笑顔2

「呉羽先輩? 聞いてます?」

「……聞いているよ」

「呉羽先輩は、真面目な話をするのが好きなんですか?」

「別にそういうわけじゃないけど」

「じゃあなにか面白い話をしてくださーい」


 面白い話……。なにを面白いと感じるかは人それぞれであって、僕が『これは面白いぞ』という話を話したところで彼女はきっと面白いとは思わない。だから言葉に詰まった。いや、本音を言うと、面白い話なんて一つも持っていない。笑いのセンスをいきなり僕に求められても困る。

 ふと浅葱のことを頭に思い浮かべ、それとほぼ同時に口が動き出していた。


「浅葱が電車内で必死に揺れと戦ってた話とかどうかな」

「え、なんですかそれ。宮下センパイなにしてるんですか」


 蘇芳の声が僅かに震えている。笑わせることに成功した、と思っても構わないだろうか。他にネタはないから、成功したことにしておく。

 ケーキをフォークで切っている蘇芳の手元をぼうっと眺めていると、蘇芳は切り終えたケーキを刺すことも口に運ぶこともなくぴたりと動きを止めた。


「……食べないの?」

「食べますよ。でもそんなじっと見られてると流石のあたしでも恥ずかしいです。女子中学生の白くて綺麗な素肌をじっと見つめるなんて呉羽先輩なかなか変態だったりします?」

「あんまりふざけたこと言ってるとそのケーキ僕が食べるよ」

「えっ、間接キス……!?」

「……そうなるのか。それは御免だな」

「うっわひどっ」


 僕が少し視線を逸らしたら、蘇芳がようやくケーキを食べ始めた。食べているところを見られることに抵抗があるのかもしれない、と考えてすぐにそれを否とした。

 蘇芳が気にしているのは恐らく、手首を見られることだ。リストカットの痕があるという話が本当なら、この予想は確信に変わる。

 ケーキを食べ進める蘇芳を視界の端に捉えつつ、コーヒーを一口流し込んだ。


「……半袖、寒くないの?」

「寒くないですよ。長袖より半袖の方が好きなんです。でも今日は長袖で来ればよかったなと思いました。呉羽先輩とデートなのに、失敗したなーって」

「じゃあこの後服でも買いに行こうか」

「おっ、デートっぽい! そうしましょう! あたしが食べ終わるまでゆっくり待っててくださいね」


 あと二口くらいで食べ終わりそうなのに、なぜゆっくりと言ったのか不思議に思い蘇芳の方を見てみると、彼女はちょうどケーキを食べ終えていた。それから両手でコップを持ち、コーヒーを少し飲んで顔を歪めて、テーブルに置く。

 置かれたコップに入っているのがブラックコーヒーだと気付いた僕は、くすりと笑ってしまった。


「もしかして、苦いの駄目なのにブラック頼んだんだ? ミルクと砂糖取ってきたら?」

「……そんなの無くても飲めます。あたし子供じゃないんで」

「へぇ」


 そこまで言うのなら、頑張って飲み干すのをゆっくり待つしかない。ちょっとずつ飲んでいた蘇芳が、残り半分くらいというところで僕の方にコップを押し寄せてきた。


「飽きました。あとは呉羽先輩にあげます」

「……仕方ないな」


 僕もあまり苦いのは好きではないが、飲めないわけではない。わざわざミルクを取りに行くのも面倒だから、そのまま飲み下した。

 蘇芳は店を出る準備が出来ているみたいだったため、僕は鞄を取って立ち上がる。


「じゃあ、行こうか」

「店出たら手繋いで歩きません? それか腕を組むか」

「よく聞こえなかったんだけど、なに?」


 もちろん聞こえていたが、返し方に困ったので聞き返してみた。すると機嫌を悪くしたようで、蘇芳の口がへの字に曲がる。長い髪を揺らして僕に背を向け、先に店のドアの方に向かっていった。


「……なんでもないわよばーか」


 吐き捨てるように言われて、苦笑する。僕は蘇芳の背を追いかけるように店を後にした。


     ◆


 蘇芳が服を選ぶのにかける時間は、想像していたよりも長かった。なかなか良いものが見つからないのか何件も行き来して、ようやく一着購入した頃には、僕の顔面に疲弊の色が塗りたくられていた。

 カフェを出たのが昼過ぎで、それからすぐ服屋に行ったというのに、もう日が沈んでいる。暗い赤色のジャケットに袖を通した蘇芳を、ちらりと横目で見た。どうやら気に入ったらしく、その表情は疲れなど全く感じていないような満面の笑みだ。

 蘇芳に、この服はどうかと何回か聞かれたが、「いいんじゃないかな」と返すと不満げに唸り、そっちの方がいいと思うなどと言えば「似合わなさそうだからやっぱりやめる」と、試着しようとしていた服を元の場所に戻しに行っていた。結局彼女は、最後に寄った店で見かけたジャケットに飛びついて、即座に買った。

 自分で選んで買えるのなら始めからそうしていれば良かっただろうにと思いつつ、大息を吐き出す。すると蘇芳がツインテールを揺らして、僕の顔を覗き込んできた。


「楽しかったですか? あたしとのデート」


 その言葉は、一般的に別れる前に使われていそうなものだった。確かに、頭上に広がる鉄紺色の空を見たら、帰りたいと思っても不思議ではない。けれど、ただ食事を共にして服を見ただけで蘇芳が満足するなんて、なんとなくだが思えなかった。


「……疲れた」

「えー、ひどいです」

「けど、退屈はしなかったよ」


 言いながら、服を選んでいる際に何度も声をかけられた理由がその言葉に結びついた。退屈させないためにずっと喋っていてくれたのかと今更気付いて、僕は自分に呆れる。年下の少女に気を遣わせていたうえ、それに気付いてやれなかったことを悔やんだ。

 地面を睨んでいると、蘇芳に腕を引かれた。


「駅に着くまでの間でいいですから、このまま歩いてくれません? あ、ゆっくりがいいです」

「……別に、いいけどさ」


 腕を組んだまま、僕と蘇芳はゆっくり駅の方に歩き出す。いや、腕を組んでいるというよりも引っ張られているといった方が正しいかもしれない。風で蘇芳の髪が揺らされて、それと同時に甘い香りが鼻腔をくすぐった。香水だろうか。あまり香水は好きではないけれど、その香りは嫌いではなかった。

 歩を進めていると、ふと子供の姿が視界に入った。もう遅い時間だというのに、ランドセルを背負った彼らははしゃいで空を仰いでいる。菖蒲といい、最近の小学生は門限のようなものがないのだろうか。

 空には満月が浮かんでいるからか、少年達の目はどこか嬉しそうだ。


「なあ、月ってうさぎが住んでるんだって! 母さんが言ってた!」

「うさぎが? 月に?」


 そんな彼らの会話を小耳に挟みつつ、僕も月を見上げてみた。そういえば、こちら側の世界で月をじっと見ることなんて、あまりなかったかもしれない。零時前なら毎日色々な形の月が見られるというのに。

 絵ではない本物の月に視線を引かれ続けていたら、自然と足が止まっていることに気が付く。先に足を止めたのは僕の方だったのか、蘇芳の方だったのかは分からない。彼女も僕と同じように満月を見上げているのだろうかと視点を移してみれば、予想は外れていたようで、その目は子供達に向けられていた。


「どうかした?」


 微笑んで見ているのなら、さほど気にしなかったと思う。けれど蘇芳の瞳は細められており、元々強気そうな目つきのせいで睨んでいるようにも見て取れた。

 ふわりと髪を揺らして、蘇芳の顔がこちらに向く。と、すぐに彼女の靴が音を立てる。歩き始めた彼女につられるようにして、僕も進み出した。


「……あたし、月に兎が住んでいるって思い込んで目を輝かせている人を見るの、すごく嫌いなんです」

「……子供なんて、みんなそんなものだと思うけど」

「そうかもしれないですけど……。呉羽先輩は、こんな話知りませんか?」


 見上げてくる目は中学生よりも年上に見えるくらい大人びていた。以前彼女が真面目な話を始めようとした時も、こんな顔をしていたなと思い出す。元気で明るいイメージが拭えないおかげでその表情を見ると戸惑うが、真面目でしっかりしているのもまた彼女だ。

 僕は無言で先を促した。


「兎と猿と狐が、山の中で倒れている老人に出逢うんです。三匹はその老人を助けようとして、それぞれ食料をとりに行きました。猿は木の実、狐は魚を持ってきたのですが、兎だけは何も持ってくることが出来ませんでした。そのあと、兎はどうしたと思います?」


 唐突に問いが投げかけられる。悪戯っぽく笑う蘇芳は、どうやらこのクイズで悩む僕の顔が見たいらしい。

 しかし残念ながら、僕は悩むことなく解答してみせた。


「確か猿と狐に頼んで火を起こしてもらって、兎自身が食料になるために焼かれたんじゃなかったかな。確かそれ、仏教説話だったよね?」


 不満げに、はー、と息が吐き出される。蘇芳は心底つまらなさそうに口元を歪めた。


「……なんだ、知ってたんですね。最後、老人が兎のした慈悲深い行いを後世まで伝えたいと思って兎を月に昇らせた~とか、いい話みたいになってますが、あたしはあの話ほんっとに嫌いなんです」

「兎が可哀想だから?」

「そりゃそうですよ。老人が実は神様だった、ってふざけてるんですか。じゃあ兎はなんのために死んだんですか。魚と木の実があれば十分だろうに、どうして猿も狐も、兎の自殺行為を止めなかったんですか」


 たかが物語にそこまで怒るのか、と思うくらいの怒気を孕んだ語調だった。僕は蘇芳の苛立ちを少しでも鎮めようと、冷静な声を投げかける。


「所詮、説話だからね。そこに何かしらの教訓があればそれでよかったんじゃないかな」

「……教訓が霞むくらい周りが酷いじゃないですか。ただただ、兎が可哀想なだけです」


 吐き捨てられた言葉を、僕は拾いには行かなかった。その言葉には同意見で、返し方が見つからない。黙っていたら、蘇芳が今までよりもいくらか明るい声で続けた。


「だからあたし、嫌いなんですよ。月に兎がいるのは、兎が馬鹿みたいに自分を犠牲にしたから。その醜態をずっと月に描かれて……可哀想なんですよ。なのであたしはもう月に兎がいるなんて馬鹿な話信じませんし、もし子供が出来てもそんなこと教えません。月は月です。見えるのはただの月の海です。兎になんて、見えません」


 聞きながら、仮説を組み立てていた。

 もし蘇芳が『ウサギ』だったなら。なぜあの偽物の月に兎が描かれていないのか、納得出来るような気がする。僕はさりげなく問いかけた。


「蘇芳はさ、絵って描く?」


 聞き方がさりげなく、だったとしても、その問いはどうしてもあの月の絵に結びついてしまう。もう少し良い聞き方がなかったのか、と後悔してももう遅い。きょとんとしたように僕を見てから、質問の意図を理解したらしい彼女に笑われた。


「あたしが『ウサギ』かもって疑ってます? まあ、そうですよね。でも安心してください。文武両道で容姿端麗なあたしでも、苦手なことってあるんです。美術の評価、真面目にやっても酷いですから」


 その笑いに嘘は感じられなかった。それにしても、自分で文武両道だとか容姿端麗だとか言える彼女を少し羨ましく思う。自分に自信を持っている人は、輝いて見える。

 僕はにこにこ笑い続ける蘇芳から視線を前方に戻すと、月の兎の話をしながら結構歩いていたことに僅か驚いた。そこまで長々話していなかったと思うのは、集中していたせいだろうか。

 蘇芳の歩く速度がほんの少し遅くなった。既に見える位置にある駅までの距離を、少しでも長く感じたいからかもしれない。


「呉羽先輩」

「なに?」

「呉羽先輩は、あたし、の……えっと……友達ですか?」


 鈴のような声が、震えながら僕の耳に流れ込む。蘇芳は、否定されることを怯えているように思えた。

 僕は、自然と返していた。


「そうなんじゃない?」


 もう少し気の利いたことを言うべきだったかもしれないが、僕自身誰かを友達だと思うことに未だ抵抗がある。だから曖昧な返しになってしまったものの、その答えで満足だったのか、蘇芳は柔らかな笑みで僕を見上げていた。


「あたしがもし虐められてたら助けてくれます?」

「目の前で、だったら助けるかもしれないね」

「じゃああたしが、もしいきなり呉羽先輩に電話をかけて、助けてって叫んだら来てくれます?」

「……まあ、行くんじゃないかな」


 自信家で強気な蘇芳はか弱い女の子みたいなイメージとは離れていたが、今笑いながら発している言葉はどれも弱さから来ているもののようだった。

 誰にだって弱い部分があるが、それを表に出す人と出さない人に分かれる。蘇芳はプライドが高そうだから出さない側の人間だと思っていた。それは僕の勝手な思い込みだったらしい。

 もう聞きたいことはなくなったのか、問いは飛んでこなかった。少しして、彼女の頭が揺れる。頷いたのだろう。


「やっぱり、呉羽先輩は、思った通りの人です」

「……そう」

「ふふっ、好きですよ、呉羽先輩」

「――わー、紫苑さんフリンってやつですか? いや、ウワキでしたっけ?」


 いきなりかけられた茶化すような高い声に、僕と蘇芳が同時に「は?」と零しながら、声の主を見やった。

 声色から予想はしていたが、菖蒲がここにいることに関しては予想外だ。

 僕の腕を解放した蘇芳が警戒するように菖蒲を見据える。菖蒲はというと、休日にもかかわらずランドセルを背負っていた。学校の行事があった……わけでもなさそうだ。となると彼が待宵に来る理由は思い当たらない。

 僕が疑問を浮かばせていたら、蘇芳が敵意を丸出しにして刃物じみた声を突きつけた。


「……あんた、能力者よね」

「あは、会うのは二度目か三度目でしたよね? こんばんは、お姉さん」


 菖蒲の声にも、顔にも、敵意は一切ない。それがむしろ不気味に見えているのか、蘇芳は警戒心を解こうとしなかった。一触即発にも感じられる空気の中、仕方がないから僕が割って入る。


「蘇芳、彼は神屋敷菖蒲。協力者だ」

「協力者……? まあ、小学生が『ウサギ』って可能性はありませんしね。こんな子供、役には立たなさそうですけど」

「お姉さんは蘇芳さんって言うんですね。よろしくお願いします」


 思い切り菖蒲に聞こえる声で冷たく言い放たれたというのに、菖蒲は顔色一つ変えずに微笑を浮かべていた。子供らしい笑顔から、蘇芳がばつが悪そうに目を逸らした。


「……で、菖蒲はどうしてここに?」

「紫苑さんに用があったので、東雲さんに聞いたら浅葱さんに聞いてくれて、待宵市だと分かったからです」

「あ」


 胃の内容物を吐き出す直前のような声を上げたかと思うと、蘇芳が僕達に向けていた顔を別の方向へ動かす。その反応からして、浅葱が知っているのは蘇芳が教えたからかとすぐに分かったが、聞かずにはいられなかった。


「……なんで浅葱が知ってるんだ?」

「…………えーと、甲斐崎と宮下センパイに、あたしと呉羽先輩を尾行して、変なやつがいたらぶっとばしといてって頼んだから、です」


 変なやつ、というのはカフェで言っていたストーカーのことだろうか。だとしても、それを先に僕にも言っておくべきだったと思う。周囲をぐるりと見回してみたが、浅葱の姿も枯葉の姿も見当たらない。僕が二人を探していることに蘇芳も気付いたらしく、彼女も黒目を左右に行き来させたが、首を傾けた。


「いないんですかね? ちょっと甲斐崎に電話してみます」

「……菖蒲。用って?」


 蘇芳が携帯電話を耳に当てて僕達に背を向けたから、僕は話を戻す。菖蒲は何かを言おうとして口を開いた。しかしなにも言わず閉口する。


「……あれ? なんでしたっけ」

「忘れたとか言わないよね?」

「……えっと、どうやら、忘れてしまったみたいです。あはは……」


 呆れたものだが、僕をずっと探していたのであれば疲れて忘れてしまっても仕方がないのかもしれない。僕は嘆声だけ返して携帯電話を取り出し、時間を確認する。十九時過ぎだ。菖蒲も蘇芳もそろそろ帰った方が良いような気がしたため、蘇芳に声をかけようとした。けれどその前に、先に蘇芳が僕の袖を引っ張っていた。


「甲斐崎、宮下センパイと色々店を回ってたみたいです。今から駅に向かって宮下センパイを呉羽先輩に押し付けて帰るみたいですから……、呉羽先輩、本日二度目のデートでも楽しんだらどうです?」

「……つまり、僕はここで浅葱を待てってことか。二人はもう帰った方がいいよ。こんな時間だしね。というか、二人だけで平気?」


 声をかけながら駅の中に足を踏み入れる。すると小走りで僕の前に出てきた菖蒲が、ぐっと握り締めた手を僕に見せつけてきた。


「大丈夫です! 蘇芳さんはぼくが守りますね」


 やる気に満ちた顔から察するに、非常時は能力を使うつもりなのだろう。僕が薄く笑っていると、蘇芳が菖蒲の言葉に噛み付く。


「はあ? ガキは守られる側に決まってるじゃない。あたしが守ってあげるわ。とっとと帰るわよ」

「えー……。じゃあ、紫苑さん! また夜に」


 手を振って遠ざかっていく二人が見えなくなるまで見送ってから、僕は駅の改札前にある柱に寄りかかった。始めは険悪そうだったのに、あの二人はもう仲良くなったように思える。菖蒲は人懐っこく見えるから、誰とでも仲良くなれそうだ。

 浅葱がいつ頃ここに着くのか分からないため、携帯電話を取り出して、一応メールを送ってみることにした。電話でも構わなかったが、今枯葉といるのなら電話に出られないだろうし、枯葉と浅葱の邪魔をすることになりそうで気が引けたのだ。

 とりあえずメールを一件送信して、駅構内の本屋に入ることにした。

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