第六章

純白1

 僕の兄――紫土は、子供の頃から絵を描くことが好きだった。ほぼ毎日、彼の手には筆が握られていた。僕の記憶の中の幼い兄はいつだって、父さんに買ってもらったスケッチブックに筆を付けている。

 紫土のことで、今でもはっきりと思い出せる瞬間が一つだけあった。父親か、母親か、どちらが先に話を持ち出したかは覚えていないが、食卓で彼は絵を絶賛された。

 すごい。将来は画家になれるんじゃないか。そんな、ありきたりな褒め言葉だったと思う。そこで彼は笑顔で答えていた。


「じゃあ俺が、すっごい絵を描いてたくさんお金稼いであげる」


 食卓の穏やかな空気が取り去られることは無かった。紫土は既に、『繕う』ということを完璧に覚えていたのだ。

 部屋に戻った彼がいつもの彼ではなかったことを、僕だけが知っている。

 当時は同じ部屋を使っていたから、二段ベッドの上段で眠ろうとしていた僕は、紫土の堪えたような唸り声を聞いていた。

 精一杯叫びを押し殺して、彼はその両手で自分の絵を引き裂いていた。両親に素晴らしいと、綺麗だと褒められた絵を、憎々しげに睨みながら破り捨てる。

 紫土はよく絵を描くけれど、自分の部屋に一枚も絵を飾っていない。その理由は自分で捨てるからだった。どの絵もどの絵も、彼は大人に見せて褒められる。褒められるたびに、家でそれを破り捨てる。

 それは彼が中学生になっても、恐らく変わらなかった。美術部に所属したらしいが、それでも彼の中の何かは、満たされなかったのではないだろうか。

 その頃の僕は自分の部屋をもらっており、紫土が絵を破く姿を見ることはなくなっていた。たまに扉が開いたままになっている紫土の部屋を覗き見て、描きかけの絵を見つけることはあった。僕が彼の絵を褒めたことは一度もなかったけれど、写実的な絵画は本当に綺麗だ。

 僕も兄のような絵を描いて、褒められてみたい。誰かに褒められたら、その絵を兄も褒めてくれるだろうか――。兄に対する気持ちは憧れだったため、憧れの人に褒められることを幼い僕は望んでいた。

 それゆえ、小学校の先生に風景画を褒められた僕は、家に帰って真っ先に紫土のもとへ行った。

 どんな風に紫土に見せたかは忘れてしまった。ただ、彼の冷たい炯眼だけが僕の記憶に刻まれている。低く無感情な声だけが、耳に残っている。


「紫苑、他人の褒め言葉は才能を助長させるだけだよ。何の得にもならない。よく覚えておくんだ」


 紫土の言葉は、僕には分からないものだった。褒められることの何がいけないのか。褒められたいと思うことに、得が必要なのだろうか。幼い僕は分からないものを目の前にして、逃げるように彼の部屋を出て行った。

 目指すものが違うから、得たいと望むものも違う。そんな簡単なことに僕が気付くのは、もっと後になってからだ。僕はひたすら、理解出来ない紫土を遠目で眺めて、届かない背中に届こうとした。追い抜いて、決して振り向いてくれない彼の先に立ち、振り返りたかった。

 多分、飢えていたのだと思う。愛とかいうモノに。いつだって褒められる紫土が羨ましくて、誇らしくて、彼のようになりたいと望んだ。一時期僕は、部屋に引きこもって絵の具で絵を描く習慣を身に付けた。そんなこと、きっと紫土は知らないのだろうけれど。

 描いても描いても、紫土のような絵なんて描けやしなかった。彼の絵の良さは、どこにあるのか。その答えを求めて、彼の部屋に足を踏み入れたことがある。

 その時、紫土はまだ学校から帰宅していなかった。部屋のキャンバスの中には、描きかけの草原と青空があった。どこまでも広がっていくようなその風景に、視線が吸い込まれる。


「――紫苑?」


 帰ってきた紫土の声でようやく絵から視線を逸らすことが出来た。しかしこの興奮を抑え切れなくて、僕は紫土に輝いた目を向ける。


「すごい……兄さん、すごい! こんな綺麗な絵を描けるなんて――」


 そんな僕の褒め言葉は、彼の逆鱗に触れた。彼が僕に暴力を振るったのは、この瞬間が初めてだったような気がする。

 頬を打った彼の拳には、怒り以外の感情が込められていたのだろうか。いや、むしろそこに怒りはあったのだろうか。殴り飛ばされ呆然とする僕をそのままに、紫土はキャンバスの前に立って、鞄から筆と絵の具、ペットボトルを取り出した。

 水が床に零れることも気にせず、彼はペットボトルの口を傾けて筆を濡らす。絵の具を筆に乗せ、キャンバスの中の風景を乱暴に塗り潰し始めた。

 広がるような空が、延々と続くような草原が、白く白く塗られていく。僕は、それをわけも分からず傍観していた。彼の世界が彼の手で消されていく。その手を止める勇気など、無かった。

 キャンバスに描かれたのは純白だ。陰影なんてない、白紙のような真っ白。画材とペットボトルを投げ捨てて、紫土がようやく僕に顔を向けた。


「……なんなんだよ、お前。あいつと同じような顔して、あいつと同じような言葉を吐いて」

「兄、さん……?」

「不愉快なんだよ!!」


 真っ白になったキャンバスは僕の方へ投げつけられた。乾いていない絵の具が床に模様を付ける。


「せっかくあいつが死んで、親父も俺の絵を褒めなくなって……家ならストレスが溜まらずに済むと思ったのに!」

「……兄さ――」

「黙れ! 何が綺麗だよ……ふざけんなよ!! どいつもこいつも褒め言葉ばかり並べて、一体それで何が上手くなるんだよ!? 言ってくれよ! どこが駄目だって、どこが汚いって、教えてくれよ! 俺は目が腐ってるから、直す場所が分からなくて前に進めないんだよ!! なんで誰も……欠点を教えてくれないんだ……!」


 頽れた紫土を見て、気付かされた。僕はきっと、彼のようにはなれない。褒められたいなんて単純な思いで絵を描いていた僕は、彼とはかけ離れている。そして、彼の力になることも、出来ない。

 彼の絵のどこが駄目かなんて、僕にも分からなかった。それでも、彼の気を少しでも楽にしてやりたい。だというのにどうすればいいのか分からず、口を閉ざしていた。

 ――そうしていつからか、父親が帰ってこないことが増え、紫土と二人になることが多くなり、彼のストレス発散に付き合わされるようになる。その頃の僕は、不平不満を何一つ並べなかった。僕が苦しむだけで兄の絵がもっと素晴らしいものになるなら、それでいいと思っていたのだ。

 僕が中学生になって、誰に対しても冷たく当たるようになるに連れ、兄弟間の溝は深まるばかりだった。


     *


 昨夜、結局浅葱は弓張駅に来なかった。来ない、というのはメールが来ていたから知っていたけれど、まさか本当に来ないなんて思っていなかった。

 まだ自分の能力すら上手く使えないのであろう浅葱が、偽物の世界で一人きり――なんて状況は、僕の不安を掻き立てるだけだ。彼女の家を知らないため、こちらから迎えに行ってやれない。


『今日は一人で大丈夫ですので、紫苑先輩は私のことを気にしないでください』


 それだけしか書かれていなかったメールに、僕は当然返信をした。どうして? と理由を問いかけただけなのだが、朝になって携帯電話を開いても返事が来ていない。

 仕方がなく、夜は以前と同様に一人で人兎を狩って、弓張駅周辺をうろうろしていた。六時になって部屋に戻り、紫土と顔を合わせたが、彼は何も言わず自分の部屋に閉じこもってしまった。

 紫土のことと浅葱のことがあったせいか、僕の顔はいつも以上に無愛想だろう。鏡を見るまでも無く分かる。電車を降りて学校に向かっているのだが、浅葱がいなかったことも連絡がないことも苛立ちの原因だ。

 気にしないでくださいと言いつつ、これでは、心配しろと言われているようなものではないか。むしろこの状態で心配をしない方がおかしい。

 ブレザーのポケットの中で携帯電話が振動して、両肩を跳ね上がらせるほど、僕は自分の頭にしか意識が向いていなかった。浅葱から今更連絡が来たのかと思い、携帯電話を開く。

 知らないアドレスから、メールが届いていた。不審に思いつつも開いてみる。


『はじめまして、わたし、宮下萌葱と言います。浅葱の妹です。あなたは紫苑先輩というお方であっていますか? もし人違いでしたらこのメール、無視か削除してください』


 妹という文字が、いつだったか浅葱の口から出た『妹』という言葉を思い出させる。浅葱は確か、弁当を作ってくれる妹がいるのだった。

 赤信号で足を止めて、僕は素早く返事を打ち込む。


『用件は?』


 車が走って行く音に顔を上げると、信号は青に変わっていた。僕は携帯電話を仕舞って横断歩道を渡る。

 それから、イヤホンを嵌めて音楽を聴きながら学校へ歩いた。浅葱の妹――萌葱という子から返事が来ていたとしても、学校に着いてから返すつもりだ。

 流れている音楽がちょうど四曲目に入る、というところで学校に着いた。靴を履き替え教室に入り、誰にも挨拶することなく席に着く。

 萌葱からは既にメールが届いていた。


『姉さんは昨日の夜から熱を出して寝込んでいるんです。紫苑さんがよろしければ、お見舞いに来ていただけないでしょうか』


 行くとはまだ言っていないのに、丁寧に住所が書かれている。簡単な地図を描いて写真に収め、それを添付してくれていた。

 分かった、とだけ返して、僕は机に顔を伏せた。


     ◆


 東雲から借りた傘を、学校帰りに返しに行こうかと思ったのだが、僕は駅前で悩むこととなっていた。浅葱の見舞いと東雲の傘の返却。どちらを先にした方がいいか、という悩みだ。

 どちらかの家に行くのが遅くなることを考えたら、浅葱の見舞いを先にした方がいい、と結論を出す。

 東雲は一人暮らしだから何時に行っても迷惑にならないが、浅葱は家族と暮らしている。遅い時間に行けば、見舞いだとしても迷惑になりかねない。

 考えが纏まったところで、僕は駅の改札を抜けた。電車に揺られて数分、三日市に着いて、携帯電話を開く。萌葱が送ってきていた手書き地図を見て、ふと足を止める。

 見舞い。何か、持っていくべきだろうか。

 風邪薬でも買っていこう、と考えてから小さく頭を振った。風邪薬くらい家にあるだろう。そもそも病院に行って、ちゃんとした薬を貰っているはずだ。なにか体に良い食べ物や飲み物を持って行った方が、きっと無駄にはならない。

 見舞いにはメロンとよく言うが、何故なのかを知らないため、買いに行くのを躊躇してしまう。

 何を買うべきか、駅前で突っ立ったまま悩んでいると、誰かに肩を叩かれた。僕は慌てて振り返り、距離を取る。

 そんな僕をぎょっとしたように見ていたのは、枯葉だ。


「……枯葉じゃないか。何してるの、こんな所で」

「お前と同じ電車の同じ号車に乗ってたからなんとなく付いて来てみただけだ」


 理由も無く見かけたから付いてくるなんて、相当頭がおかしいと思う。降りる駅がたまたま同じならともかく、今の言い方からするにそうではないのだろう。ストーカーのようで気持ち悪――。


「――ちげぇよ! なんでお前なんかストーキングしなきゃなんねぇんだよ! 宮下ならまだしも!」

「は? 浅葱をストーキングしたら僕がすぐさま通報するよ?」

「するとは言ってねえだろ! その携帯今すぐ仕舞え! つーか俺は枯葉じゃなくて朽葉だ!」


 名前に対する突っ込みはタイミングがおかしすぎて、一瞬何のことだか分からなかった。理解してから、僕は携帯電話をポケットに仕舞いつつ彼の顔を凝視する。一秒一秒を全力で生きているような彼は、少し話をしていただけなのに息が上がっていた。


「……へえ、朽葉だったのか。枯れた葉っぱみたいな名前だなって覚えていたから間違えたよ。また間違えるかもしれないけど一応謝っておく、ごめん」

「お前一言一言が失礼でむかつくな。というか敬語ぐらい使え」

「え。嫌だけど」


 心情が表に出やすいタイプの枯葉は、彼のような能力を持っていない僕でもその心の声をなんとなく読み取れる。「年下の癖に生意気なやつ……ぶっ飛ばしてやりてぇ」みたいなことを思っているのではと推測出来るが、僕の能力がどのようなものだったか忘れてしまったようだ。来るなら来ればいい、返り討ちにしてみせる。


「お前全部丸聞こえなんだよ……。それで突っ込むほど馬鹿じゃねぇし」

「それは驚いた。少しは冷静さも持ち合わせているんだね。感心したよ」

「お前絶対馬鹿にしてるだろ! というか、年上には敬語って常識じゃねぇの?」


 高校生の時点でピアスの穴を開けている上、どう見ても髪を染めている奴に常識がどうとか言われたくない。


「ピアスに関しては俺もお前には言われたくねぇよ。髪染めてんのはかっこいいからだ」


 今後もこう突っかかってこられるのは面倒だが、彼に敬語を使うつもりなんて全くなかった。仕方なく、僕は面倒くさいという意を視線に込めて目を細める。


「敬語を使う理由で一番一般的なのは、敬うためだよね。でも悪いけど僕は、一年早く生まれただけで僕より優れている部分が今のところ見つからない君を敬う精神なんて持ち合わせていない」

「おい――」

「例えば、さ? 君より一年早く生まれただけの猿に対して、君は敬語を使わないだろう? いや、使うのなら別だけど、君は猿に対して『猿様、今までの無礼をお許しください。本当に申し訳ございませんでした。今後は貴方様を敬わせていただきます』とか言う人間じゃあないよね。――いいや、するのなら話は別だよ?」


 終わりを告げるように、枯葉にくるりと背を向けた。浅葱の見舞いに何を持っていくか決まったわけではないが、とりあえず適当に店に入って考えよう。ここで彼とべらべら話していても、何も考えられない。

 目に入ったコンビニエンスストアへと一歩足を踏み出したが、肩を引かれて危うく転びかける。苛立ったまま振り返ると、枯葉が「俺はとても不機嫌だ」と訴えるように、これでもかというくらい口元を歪めていた。ずっとその顔をしていて顎が伸びてしまえばいいと思う。


「人間と猿は、違うだろ」

「……人も猿も同じ生き物だ。種類が違うからといって区別するのは差別だよ。そういう不平等推進精神みたいなモノを掲げる君みたいな人間は敬うに値しないんだ、枯葉」

「っ、朽葉だって言ってんだろ! というか今の数分でいったい何回俺を馬鹿にしやがった!?」

「馬鹿になんかしていない。というか君は敬語を使われて、距離を置かれた方が嬉しいのか? 別に君の学校の後輩でも、君の所属する部活動の後輩でもないんだから、友達という関係にいさせてくれてもいいんじゃないかな。良い意味でも悪い意味でも距離を置くためのものじゃないの、敬語って。あと、『枯葉』は綺麗な秋の風物詩なんだから、あだ名として受け入れてくれたら、嬉しいんだけど」


 きょとんとした阿呆面が僕を見つめる。しばし視線を交わしあって、先に目を逸らしたのは僕の方だ。自分の発言を思い返して今すぐに走り去りたい気分に陥る。

 適当に喋っていて、友達やあだ名なんて単語を発するとは思わなかった。なんだこれ。まるで僕が彼と友達になりたいと言ったみたいじゃないか。友達なんて別にいらないのに。


「ま、まあ……そういうことなら、別に、タメ口でも許してやってもいいっていうか」

「っ何が許してやってもいい、だ。上から目線の友人なんてこっちから願い下げだね」

「はあ!? お前が友達になろうって言ったんだろ!?」

「誰がそんなこと言った? 君の耳は枯れ落ちて腐っているんじゃないの?」

「喧嘩売ってんだろお前!」


 耳を塞ぎたくなるほど大きな声で怒鳴ってから、枯葉ははっと息を呑んで咳払いをした。彼の目が周囲にちらちら向けられるのは、今の声で周りの注目を集めてしまったせいと思われる。

 僕達のことをじっと見つめている通行人に鋭い視線を向けてから、枯葉の黒目がようやく正面に落ち着いた。

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