第五章

月下で蠢く漆黒の影1

     ◆


 弓張駅に着いた頃、辺りは既に暗くなっていた。蘇芳から聞いた情報を東雲に伝えなければと思って、長文になってしまったメールを送ってから駅を出る。歩き出すと、頭に冷たいものが触れた。

 降り出した雨は駅を出ていく人達に傘を開かせていた。天気予報を見ていれば僕も彼らのように傘を差したのだろう。残念ながら傘など持っていないため、仕方なくそのまま歩く。今は自分が濡れることよりも、雨が降る前に浅葱が帰れたかどうかが気になっていた。

 思い浮かぶのは、やはり彼女の笑った顔だ。無理に笑っているのではないかと思うほど、彼女は笑っていることが多い。だからだろう、あの笑顔は記憶に濃く残っている。

 作り笑いではないことくらい、見れば分かる。彼女が発する言葉に嘘偽りがないことも、聞いていれば分かる。

 今日分かったことは、浅葱は物好きなのだろう、ということだ。僕といて楽しいと言える人なんて、彼女以外にいない。僕の僕に対する評価は『つまらない奴』だ。


「――あの」


 雨音を聞きながら家に向かっていると、小さな声が聞こえたような気がした。立ち止まって左右を見るが、声をかけてきたと思われる人は見当たらない。通行人がいても、皆僕の横を通り過ぎていく。

 そのまま暫しぼうっとしていたら、通りかかった車が水溜りを踏みつけた。降り始めたばかりだと思っていたから油断していた僕は、跳ね上がった水を思い切り被る。


「……はあ」

「っあの!」


 さっき聞いたものと同じ声が、今度ははっきりと聞こえた。自分の右側に目をやると、僕と同じように傘を持っていない少年が立っていた。

 小学生だろうか。黒いランドセルを背負っているから少年と判断したけれど、髪が少し長くて一部分だけ三つ編みにされている。もしかしたら、少女かもしれない。

 こんな時、傘を持っていたなら入れてやれたのだが、僕に出来ることは何もなかった。何故傘を持っている人ではなく僕に声をかけて来たのだろう。


「お金、持ってますか」

「……」


 何故、金を持っていそうな大人ではなく高校生である僕に声をかけたのだろう。持っていると言えば持っているが、見知らぬ子供にあげられる金は持っていない。

「ない」と呟いて歩き出したものの、鞄を思い切り引っ張られる。


「少しでいいんです。貸してください」

「じゃあ少しそこで待っていてよ。ビニール傘買ってきてあげるから」

「ぼくが欲しいのは傘じゃありません。お金です」

「面倒くさいな、わざわざ僕が質問してやらなきゃいけないのか。何に使う金が欲しいんだ?」

「質問してくださいなんて言ってませんが」

「お前車道に放り投げるぞ」


 離す気がないくらい強く引っ張っていた僕の鞄から手を離し、少年は一歩後退した。警戒するような目で僕を見てくる。自分のことを「ぼく」と言っていたから、きっと男の子だ。


「話しかけたのが僕じゃなかったら殴られたり殺されたり誘拐されていたかもしれないよ。親はどこ? 小学生が一人でこんな時間に歩いているなんて危険すぎる」

「……だからあなたに話しかけたんです。なんか、何にも興味を持ってなさそうな顔してたので、優しそうな人よりも安全かなって」


 確かに小学生を殴る趣味も誘拐する趣味もない。そもそも子供が好きじゃない。だけどまさか、彼がそこまで考えて僕に話しかけたとは思っていなかった。

 面食らっていると、少年が続けた。


「優しそうな顔をしている人は信用出来ないです。いえ、というより大人なんて信用出来ない。あなたくらいならお金持ってそうですし、子供ですし、いいかなと」

「君、生意気って言われたことない?」

「で、なぜぼくがあなたにお金をくださいと言ったかといいますと」


 子供に子供と言われると少し腹が立つ。そして僕の発言を完全に無視をしたところにも苛立つ。これだから子供は嫌いなんだ。


「今日は両親が家にいないというのに家の鍵をなくしてしまい、仕方がないからどこかに泊めてもらおうと思ったんです」

「へえ大変だね頑張って」

「っどこに行くんですか! 子供が行き場をなくして困っているというのに見捨てるんですか! 見捨てるフリしてもだめですよ! あなたがこの間猫に餌をあげてた優しい人だって言うのは知っているんですから!」


 言われて自分の行動を思い返す。確か購買でいちごミルクを買おうとしたが売り切れで、牛乳を買ったもののあまり美味しくなかったから帰り道で猫にあげたような気がしなくもない。

 仮に僕がそうしていたとして、今たまたま会った子供がそのことを知っているとなると、現状を偶然として片付けるには出来すぎている気がした。


「君はもしやストーカーか? っていう疑問はとりあえず置いておいて、つまり餌付けして欲しいんだよね。チョコレートでいい?」

「あ、はい――じゃなくてですね!」

「悪いけど家に泊めてやるつもりはないよ。僕の家は危険人物がいるから無理。……ああ、そうだ。少し待ってくれる?」


 いくら僕でもこんな長い間雨に打たれていると風邪を引きそうだ。早く切り上げたい為とりあえずポケットから取り出した箱を少年に渡して、携帯電話を耳に当てる。

 少年は不服そうな顔をしながらも箱を開けてチョコレートを食べているが、不満なら食べなくていい。そもそも全てあげると言ったわけではないのに何故二つ目に手を伸ばして――おい待ていくつ食べるつもりだ。


『こんばんは、紫苑くん。どうしました?』


 ようやく東雲が電話に出てくれた。僕は少年を見ながら、東雲に言う。


「あのさ、今日一日泊めてくれない? どうせ東雲一人暮らしだろ?」


 これで彼に恋人がいて一人暮らしではなかったらどうするべきか。次に当たる人物を思い浮かべていると、東雲が小さく笑った。


『ええ、悲しいことに一人暮らしですよ。顔はいい方だと思うんですけどねえ……。ああ、夜ご飯はカップ麺ですけどそれでもよければ』

「いや、せっかく泊めてくれるんだし僕が何か作るよ。材料は買っていく。繊駅で合流、でいい?」

『おおっ、紫苑くんの手料理ですか! 食べられるものだといいですね。ああ、それと弓張駅でいいですよ。今から車で迎えに行きます。それでは』


 電話はすぐさま切られてしまった。とりあえず早く食事を作って僕の実力を思い知らせてやりたい。といってもそれほど上手くはないが、確実に食べられないものではない。

 僕は少年の手からチョコレートの箱を奪って仕舞うと、彼の手を引っ張った。


「宿泊先は確保した。これから夜ご飯の材料を買っていくんだけど、君食べたいものとかある?」

「なんでもいいんですか!? ぼく、オムライスが食べたい!」

「オムライスか……分かった」


 はぐれないように少年の手を掴んだまま、駅に戻る。駅前にあるスーパーマーケットで食材を買わなければならない。

 オムライスは流行っているのだろうか。そういえば紫土も作ってくれと言っていたような気が――。

 紫土に何の連絡もしていないことを思い出して、空いている方の手で携帯電話を開いた。電話は面倒だからメールを送信し、少年と共にスーパーマーケットに入る。


「そういえば君、名前は? 僕は呉羽紫苑って言うんだけど」


 入ってすぐの角に置いてあるかごを手に取ると、それは少年に掻っ攫われた。少年はびしょ濡れの頭を犬みたいに振ってから、年相応の微笑を湛える。


「ぼくはかみ屋敷やしき菖蒲あやめです。えっと……紫苑さん、ありがとうございます」

「お礼は僕じゃなくてこれから向かう宿泊先の人に言ってよ」

「その人にもちゃんと言います。でも泊まるところを見つけてくれて、チョコレートをくれて、オムライスを作ってくれる紫苑さんにもちゃんと言っておきたかったんです。やっぱり優しい人ですね」


 かごを渡してくれるつもりがないところを見ると、かごは持ちます、ということだろう。僕は少年――菖蒲に「行くよ」と言ってから歩き出す。

 ちらと後ろを見たら、菖蒲はちゃんと付いてきているようだったため、安心して視線を前に戻した。


「優しいとか言われるの、あまり好きじゃないからもう言わないでくれるかな」

「? どうしてですか?」

「どう反応したらいいか分からないんだよ」


 東雲の家にケチャップはあるだろうか。無い場合のことも考えて、僕は菖蒲の持っているかごにケチャップを入れた。


「あ、重かったら言って。僕が持つ」

「いえ! ぼくに出来るのはこれくらいだから、ぼくが持ちます!」

「……無理はしないでね」


 玉ねぎ、人参、鶏肉、念のために油と塩胡椒、牛乳――を入れたあたりで、菖蒲がかごを床に落とした。卵を入れていなくてよかったと思いつつ、僕がそのかごを手に取る。それでも伸ばしてきた菖蒲の手を押し返して、安心させるように笑ってやった。


「手、真っ赤じゃないか。無理はしなくていいから、僕に付いてくるだけでいいよ」

「思ったより、重かったです」

「だろうね」


     ◆


 食材と僕の食後のデザート用チョコレートが入ったビニール袋を両手に持って店を出ると、駅前に白い車が止まっていた。

 傘を差した人物がその車の傍に立っていたが、僕達に気付くと盛大に手を振ろうとしてから、なぜか駆け寄ってくる。


「なっ、なぜびしょ濡れなんですか!? 傘は!?」

「持ってなくてさ。あ、言い忘れたけどこの少年――菖蒲を泊めてくれる所を探していたんだ」

「詳しい話は後です。ほら、乗って下さい!」


 半ば押し込まれるような形で車に乗せられる。後部座席に菖蒲と食材を乗せ、僕は助手席に座ることとなった。

 車を進ませてから、東雲が珍しく疲れたような溜息を吐いた。


「その様子ですと大分長い間雨に打たれていたんじゃないですか?」

「まあ、そうだね」

「雨宿りをするとか傘を買うとか何故しないんです!? 風邪を引きたいのですか、君は……!」


 なるほど、どうやら彼は今子供を叱る母親のような気分になっているらしい。僕は苦笑して、話を戻すことにする。


「それよりも、一応言っておくけど菖蒲は僕の弟とか知り合いとかじゃない。誘拐でもない。まあ事情があって彼は宿を探していたんだ。ね、菖蒲?」


 同意を求めたが返事は何も返ってこない。菖蒲の様子を窺ってみると、どうやら眠っているようだった。疲れたのだろうか。

 乱暴なブレーキに驚きつつ前を向くと、顔面にタオルが飛んできた。


「君が犯罪をするような人間ではないことくらい分かっていますよ。その話こそどうでもいいので、早くタオルで頭を拭いてください」

「東雲って煙草吸う人なんだね」

「煙草臭いタオルで済みませんね。黙って拭きなさい」


 今日の東雲はどうにも調子が狂う。本当に親みたいだ。僕は言われた通り大人しく頭を拭く。制服も多少拭いてから鞄を拭こうと思い、鞄は菖蒲と食材と共に後部座席だったことを思い出した。

 それから少しして再び赤信号に差し掛かり、揺れることを覚悟したが、今度は全く揺れなかった。先刻のはわざとみたいだ。


「お風呂沸いていますが、入りますか?」

「いや、僕は後でいい。先に菖蒲を入れてやってよ。風邪引くと良くないし」


 また溜息を落とした東雲は、きっと僕も風邪を引いたら良くない、と言いたいのだろう。大丈夫だ、馬鹿は風邪を引かないという言葉がある。

 東雲の車が止められたのは、マンションの駐車場だった。彼は先に車を降り、僕にも降りるよう促してから菖蒲を起こしに行った。

 後部座席に置いていた袋を両手で持って、僕は菖蒲と東雲の後ろに続く。菖蒲は眠たげに目を擦っていた。

 階段を上って、東雲の部屋に入る。物が少ないわけではないが綺麗に整頓されていて、東雲が綺麗好きであることを察した。

 リビングダイニングキッチンに案内されて、僕はすぐにオムライスを作る準備を始めた。東雲は菖蒲を連れて廊下に出ようとしたが、こちらを振り返る。


「冷蔵庫の中のもの、使って大丈夫ですからね」

「分かった。けど必要なものは買い揃えたから平気」


 キッチンにもちゃんと物が揃っていて、本当に材料だけ買ってくれば良かったなと少し後悔する。使い切れなかったものは東雲にプレゼントすることにしよう。

 僕は制服のブレザーを椅子にかけてから、台所に立った。


     ◆


 ちょうど作り終えた頃に、菖蒲が少しだけぶかぶかの服を着て東雲と食堂にやってきた。東雲の服にしては小さいけれど、菖蒲の服にしては大きい。

 オムライスを皿に盛り付けながらその服を見ていると、唐突に耳元で東雲の声が上がる。


「おおっ! すごくおいしそうですねえ!!」

「びっくりした……。なんで君はいつも僕の鼓膜を破る気満々なの……何かの作戦?」

「ああ、失礼。ついつい声が大きくなってしまうんですよね。ちなみに菖蒲くんの服は私が中学生くらいの時のものです。びしょ濡れの服よりは良いかと思いまして」


 僕が菖蒲を見ていた理由に気付いていたみたいだ。やはり彼は良い観察眼を持っている。ただ単に僕が分かりやすかっただけという可能性もあるが。

 菖蒲は椅子に座って、テーブルの上にオムライスが運ばれてくるのを待っていた。顔を上げた彼と僕はすぐに目が合う。

 今更だが、僕は菖蒲に聞いてみた。


「菖蒲ってさ、男の子、でいいんだよね」

「えっ、まさか女の子だと思ってたんですか? ぼくはれっきとした男です」

「間違えられない? 髪長いし、さっきは三つ編みしてたし」


 菖蒲の分のオムライスとスプーン、コップを彼の前に置いた。僕の分と東雲の分も持ってこなければと思ったが、東雲がすぐに運んできてくれる。

 なんとなく菖蒲の向かい側に腰掛けると、僕の隣に東雲が座った。


「すっごくおいしそうですね! 紫苑さん、料理まで出来るなんてすごい!」


 菖蒲が満面の笑みを浮かべてオムライスを一口食べる。どうやら僕の質問はオムライスの存在で忘れられてしまったようだ。

 彼は幸せそうな顔を浮かべると、僕の方に身を乗り出してきた。


「おいしいです! どうやって作ったんですか!?」

「普通に作っただけだよ。隠し味は生クリームと粉チーズ」

「なるほど!」


 理解したように言っているけれどきっと理解していないのだろう。菖蒲は聞いてきた割に、作り方には興味が無さそうだった。

 東雲からも美味しいという言葉を聞きたいのだが、彼は無言のままだ。気になって目をやると、まだ一口もつけられていないオムライスが彼の前にあった。


「東雲? 冷めるよ」

「あ、はい。そう、ですね」


 何か考え事でもしているのか、東雲は声をかけても尚ぼうっとしている。自分のご飯が冷めてしまうのは嫌だから、僕はもう気にせずに食べ進めることにした。

 僕が半分くらい食べた頃、菖蒲が両手を叩き合わせる。


「ごちそうさまでした!」


 彼は早食い競争で負けなさそうだなと思いつつ、小さく頷きを返してやった。食べ終えた食器を台所の方へ運びながら、菖蒲が東雲を呼んだ。


「あの、ぼく寝たいんですけど。どこで寝ればいいですか?」


 食べたばかりだというのにもう寝るなんて、子供は早寝だ。寝る子は育つとよく言うし、子供は親に早く寝るよう促されることが多いから、そういう習慣が身に付いているのかもしれない。


「トイレの向かい側の部屋にベッドがあるので、そこで寝ていいですよ。おやすみなさい」

「あ、はい。おやすみなさい」


 廊下に繋がる扉が小さな音と共に閉じられた。この早さで寝室に向かったということは、きっと食器を流し台に置いただけで洗っていないのだろう。小学生だから、食べた食器を洗う機会が少ないのだと思われる。

 菖蒲がいなくなって少ししてから、東雲がようやく口を開いた。その口に一口も食べられていないオムライスを突っ込んでやりたい気分だ。


「彼、能力者ですかね」

「は?」


 真剣な顔でぽつりと零すと、東雲はもう冷めているであろうオムライスを食べ始める。僕が問い返したというのに、彼の次の言葉は真面目な空気を取り去った。


「おおおおおおっ! 美味しいですね! 紫苑くん、シェフとしてここに毎日通いませんか?」

「出来立ての方が美味しかったと思うんだけど。というかそんなことはどうでもいいよ。菖蒲が能力者って、どうして分かる?」


 僕は立ち上がって台所に向かった。やはり置きっぱなしになっていた菖蒲の食器と自分の食器を洗う。

 東雲は顔だけをこちらに向けた。


「君、メールをくれたでしょう? 他の能力者について。先程菖蒲くんのランドセルの中身を見ましたが、入っていたのはスケッチブックと筆記用具だけでした」


 それだけで、東雲が言いたいことがよく分かった。蘇芳の言っていた、スケッチブックとペンをいつも持っている小学生の男の子。それが菖蒲なのではないか、と彼は言いたいのだ。

 皿を洗う手が止まってしまうくらい、僕は動揺していた。

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