純白3
◆
地図を何度も確認しながら、なんとか浅葱の家と思われる建物を見つけられた。二階建ての一軒屋。表札に『宮下』と書いてあるから間違えてはいないはずだ。
それなのに、僕の指はインターホンを鳴らそうとしない。視線は何度も表札と、インターホンに向けられた指先を行き来している。それを何度繰り返した頃か、僕はようやく指先に力を込めた。
呼び鈴が鳴って数秒、少し不機嫌そうな少女の声がインターホンから響く。
『どちらさまですか』
「浅葱……さんの友人の、呉羽紫苑と言います。見舞いに来たのですが――」
『あー。少々その場で待ってください』
断線したような音がしてから、少女の声は聞こえなくなる。言われた通りその場で待っていると、すぐに扉が開けられた。
浅葱とは違って真っ直ぐな髪をした中学生くらいの子が、靴を履いて歩いて来る。門を開けると、彼女はじいっと僕を見据えた。怪しまれているのではないかと心配になるくらいの目力だ。
「君が浅葱の妹の、萌葱?」
「……なるほど、紫苑さんはわたしが親だったらどうしようかと思い、先ほど『浅葱さん』と言ったんですね。普段は呼び捨て、と。ふむ、となるとお付き合いして結構経つんですか?」
「あのさ、僕はさっき『友人』って言ったよね。何を誤解しているのか知らないけど、僕と彼女は出会って数日だし、ただの友人だよ」
それほど驚くようなことを言ったつもりはないが、萌葱は目を大きくして、ゆっくりと瞬きをした。それから、何かを考えるように顎に手を添えると小さく開口する。
「高校生で一人称が僕の人、漫画以外で初めて見ました」
「……馬鹿にしてる?」
「いえ。外見に合っているのでいいと思います。それよりどうぞ中へ」
褒められているのか馬鹿にされているのか微妙な言い方に言葉を詰まらせ、僕は促されるままに家の中に足を踏み入れる。
靴を脱いで前を向くと、廊下の先に薄暗いリビングが見える。明かりが点いていないから、もしかしたら萌葱と浅葱以外家には誰もいないのかもしれない。
廊下のすぐ横にある階段を数段上った萌葱が、顔だけを振り向かせた。
「ところで、紫苑さんでいいですか? 紫苑先輩の方がいいですか?」
「好きな方にしてよ。別に君の先輩ではないんだから」
「では紫苑ちゃんで」
「は?」
「冗談です、紫苑さん」
小さく、萌葱が笑った。あまり浅葱と似ていないと思ったが、笑った顔はそっくりだ。それにしても、最近は生意気な年下によく会うような気がする。
階段を上っていって、廊下を挟んで右側にある扉のドアノブに、萌葱が手をかけた。扉には、ローマ字で浅葱と書かれたプレートが貼ってある。萌葱の手首が捻られるも、扉は開けられなかった。彼女の目が僕の手元に向いている。白いカーネーションの花束を凝視しているのはすぐに分かり、僕はそれを軽く持ち上げて見せた。
「見舞いに何を持っていくべきか悩んで、さ」
「何も持ってこなくても良かったんですよ? 紫苑さんがいるだけで姉さん喜ぶと思いますし」
「喜ばないと思うけどね」
「それは絶対ないです」
扉が開けられて、先に萌葱が入室する。急に来て勝手に部屋に入るのは失礼と判断し、僕は萌葱の声がかかるまで外で待つことにした。
「姉さん? おーい、姉さん起きてー」
「んん……」
眠そうな唸り声が聞こえてきた。どうやら寝ていたみたいだ。寝起きに押しかけるなんて悪いことをしたかもしれない。けれど浅葱が起きているタイミングが分かるような能力は持っていないから、仕方ないだろう。
萌葱が浅葱を起こす声を聞きながら何の気なしに廊下を眺めていると、突然手を引かれた。
「ちょっ……」
何も言わず部屋に引き込まれるものだから、つい動揺してしまう。萌葱はそのまま僕の腕を引っ張ってから離すと、思い切り僕の背中を押した。
――押した?
「っおい、もえ――!」
文句を言いながら体勢を立て直そうとしたが、絨毯で滑る。どうやらまだ眠っているらしい浅葱の上に倒れ込みそうになって、なんとかヘッドボードとベッドの側面を掴んで留まった。
ふうと安心したのも束の間、息がかかるほどの距離に浅葱の顔があり、思わず呼吸を止めてしまう。綺麗なまん丸の瞳が僕をじっと見つめて、だんだんと見開かれていく。そんな浅葱の目から、眠気は感じられなかった。
固まる浅葱を他所に、僕はゆっくりと体を起こして笑ってみせる。もちろん、気まずさのせいで引き攣ったものにしかならなかった。
「……おはよう、浅葱」
「な、な、な、ななななななんで紫苑先輩がいるんですかッ!?」
浅葱は寝返りを打つ勢いで僕に背を向けると、布団にくるまってしまう。恨めしげに萌葱をちらと見てみたが、いつの間にか彼女は部屋にいなかった。僕と浅葱が固まっている間に出て行ったのだろう。
僕は床に腰を下ろして、ベッドの側面に背を預ける。
「お見舞いだよ。君の妹が、君が風邪を引いているから見舞いに来いって」
「えっ! 萌葱が迷惑をかけて、すみません」
「別にいいよ。けど、僕は風邪を引いたことさえ黙っていた君に少しだけむかついている」
布団が音を立てた。直後響いた衝突音が僕を振り向かせる。起き上がった浅葱がベッドの上で土下座をしていた。今し方の衝突音は、浅葱が額をベッドに打ち付けた音だ。
「ごめんなさい。紫苑先輩に、余計な心配とか、かけたくなくて」
「なんでそんな遠慮するんだよ……」
僕の語調が強かったからか、浅葱がもう一度謝罪を口にした。呆れの溜息を落としてから、再び浅葱に背を向ける。花束を握ったままの手を、ゆっくりと振り上げてみる。花が浅葱の頭にぶつかったような気がした。
その感覚は当たっていたようで「カーネーション……?」という呟きが背中に降りかかった。僕は小さく首肯する。
「見舞いに来たって、言ったよね。あげる」
「ほんとに、いいんですか?」
「むしろ貰ってくれないと処分に困るんだ」
受け取れ、と言い方で訴えているのに、なかなか花束を持っていってくれない。待ちきれなくなった僕は押し付けてやろうと思い、浅葱の方に向き直る。
肩を震わせて、浅葱は涙を零していた。ベッドに染みが作られていく。わけがわからなくて、僕は花束と視線のやり場に困った。左右に目を泳がせてから、彼女の眼前に花束を突きつける。
「笑って、受け取って欲しいんだけど」
「ご、ごめんなさい……私、嬉しくて。というか、自惚れていてごめんなさい……」
「自惚れ?」
「なんでもないです!」
浅葱は花束を掻っ攫うと、ぎゅっと握り締めた。涙を拭って、嬉しそうな顔でカーネーションを眺める。その姿を見ていて、僕は唇を弓なりに曲げた。その花を選んだのが正解だったと思えるくらい、彼女と花の可憐さが互いに引き立てられている。
「私、変な顔でもしてましたか?」
「え?」
「先輩が私を見て笑っているので」
浅葱の嬉しそうな顔を見ていて、僕もつられて笑っていたようだ。それが気に食わなかったのか、小さく頬が膨らんでいた。
「先輩、悪戯が成功した子供みたいな顔してました」
「……もしかして、見舞いの品が花だったこと怒ってる? 食べ物の方が良かった?」
「そんなことはないですよ!? そもそも先輩に何か買ってもらうなんて申し訳ないくらいですし!!」
浅葱のばたばたと騒ぐ両手が必死さを伝えてくる。花束を貰って嬉しかったのは本当のことみたいだ。とすれば、彼女の言う通り僕は意地の悪い笑みを浮かべていたということになる。普通に笑っていただけだと思うのだが、そう言われたら悪戯っぽく笑ってやりたくなった。
まだ花束を振り回している浅葱に向けて微笑むと、ぴたりと彼女の動きが停止した。
「君が変な顔なのはいつものことだし、生まれつきで仕方のないことでしょ?」
「……っ」
「で、そんな変な顔の君が可愛――……いや違うそうじゃなくて。君がどんな顔かなんてのはどうでもよくてさ、僕が渡したものを嬉しそうに眺めていたからこっちまで嬉しくなったっていうか、うん、なんだろう。阿呆面が感染しただけ――」
浅葱の細い指が、僕の前髪に触れた。能力なんて使わなくても簡単に折れてしまいそうだな、なんて考えたのは、現実逃避をしたかったからかもしれない。彼女の顔が近付いてきているのは目の錯覚だと思い込もうとしながら、つい言葉と一緒に呼吸を忘れる。
僕の前髪をそうっと分けると、彼女の額が押し付けられた。
「君は、何がしたいのか分からない時が多い」
「はい? 紫苑先輩の顔が少し赤かったので、風邪を移してしまっていないか心配に――って、ごごごごめんなさい!!」
そろそろ耐えられなくなって突き放そうと思ったが、そうするまでもなく浅葱は僕から離れた。再びすごい勢いで土下座をしようとしたから、前に倒れようとする彼女の両肩を掴んで止まらせた。
「土下座はもういいよ。そんなことに体力を使って風邪が悪化したらどうするのさ」
「……すみません。紫苑先輩、触られるのあまり好きじゃないって言ってたのに」
それは嘘だ、って言ってやりたいくらい浅葱は沈んでいた。
触られる感覚が気持ち悪いとか、人の体温が嫌だとか、そういうわけではない。悪意も敵意もない接触を、どう受け入れればいいのか分からないのだ。手を掴まれただけでも反射的に突き飛ばしたくなる。
僕に触る奴なんて紫土くらいで、いつだってそれは傷を付ける為だったから。
「……」
「紫苑先輩?」
「熱はないみたいで、良かったよ」
不安げな瞳で僕を映す彼女ににこりと笑ってから、聞きたいことがあったのを思い出す。彼女の唇からほっと息が吐き出され、枕元に花束が置かれたのを見てから質してみる。
「昨日、人兎に襲われたりしなかった?」
「攻撃されないようにひたすら走り回ったり歩き回ったりしていたので、大丈夫ですよ。体調のせいで倒れそうでしたけど」
あはは、と笑う顔が疲れているように見えて、僕はすっくと立ち上がった。いきなり立ったから、浅葱が不思議そうに疑問符を小さく落とした。
「飲み物、もらってくるよ」
「えっ、先輩にそんなことをさせるわけには!」
「君は、大人しくしていて。君が今すべきことは元気になるように休むことだから」
「紫苑先輩っ」
浅葱は僕を引き止めようと手を伸ばしてきたが、それから逃れてすぐに部屋を出た。
先輩にそんなことをさせるわけには。投げられた言葉を頭の中で反芻する。彼女は僕が年上だからというだけで遠慮をしているのだろうか。僕達は先輩後輩というだけの関係ではなく、友人であり協力者だというのに。
「く、っそ……」
ああ、苛立つ。
体調のせいで倒れそうだった? だったら何故一人でいようとした。何故僕を頼らない。協力者なのに。信用出来ないとでも言うつもりか。何故。
どうして、迷惑をかけることばかり気にするんだ。彼女は。
「はぁ……」
「あれ。なんだか修羅場だったりします?」
まるで僕達の話を聞いていたようなタイミングで、萌葱がコップの載ったお盆を持って頭だけを斜めに傾けていた。僕はぐしゃと掻き上げていた前髪から手を離す。
「いや。浅葱に茶を持ってこうと思ったんだけど、余計なことだったみたいだね」
「なるほど、気が利きますね紫苑さんは。わたしも姉さんも、客人にそんなことさせませんよ」
「客人って……」
「客人ですよ。わたしが姉さんの為に招いた、客人です。まあでもせっかくですし、わたしはこれを紫苑さんに渡して、おいとましますね」
すっと前に出されたお盆を受け取る。ふと彼女の着ている服が気になった。その視線に気付いたらしく、萌葱は紫紺のベストの裾を両手で摘まんだ。
「ファッションセンスねぇなこいつみたいな目で見ないで下さい。私服じゃないですよ。流石に」
「そんな目をしたつもりはないんだけど」
見覚えがあるような気がして自分の記憶を漁りながら、少しだけ萌葱から目を逸らした。いつまでも見られるのは嫌だろう。
僕に盆を渡した萌葱はすぐに立ち去るかと思っていたが、悩んでいる僕の傍から去ろうとしない。彼女の視線のせいで集中力が切れて、ちらりと見返す。
「どうかした?」
「姉さんが、こないだ突然同級生の人のことを聞いてきたんですよ。もしかして紫苑さんもその人、河内さんと知り合いなのかなーと」
「……ああ」
見覚えがあったのは、蘇芳が着ていたからだということにようやく気が付いた。浅葱も気付いて、探りでも入れたみたいだ。
なるほど、という意を込めて零した声だったが、それを萌葱は肯定と受け取ったようだった。間違ってはいないため、訂正する必要はない。萌葱に蘇芳のことを聞くつもりはなかったため、そのまま部屋に戻ろうとする。
しかし、萌葱が僕の袖をやや乱暴に引っ張った。
「あの、河内さんと姉さんってどういう関係なんですか。紫苑さんもです。正直他人の関係に踏み入るのは良くないと思いますが、やっぱり気になるんですよ。河内さん、姉さんに似てますし」
「――え?」
蘇芳と浅葱が似ているだなんて、思ったことがなかった。言われてみるとそんな気が、なんてこともなく、僕にはあの二人の共通点が分からない。
プライドが高く生意気な蘇芳。けれどたまに冷静な顔を覗かせる。そんな彼女と、臆病で抜けているところがある浅葱の似ている面なんて、じっくり考えても見つからなかった。
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