅い。この手の下には、既にナイフがあるのだから。

 早苗は僕の目だけを見ているから、きっとそれに気付いていない。動くべき時は、いつだ。

 ふふっ、という不愉快な笑声が僕の耳をくすぐった。


「ええ、殺すことではないわ。戦意を失わせることよ。だから、相手が戦えなくなる又は戦う気を失うまで、気を抜いてはいけないの」


 早苗の右手が持ち上げられる。刃のような鋭さを持った枝が、僕の首に添えられる。薄皮が裂け、ちくりとした痛みに眉を顰めれば、彼女の笑みが深くなった。


「うふふ……あなたお兄さんよりもいじめ甲斐がありそう」

「危険人物だと予想はしていたけど、予想以上だよ。よくそれで教師なんて勤まるな」

「私とお兄さん、少しだけ似てるのよ。って言えば、勤まる理由が分かるかしら?」


 弧を描いた艶っぽい唇を舌でなぞる早苗は、獲物を前にした肉食獣みたいだった。そろそろ動かなければ形勢逆転することすら叶わなくなりそうで、僕は人知れずナイフを握り締めた。けれどその時、気付く。早苗の手を、振り払えないかもしれない。握るために動かすだけでさえ難しかったのだ。

 自分の手の方に目を動かすと、それを許さないと言うように痛みを走らされた。


「っい……!」

「悪い子。せっかく特別授業をしてあげているんだから、私だけを見ていなさいよ」


 眼球に触れるほど傍にある、木の枝。

 それが見て取れたのは一秒に満たないほどの間で。


「ぁ、が、ッぁああ!!」


 僕は、何が起きたのか分からないくらいの激痛に悲鳴を上げた。

 痛み、恐れ。そんなものが、頭の中を支配していく。気持ち悪い感覚、気持ち悪い音。今、自分の右目がどうなっているのか想像したくもなかった。容赦なく角膜を裂こうとする刃。いや、もう裂かれて、その奥を傷付けようとしているかもしれない。悪戯に眼窩を抉られ、痛みで狂い出してしまいそうになる。彼女の手を払いのけようとしても、それは叶わない。


「あぁ、素敵……。うふ、ふふふっ、もっと無様に足掻いてみせて……!」


 恍惚とした声を耳にした直後、僕は彼女の力が緩んで出来た好機を逃さなかった。痛みに歯を食いしばりながら、彼女の手を振り払ってナイフを煌かせる。


「〈折れろ〉」


 自分の叫びで痛みは更に強まったが、そんなことを気にしている余裕なんて無い。僕の目を抉っていた腕が音を立てて折れ曲がる。呆然とそれを見つめる早苗を、起き上がる勢いに任せて押し倒した。

 目を見開いた彼女の左肩に、自分の体の重みと敵意全てを乗せた刃を突き立てる。距離感が掴めなかったため、勢いに何もかも任せていた。


「くっ!」

「さて――」


 一つ息を落として、僕は刺したままの刃の角度を変えた。愉しそうだった早苗の顔が痛ましげに歪む。


「月の『ウサギ』は、どこにいるのかな?」


 痛みでおかしくなったみたいに、僕は冷静だった。

 子供に簡単な問題を投げかけるみたいな声が静寂に響き、早苗は戸惑ったようだ。今の僕は不敵に笑ってみせる事だって出来る。――これが全て強がりに塗れた虚勢だなんて、少し考えなければ分からないくらい自然だった。

 そんな僕の隠した弱さを見つけたように、早苗は笑う。疲弊のせいか、力ない笑みだ。


「あなたには、教えたくないわ。面白く無さそうなんだもの」

「死にたくなかったら早く答えなよ」


 脅しのためにナイフを捻る。悲鳴を堪えたような声を漏らしたが、彼女はそれでも笑みを絶やさない。


「殺せないでしょ? 殺したら、聞けなくなるのよ?」

「殺したら、他を当たればいいだけだ」

「手、震えているわよ」


 馬鹿にするような言い方じゃなかった。諭すような優しい声に、僕は顔を俯かせる。見ると、僕の手は本当に震えていた。情けない。表情を作って、冷静を装っても、手は正直だ。

 いくら人兎を殺してきても、人を殺すことなんて、本当に出来るわけがなかった。能力という異常なものを抱えている僕はきっと、心だけは正常でありたいと、ブレーキをかけているのだ。本当に弱い。けれど人を殺すことが強さになるなら、僕は弱者のままでいい――とさえ思うのは、甘えの類なのだろうか。

 自己嫌悪の八つ当たりみたいにナイフを握る手に力を込めていたら、早苗に「やめなさい」と優しく言われた。調子が狂う。本当に、紫土に似ている。僕が知らないだけで、こういう人は多いのかもしれない。弱いから誰かを傷付けて、けれども優しさがあるから、傷付いた誰かを見続けることに苦痛を覚える。そんな人に、どう接すればいいか分からない。

 何も言葉にしない代わりに唇を噛んだ。そんな僕に、早苗が語り始める。


「前にも言ったと思うけれど、あの月の絵を描いたのは私の知っている生徒なの。この世界にいる能力者の、お兄さんよ」

「誰かの……」

「ええ。その子にとっての、たった一人の家族。けれどそのお兄さんは、交通事故にあって、それからずっと植物状態」


 兄がいる能力者と聞いて、真っ先に僕自身を思い浮かべた。しかし続けられた言葉に、『ウサギ』が僕ではないという確証を得る。

 早苗の顔を見ると、彼女は『ウサギ』を憐れむような表情で薄く笑っていた。許してあげてとでも言い出しそうな彼女へ、僕は低い声を落とす。


「だから、なんだっていうんだ。不幸な目に遭ってるからって、無関係な僕達を巻き込んで」

「『ウサギ』はね、ずっと、泣いてるのよ。孤独に泣いて、叫んで、ずっと……愛されたいって、思っているの」


 その言葉に、胸を締め付けられる。孤独の痛みも、愛されたい思いも、誰だって分かると思う。誰だって悩んで、泣くと思う。

 僕は、親友を失って独りになったと悲しげに告げた浅葱の顔を思い出した。母に好きになってもらいたいと、そう言って泣いた菖蒲のことを思い出した。心の声が聞こえてきて生き辛いと、苦しげに吐き出した枯葉。満たされない思いを暴力に変えて叫ぶ紫土。僕に友達でいてくれるかと、助けてくれるかと、弱さを見せた蘇芳。

 東雲は、僕に『ウサギ』を救って欲しいと言った。僕でなければ、駄目なのだと。

 僕は逡巡しながらも、問いかけた。


「僕は、さ。『ウサギ』と……関わったことが、あったのかな」

「それを知りたかったらお兄さんに聞いてみなさい。私は彼から聞いたことがあるけれど、彼の口から聞いた方がいいでしょう?」


 紫土が何かを隠していることは分かっていた。早苗の言うことは尤もだが、彼が素直に話してくれるとも限らない。けれどきっと早苗は、ちゃんと兄と話せ、と言いたいのだろう。

 狂気が溢れた表情はとっくに失せていて、その顔は教師が浮かべるものだった。優しげに、ゆっくりとその口元が動く。


「心当たりが無くても、仕方ないわ。だってあなた、一度こっちで死んでるじゃない」

「それは、分かってるけど」

「あら、分かっていたのね。どうして死んだか、誰に殺されたかは?」

「そこまでは知らないよ」

「そう……まあ、知っていたら関わったことがあったかなんて聞かないものね」


 早苗の目元が、柔らかく細められた。今彼女の手が動いていたなら、僕の頭にその手を伸ばしていたと思う。そんな風に感じたのは、一体彼女の表情が何の記憶を思い起こさせたからなのだろう。彼女の笑みを見ていたくなくて、即座に目を逸らした。


「ねえ呉羽くん、あなたはどうするのかしら。神屋敷くんを殺した『ウサギ』を殺して、終わらせる?」

「殺さないさ。そもそも殺したって、終わらないんだろ」

「終わるわよ。本当に、本当の世界で殺せば」


 その言葉に顔を顰めたが、早苗の諦めたような面差しを見たら、咎めることなんて出来なくなる。ただ静かに、一言だけ落とす。


「……僕に犯罪者になれって言ってるのか」

「それが嫌なら『ウサギ』を説得して終わらせてみなさいよ。こんなことをしてもなんにも意味がないって、あの子に、分からせてあげなさいよ」


 懇願するみたいな響きだった。希うその瞳は、自信満々に無力さを曝け出していた。誰かを救い出すのに、大人だとか子供だとかそう言ったことは恐らく関係ない。そもそも『救う』なんて大それた言葉を使えるほど、僕は出来た人間じゃない。


「教えてくれて、ありがとう」


 それでも僕はせめて、救うなんてことが出来ないからせめて、きっと『ウサギ』も知っている『思い』を、思い出させてやりたいと思った。



 元の世界に戻った僕は、そっと右目に手をやった。向こうで負った傷は治ると分かっていても、ちゃんと治っていることを確認しなければほっと胸を撫で下ろせなかった。安堵の息を吐き出して、携帯電話を取り出す。関係のない人間に電話をかけて詮索をするような真似をするのは気が引けたが、今すぐに確かめられる術はこれくらいしか浮かばなかったのだ。


『もしもし』


 こんな時間だというのに、その声は眠そうに聞こえない。早起きは慣れているのかもしれない。


「いきなりごめん。聞きたいことがあるんだけど」

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