月下で蠢く漆黒の影3

「大丈夫? 姉さん」


 ほっとしたような顔が、ぼやけた視界の中にあった。眠れなかったのか、それとも私が何か物音を立てて起こしてしまったのか。

 萌葱が、私のことを支えてくれていた。


「ありがとう、萌葱。でも、寝てなきゃ駄目でしょ」

「それはわたしの台詞だよ……。大体、わたしまだ宿題終わってないから寝られないし」

「宿題、いつもこんな時間にやってるの? 夜更かしは――」


 ぐい、と押されて、私はソファに座らせられる。萌葱は電気を点けると、台所の方へ向かっていった。


「生姜湯入れてあげる。姉さんは座ったまま待っていて」


 私に聞こえるように、萌葱がいつもより声を張り上げてくれた。私は苦笑してソファの上で大人しくする。


「私生姜湯あんまり好きじゃないんだけど、ホットミルクじゃダメ?」

「ダメだよ。姉さん昔風邪引いた時にホットミルク飲んで吐いたでしょ」


 そう萌葱が言うものの、私はそんなことなんて覚えていない。けれど私よりも記憶力の良い妹が言うのだから、そうなのだろう。

 私は退屈だなと思いながら、また秒針の音に聴き入る。こうしているのが落ち着くと言ったら、おかしな奴と思われるかもしれない。でもなんだか、落ち着くのだ。

 かち、かち、かち。

 何回、その音を聞いたか。数えていないから回数は分からないけれど、長いこと聞いてから、ようやく萌葱がコップを手にして戻ってきた。


「はい。結構砂糖入れたから、少しは飲みやすいと思う」

「ありがとう、萌葱」


 温かいコップを受け取って微笑んだけれど、ふわりとした感覚に襲われ、頭を押さえた。コップを落としてしまい、せっかく入れてもらった生姜湯が零れる。

 割れたコップで萌葱が怪我をしていないか、心配して顔を上げるも、そこには誰もいなかった。


「もえ、ぎ……?」


 かち。

 と、鳴った掛け時計に自然と目が行く。針が示す時間は十二時。不安と恐れが、私の鼓動を早くしていた。

 萌葱は今、何を目の前にしているのだろう。萌葱の目の前にいた私はどうなってしまったのだろう。『私』は、どこにいるのだろう。

 今は、確かめようが無い。確かめる術は、朝になって萌葱に会うことしかない。

 萌葱に会うことが、怖い。朝なんて来なければいいのにと、これほど強く思ったのは初めてだ。

 萌葱はどんな顔で私を見るのだろうか。

 起きて来なければよかった。十二時になるまで、部屋で大人しくしているべきだった。そうすれば、萌葱に知られてしまうことは。


「っ……」


 ――いや。いつかは、気付かれてしまうことだったはずだ。同じ家で暮らしているのだから、気付かれる時は必ず来てしまう。

 気付かれる前に偽物の世界から抜け出すことなんて、出来るわけが無かったのだ。

 私はふらつきながらも立ち上がって、コップの破片を避けて歩き、二階へ向かう。今は、萌葱のことを気にしたって仕方がない。今すべきなのは、紫苑先輩に連絡をすることと、人兎から逃げること。

 私は一段一段踏みしめるように、階段を上がっていった。


     ◆


 脱衣所にあったドライヤーで髪を乾かしてから、左耳にピアスを嵌め直した。着替えなんてなかったから再び制服を着ているのだけれど、まだ少し湿っていて気持ち悪い。

 ブレザーを手に持って脱衣所から廊下に出ると、丁度東雲と鉢合わせた。服を抱えているから、これから風呂に入るのだろうか。


「あ、もう出てきちゃったんですか。もう少し早く来るべきでした」

「いや、むしろちょうど良かったんじゃ?」

「何言っているんですか。せっかく君にも私の服を貸してあげようと思ったのに」


 残念だと言うように両肩を落として、東雲は服を抱えたまま踵を返す。僕はもう寝るつもりだから部屋に向かおうとして、目的地が同じらしい東雲の後に付いて行くこととなった。


「――東雲」


 ドアノブを回して扉を開けた彼は、入ることなく振り返った。呼ぶつもりはなかったのだが、無意識の内に呼んでいた。勝手に動いた口元を軽く押さえて、僕は視線を泳がせる。

 聞きたいことと言えば、一つだ。聞かなければという気持ちと、聞いたからどうなるという気持ちが僕の中で争い始める。

 ふっ、と、東雲の漏らした吐息が僕の視線を引き付けた。彼らしい微笑が、そこにあった。


「見ちゃいました、よね」

「……」


 口角は楽しそうに上がっているけれど、彼の目は研がれた刃の切っ先みたいに鋭い。心臓を掴まれたような気分になって、僕はネクタイの結び目を握り締めた。


「東雲は」

「はい、私はもちろん猫派です」


 僕に息を飲ませた鋭さが嘘みたいに無くなる。普通に笑う彼は――いや、心底嬉しそうに笑う彼は、なぜか僕の手首を両手で握り締めた。


「紫苑くんも猫派ですよね!? 猫可愛いですよね!」

「うるさい。菖蒲が起きるだろ。大体僕が聞きたかったのはそんなことじゃない」

「おや、ではなんでしょう」


 と言いつつも、きっと分かっているのだろう。見ているこちらが苛立つような笑みを浮かべられ、僕は舌打ちをして東雲の手を振り払った。


「お前本当に性格悪いな。僕の反応楽しんでるだろ」

「はは、紫苑くんは口が悪いですねぇ。そんな喋り方では進路活動で困りますよ。それらしい敬語の使い方を教えてさしあげましょうか?」

「間違った敬語の使い方を教えられそうだから結構だよ。で、絵の作者名がユウトだと知って、どう思った?」

「優しい聞き方ですね。『ウサギ』はお前か、とは聞かないのですか?」


 僕はただ黙って東雲の回答を待った。彼の言葉通りの質問をしてもよかったのだが、それでは僕が彼を明らかに疑っていることになる。

 疑っていないと言えば嘘になる。しかし敵意を向けるつもりは全く無かった。


「……私が名字しか名乗らなかったことに深い意味は無かったのですが、ほっとしましたよ。名乗っていたなら疑いの目がすぐ私に向いたことでしょう。悠斗だなんて、ありきたりな名だというのに」


 東雲は部屋の中に入っていく。僕も入室して、扉をそうっと閉めた。話は終わったと言いたいのか、東雲は棚を開けて服を仕舞っていった。

 菖蒲が寝ている中で喋るのもどうかと思い、僕は諦めたように東雲から目を逸らして押入れの上段に上がる。


「君は、私のことを信じるのですか?」


 溜息混じりに吐かれた声は小さなものだった。しかし静まり返った室内では、僕の耳に簡単に届いてきた。

 押入れの中に寝転んで、東雲の方を向く。電気が点いていないから分かりにくいが、東雲もこちらを見ているような気がした。


「信じて欲しいなら、信じてあげるよ」

「……君の好きにして下さい」

「――東雲。僕は僕しか信じない」


 蘇芳がくれた情報も、あの女性の言葉も、東雲のことも、なにもかも信じきるほど僕は他人を信じていない。どれも『ウサギ』の正体を特定するための材料に過ぎない。そこに腐った材料が混ざっていたなら、気付いた時点で捨てるまでだ。

 まだ、材料は足りない。こんな少ない材料では、何も作れない。

 真剣に放った僕の言葉は、何故か東雲に笑われた。菖蒲に配慮して、彼は声のボリュームを下げている。


「そう、ですか。そうそう、言い忘れていましたが、紫苑くんは家に戻った方がいいかと」

「今から寝る気満々の僕に何を言っているんだ?」

「いやあ、君の保護者からお電話がありましてね? 帰っておいでと言っていましたよ?」

「は?」


 どういうことか全く理解出来ず、僕はズボンのポケットに手を突っ込んだ。入れておいたはずの携帯電話がそこにはない。もしかしたら鞄に仕舞ったのかもしれないと思い、枕代わりにしていた鞄に手を伸ばしたが、目の前まで来た東雲が僕に何かを差し出してきた。

 黒い長方形のそれは、僕の携帯電話だ。


「……おい」

「すみませんねぇ。君に服を用意しようとここで棚を漁っていたら、君の鞄の中でその携帯電話がずっと鳴っていたので。つい」


 電源を切っておくべきだったと後悔しながら、東雲の手から携帯電話を回収する。マナーモードにしているとはいえ、こんな静かな中で鳴り続けていたとなると菖蒲も迷惑だっただろう。

 僕は押入れから下り、布団にしていたブレザーを着て鞄を手に持った。


「まあかけてきた奴は想像がつくから、大人しく帰るけどさ。菖蒲も東雲に警戒心を持ってないみたいだし。ただ、駅までの道が分からない」

「菖蒲くんを一人にするのも不安ですので……。地図でも検索して頑張って下さい。傘は玄関にあるものを貸してあげます。今度返してくださいね」


 車で駅まで送ってもらおうと思ったのだが、そうもいかないらしい。菖蒲が能力者かもしれないと疑っているから、東雲は彼に警戒心を抱いているのだろう。

 僕は玄関に向かって、傘立ての中から適当に一つ傘を取った。

 一応携帯電話を開いてみると、メールが来ていた。やはり紫土からだ。本文は一言だけだった。


『話したいことがある』


 それだけだ。正直これから帰るのは面倒だけれど、紫土の話したいことが少しだけ気になった。もしかしたら父さんと何かあったのかもしれない。紫土自身に何かがあった、という可能性もある。

 僕は紫土のことを好きではないが、心配してしまうのはやはり血が繋がっているからなのだろうか。

 靴音の余韻を玄関に残して、東雲の家を後にした。


     ◆


 どのくらい時間がかかったのだろう。雨のせいもあってか、マラソン大会を終えた時くらいの疲労感だ。地図を検索して歩いたというのに何度も道を間違えるなんて、僕の脳味噌はもう半分ほど眠っているのかもしれない。

 結局通りかかった人に駅の場所を教えてもらい、ようやく辿り着く事が出来た。途中まで案内してくれた彼には後で何かお礼をしたいが、名前すら聞いていない。心の中でもう一度感謝をしてから、僕はホームの椅子に座って電車を待っていた。

 今更だが、食後のデザートを食べようと思い立って鞄を漁る。ビニール袋を引っ張り、その重さに首を傾けた。

 重い、と思うほどチョコレートを買うわけがない。不思議に思いつつ袋を覗き込むと、明らかにチョコレートではない何かが入っていた。見ただけで何か分からないのは、僕が無知なせい……ではないと思う。

 細長いそれを弄っていると、開くことが出来た。鋏かとも思ったが、二股の持ち手の間から顔を覗かせたのは一枚の刀身だ。

 僕は僅かに目を見張って、すぐに元の畳まれた状態に戻し、ビニール袋に突っ込む。袋の中に紙が入っていることに気付いて、四つ折りにされたそれを開いた。思った通り、東雲からの手紙だ。それにしても、大人というのは皆字が綺麗なのだろうか。


『バタフライナイフ、プレゼントです。そういう武器も持っていた方が便利かと思いまして。お代はチョコレートで大丈夫ですよ』

「チョコレート……」


 親切心から武器をくれたことはありがたいが、チョコレートを取っていくなんてあんまりだ。袋に手紙を戻して、僕はバタフライナイフをブレザーのポケットに仕舞った。ナイフなんて使ったことが無いけれど、何かあった時に役立つかもしれない。チョコレートは弓張駅前のコンビニエンスストアで買って帰ろう。

 ようやく来た電車に乗って、僕は携帯電話を開き時間を確認する。十一時過ぎだから、三十分くらいには家に着けるだろう。紫土の話が長くなったとしても、十二時前には切り上げなければならない。

 電車内は時間のおかげで人が少ないが、座ることはしなかった。睡魔のせいで眠ってしまいそうだったから、立ったまま自分の手を軽く抓る。

 あまりにぼうっとしすぎていて、弓張駅に停車したことに気付くのが遅れた。ドアが閉まります、というアナウンスを聞いてから慌てて電車を飛び出す。

 駅を出て店でチョコレートを買った後、東雲に借りた傘を差して家へ向かう。雨は好きではないが、傘にぶつかって跳ねる水滴の音は聞き心地が良い。この時間になると、歩いている人も少なかった。人が多い通学時などに傘を差していると歩きにくいから、雨は夜だけに降ればいいのに。

 そんな我侭を言ったところで何の意味も無い。人間が泣きたくなる時間だって決まっていないのだから、空が泣きたい時間だって決まっているわけがないのだ。尤も、雨が降る理由はもっと科学的でしっかりとしているだろう。当然のことながら、僕はそんなものに興味がなかった。

 家に着くと、電気が消えている。紫土が帰って来いと言ったのだから先に寝ているということはないと思いたい。

 ドアノブに手をかけて回してみたら、鍵はかかっていないみたいだった。家の鍵くらい持っているから鍵を閉めても構わなかったのだが、彼なりの配慮が窺える。ストレスが溜まり過ぎると周りが見えなくなるところがあるため、閉め忘れただけというのも無きにしも非ずだ。

 とりあえず自分の部屋に向かい、鞄を置きに行く。それから紫土の部屋を覗いて、いなかったらリビングに向かうつもりだ。

 自室のベッドの上に鞄を放り投げると、電気が点けられた。


「おかえり」


 背中にかかる声は優しげだ。僕は振り返り、彼の表情を窺う。優しい兄、というものがいたらこんな顔をして弟を出迎えるのだろうか。その顔はどこか彼には似合わない。


「……で、何」

「そこは『ただいま』って言うところじゃないのかな?」

「ただいま我が家」

「俺には言いたくないんだね、そうかそうかよく分かった」


 僕はベッドに腰掛けて、少し離れた所にある勉強机を指さした。そこの椅子に座れ、という意味だったのだが、紫土は不思議そうに机を見て僕に問う。


「なに? ゴキブリでも出た?」

「もういい。立ったまま話せば?」

「ああ、そういうこと」


 椅子のキャスターを鳴らして動かすと、紫土は僕の正面に座る。ズボンのポケットから折り畳まれた紙を取り出して開き、僕に見せてきた。


「あのさ、お前勉強出来ないの? これ赤点だよね」


 机の中に仕舞っていたはずの僕のテスト用紙。教科は歴史だ。赤色で書かれた二十五という数字の下に二本の線が引かれている。まぁつまり、それが点数。

 僕は紫土から、というよりもテスト用紙から目を逸らして部屋の壁を見つめた。


「これ親父が知ったら怒ると思うよ?」

「それはありえないでしょ。というか人の机を勝手に漁らないでくれるかな」

「いや、お前三者面談の手紙すら出さないし、定期的に確認しないと」

「定期的に見てるのか。プライバシーの侵害って言葉知ってる?」


 紫土の言う話したいこと、があまりに下らないことだったため、帰って来たことを後悔した。そもそもそのテストは確か成績に関係ないと言われたから、別にその点数でもなんの問題もない。

 紫土は「なんのことやら」とわざとらしく言うと、テストを上へ投げる。ゆらゆらと揺れながら、それは床に落ちた。


「まあこれは冗談なんだけど」

「くっだらない冗談だな」


 僕の吐き捨てるような声は紫土を笑わせる。紫土といい東雲といい、なにが面白いのだろう。もしかしたら僕は知らない内に笑いのセンスというものを身に付けているのだろうか。

 本題に入れと言う前に、紫土が立ち上がった。僕に向いていた彼の目は全く別の方向を映す。僕はその視線を追いかけた。

 壁にかけられた時計の文字盤に、不思議と意識が吸い寄せられる。十一時四十八分。

 シンデレラの気持ちが、なんとなく分かる。十二時はいつ来るのか、気になって落ち着かない。鐘が鳴ってからでは遅いのだ。僕は、シンデレラのように愚かじゃない。

 何かを悩んでいるような紫土を待つつもりだったが、そろそろ待っていられなかった。


「……悪いけど、話は明日にしてくれる? もう寝ないといけない」

「どうせ寝られないだろ? 呑気に寝てたらやられるかもしれないんだから」


 時間が、止まったような感覚に陥った。動揺を必死に殺して、僕はありえない考えを浮かばせた頭を冷やす。

 やられるかもしれない。誰に、の部分に人兎を当てはめたけれど、紫土はそんなことを知らないはずだ。

 紫土が僕を殺すかもしれない。そういう意味で言ったのであれば、人兎を当てはめた時よりも納得出来た。


「……あんたは僕を殺さないじゃないか」

「そうだね。俺はお前を殺したいけど、どうしてか殺せない。殺そうとすると決まって邪魔される」


 まるで他の何かが彼の殺人を妨害しているように言っているが、勝手に殺そうとして自分で勝手にやめるのではないか。

 僕はもう一度時間を確認して、十二時まで後少しだと気付くと、ベッドに寝転び布団を被った。


「寝る。おやすみ」

「いいんだ? 俺が言ったのは、人兎に殺されるぞって意味だったんだけど」


 紫土の声で発せられた人兎という言葉は、僕を勢い良く起き上がらせた。少しだけ乱れた髪をそのままに、紫土の意思を読み取ろうとして彼の瞳だけに意識を向ける。

 人兎のことを知っているということは、能力者だということ。それも、あちら側の世界に招かれた八人のうちの一人。僕の頭の中で、今日の蘇芳の言葉が再生された。

 ――知りたいですか? 呉羽先輩は、それを知っていいんでしょうか?――

 あれがどういうことだったのか、合点がいく。二十歳くらいの、かっこいい男の人。それが紫土を指していたのだろう。


「俺に会いたかったんだろ?」

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