決して剥がれぬ微笑の仮面4
◆
二つに結われた髪が更に分かれて、六本ほどの触手みたく僕の方へ向かって来た。得物の多さに眉根を寄せる。
僕が能力の対象に出来るのは視界内のものだけだ。それに、一つのモノのみ。複数のモノに能力を使おうとすると、うまく能力が発動されない。それは僕の集中力と想像力と未熟さのせいかもしれない。
歯噛みして駆け出し、向かい来る髪の毛をかわした。蘇芳の長髪で空気が切られる度に風切り音が夜闇を縫う。
くそ、と吐き捨てたい気分だ。髪が邪魔で蘇芳の姿が視界に入らない。もっと接近しなければ攻撃が出来ない。そのためには、この髪を全てどかさなければならなかった。
「〈曲がれ〉」
分かれていた髪が一本の束になった直後、僕に向かって来ていたそれの軌道を変えた。僕のいる所とは全く違う方へ向かい、歪められた空気に抗おうと街灯に絡みつく。
「〈折れろ〉」
「――っうあ!」
蘇芳の姿を捉えてすぐ、彼女の腕を折り曲げた。重力に任せて下げられた片腕を押さえ、彼女はすぐさまこちらを睨め上げた。苦しげな表情は、同時に驚愕の色も宿している。
「僕の能力はモノを浮かせるだけじゃないんだよ」
「……っこのぉぉおお!!」
奮然と襲いかかる髪を避けながら、僕はさっきまでその髪が絡みついていた街灯に「〈折れろ〉」と呟く。
足を離された街灯の殷々たる音色は、直に地を唸らせるほど勢いを増すのだろう。けれどそれが地面にぶつかって轟音を立てるより早く、宙へ浮かせた。蘇芳の方へ放たれた鉄塊は余喘の光を散らす。流星じみた一線が視界から失せたことに疑問を抱き、僕の体が仰臥しかけていることに気付いた。
「あ」
蘇芳がぶつかったかどうかを見届ける前に、僕は阿呆のような声をぽつりと漏らした。それは街灯が立てた音に掻き消されて蘇芳には聞こえなかっただろう。足に絡みついた髪の毛に引かれ、藻掻いた手は空気しか掴めず不覚にも倒れ込む。
地面に手を突いて上半身を起こし、追い討ちをかけに来たもう一房の髪を手で掴んだ。それを引っ張ると、視線の先で、無傷な蘇芳がふらついた。
「〈歪め〉」
「えっ――」
加減をしつつ、蘇芳を上から押し潰す。立っていられないほどなのか、彼女は膝を折った。
憎々しげに僕を見た直後、蘇芳は僕に掴まれたままの髪を縮め始めた。離すべきか否か悩みつつも、加減しながら使っている能力の方へ意識を集中させる。
「ちっ」
舌を打ち鳴らして立ち上がるが、手綱を握られた体はすぐ頽れそうになる。手足に巻き付いた髪の毛が次第に短くなり、僕はだんだんと蘇芳の方へ近付いていた。地を踏みしめている靴底が道路を滑って、不快な擦過音を鳴らしていた。
掴んでいる髪の毛が僕の手の中で蠢く。抗う生き物を握り潰すような感覚に気持ち悪くなりながら、僕は目が合ったままの蘇芳に微笑みかけた。
「君の能力としては離れている方が有利なんじゃない?」
「る、さい!」
足に絡んでいた髪の毛が解けて、視界を覆いに来る。空いている方の手でそれを阻止した。すると両手で掴んだ髪の毛が更に伸び、僕の手にぐるりと巻きついた。これでは、髪を手放すことが出来ない。面倒くさいことになった。
「はぁ……」
「あんた……、諦めなさいよ!」
「え、この状況でそんな台詞吐く? 別に原型を留めなくなるまで押し潰してあげてもいいんだけど」
蘇芳が息を呑んだのは目に見えて分かった。強がっていても中学生の女の子だ。死ぬことに恐怖を覚えるのは、当たり前のことだと思う。
尤も、高校生でも大人でも、死ぬなんて嫌だろうが。
「こ、こっちこそあんたなんかぐるぐる巻きにしてやってもいいのよ!」
「悪いけど縛られる趣味はないよ。〈来い〉」
「えっ!?」
蘇芳は動揺のせいか僕に巻いていた髪の毛をぱっと解いた。引き寄せられて眼前まで迫った彼女の首を素早く掴み、その勢いのまま押し倒して地面に叩きつける。咄嗟に顎を引いた彼女が受けた衝撃は、背中に集中したと思われる。
「う……っ!」
「ごめん、痛かった? 手を抜くつもりはなかったからさ」
「くっ、るし……い……」
必死な両手が僕の手を引っ掻いた。伸びた髪が鞭のようにこの体を打つ。別の髪が、腕をきつく縛り付ける。もう一房が仕返しのように首に絡んできた。
他の髪の毛は滅茶苦茶に地面を穿ちながら僕を叩いているのに、その一房だけは冷静に僕の首を絞めていく。喉が押し潰され、頚椎が軋んでいく。肺から溢れ出す呼気は外気に握り潰されそうだった。
「っ……蘇芳、君が先に気を失うのか、僕が先、か……どっちだと、思う?」
「……して」
聞こえない。そんな声じゃ、僕には届かない。もっと大きな声で言ってもらいたい。
――死にたくないって、もうやめようって、言ってくれ。もう、終わらせてくれ。
僕の意識に反して細められていく双眸の中で、蘇芳の唇が、震えながら動いた。
「ど……して、あんた……こわれ、そうに、わらってるの……?」
どうして。同じ言葉を返してやりたかった。小さな音を立てて、彼女の髪の毛が地面に落ちた。
彼女は、僕の首を絞めることをやめた。
彼女の問いかけは、僕の手から力を抜いた。
「はあっ、はっ、げほっ……!」
乱れた呼吸だけを互いに漏らす。僕はすぐに落ち着いて、まだ苦しそうにしている蘇芳に相変わらずの微笑を浮かべる。
「僕は、楽しいから笑っているだけだよ」
「目は、全く楽しそうじゃ、なかった。……はぁ」
蘇芳は立ち上がると、まだしゃがんだままの僕へ手を差し伸べる。それが何を意味しているか、聞かなくても分かった。
「あたしの、負けでいい。協力者になってあげるわよ。あんたの能力、本当に『ウサギ』じゃなさそうだし」
「……そう、よかった」
ああ、本当に疲れた。ならもう笑う必要なんてない。心で狂人を演じるのもこれまでだ。
僕は蘇芳の手に触れたものの、自分の力で立ち上がり、辺りを見回した。曲がり角や電柱の陰を見ても人影はない。照明の落ちた建物内までは上手く窺えなかった。
「で。僕の心を読んで君に伝えていた君の協力者はどこにいるのかな? 彼の為に僕は下衆な戦闘狂を演じ続けていたわけだけど」
その存在に気付いてすぐは、読まれても問題ない程度の心の声を言わなければと思った。浅葱の名が出てからは、彼女が僕にとって無関係であるという確証を得させるために演技を始めた。
正直、浅葱がこの世界にいると聞いた時、認めたくないという強い思いが湧いて来て、それを誤魔化すのが一番大変だった。今思い返しても、浅葱がこちら側に招かれた能力者だということが許せそうにない。
宮下浅葱をこちら側に招いた『ウサギ』も、そうなるように綴られていた運命も、僕はきっと許さない。
どうしてか、浅葱がこちら側にいることは、わけも分からず憤るくらい納得がいかなかった。今更ながらに苛立って、馬鹿馬鹿しいなと息を吐く。
「――なるほどな、演技だったわけかよ。どうりでたまにおかしい心の声が聞こえてきたわけだ」
少し離れた場所にあった店の中から出てきたのは、不良みたいな外見をしている男だ。蘇芳が言っていた通り、高校生のようだ。年上だろうか。
「ああ、俺は高三だぜ。協力者になるみてえだし、自己紹介しとくか。甲斐崎朽葉だ。……てかお前、いつ心が読まれてるって気付いたんだ?」
「蘇芳がおかしな会話の繋げ方をしてきた時だよ。僕が内心でぼやいたことと繋げると、彼女の発言は綺麗に繋がった。携帯電話に繋がったままのイヤホンを嵌めているのも連絡を取り合っているんだろうな、ってね」
それにしても、完璧に繕えていたと思っていたが、ところどころ穴があったみたいだ。気付かなかった。
けれども頑張った方だと思いたい。本心を隠すように心さえ嘘で固めなければならないというのは、少しどころではなくかなり難しかった。
「おい蘇芳、お前なにボロ出してんだよ」
「るっさいわね! 呉羽先輩じゃなかったらバレなかったわよ! 多分!」
「ところで、浅葱は?」
何か言い合いをしていたようだけれど、今の僕はそんな会話に興味なんかなかった。浅葱が無事かどうか、それだけが気がかりだ。
「何もしてねえよ。あいつも協力者だ」
男――えっと、枯葉だっけ? 彼から浅葱の無事を確認するも、東雲のことが気になり携帯電話を開いた。
東雲から『ミッションクリアーです!』というメールが来ていた。本当に浅葱は無事みたいだ。
「その、呉羽先輩」
「ん、なに?」
携帯電話を仕舞おうとして、もしかしたら連絡先を交換するかもしれないと思い、手に持ったまま蘇芳の様子を覗き見る。
今までの刺々しさはどこへやら。彼女はなぜか大人しそうに俯き、なかなか喋らない。
枯葉がそんな蘇芳のことを全く気にせず、僕に声をかけてきた。
「なあ、一応聞いておきてえんだけど。お前本当に宮下の彼氏なのか?」
「違う」
浅葱に気でもあるのか、枯葉は小さくガッツポーズをした。気付かれないように小さくしたつもりだろうか。それでも無意味だ、見えている。
心の声が聞こえたらしく、彼は気まずそうな顔で僕を見てから背を向け――僕はいきなりぐいと腕を引かれて、危うく転びそうになった。
蘇芳が折れていない方の手で僕を引っ張っていた。にこにこ笑っているが、その手はもう痛くないのかと聞いてやりたくなる。
「あのっ、協力者になったわけですし、先輩年上ですし。あたし、敬語使います」
「……好きにすれば?」
いったい何の宣言だ。いや、確かにいきなり敬語で話されても変な物でも食べたのかと思うが、いきなり宣言されても戸惑う。
やった、となぜか喜んでいる蘇芳から、視点を携帯電話に落とした。
「連絡先、交換しようか」
◆
蘇芳と枯葉に案内をしてもらった僕は、ある中学校の体育館に足を踏み入れた。
電気の点いた館内に入ってすぐ、人兎の死体が目に入る。僅かに顔を顰めてステージ側を向くと、そこには東雲と浅葱の姿があった。
ちなみに、東雲のことは既に蘇芳と枯葉に伝えてある。
「浅葱」
実際にその姿を認めて、彼女がこちら側にいるのだということを、信じたくなくとも信じなければならなくなった。
彼女の自殺を止めた直後にこれだ。偽物の世界に招かれて、彼女は死に近付くことになった。この世界での死が彼女にショックを与え、日常で笑えなくなったらどうする。ふざけるな、と吐き捨てたい気分だ。
彼女が怪我をしているのを見て、人知れず噛み合わせた歯をぎりと軋ませた。
招かれるべきではないような人間を招くことに、僕は苛立っている。普通な日常を過ごすべき人間を、こんな風に異常な世界へ引き寄せるなど頭がおかしい。
『ウサギ』の目的は、本当に何なのだろうか。
むしゃくしゃしたまま立ち尽くしていた僕に、浅葱が抱きついてきた。思わず目を見開いたが、ゆっくりと苛立ちが鎮まっていく。
というよりも、鎮めなければという意思が働いていた。
「遅いです」
「……ごめん」
「いいえ、ごめんなさい」
僕にしがみついたまま、顔すら上げない浅葱。どうして彼女が謝罪をしたのか、理解出来なかった。
謝るのは僕の方だ。彼女が知らない所でとはいえ、彼女をないがしろにしたのだから。
「私、先輩のこと、信じられなかったんです。ごめんなさい。先輩が、私のこと本当にどうでもいいと思っているって、先輩、優しいからそんなことないのに、私……」
もう少し落ち着いて、何を言いたいかまとめてから話せばいいのに。今にも泣き出しそうな声に、僕はどうしたらいいのか分からなくなる。
とりあえず、彼女の頭に手を置いてみた。
ふわふわで犬みたいな髪の毛だ。そんなことを思って、こんな状況にもかかわらず、僕は犬を撫でる感じで髪に触れていた。
浅葱は少し動揺したようだったが、大人しくしている。
かと思うと、いきなり顔を上げてきた。
「あの、紫苑先輩っ。私のこと心配して、東雲さんを来させてくれたんですよね。ありがとうございました。私、先輩のこと、だ――」
あ、の形に口を開けたまま、浅葱は固まった。その顔がどんどん赤くなっていって、なんだか見ていて面白い。
つい笑ってしまったのがいけなかったのか、浅葱に軽く突き飛ばされた。後ろにバランスを崩すと、何故か蘇芳が背後から腰に手を回してくる。
正直抱きつかれるのはあまり好きではなく、思わず顔を顰めた。
「蘇芳何して――」
「宮下センパイ、あたしの呉羽先輩を突き飛ばさないでくださーい」
僕の発言は無視か。というか勝手に人を所有物みたいに呼ばないで欲しい。
僕はなんとか蘇芳の手を引き剥がし、浅葱と蘇芳の間から立ち去る。東雲にお礼を言っていないことを思い出して彼のもとへ歩いていった。
「あたしの、って……え!? 蘇芳ちゃん!?」
「あたし、負けませんから」
「え、えええええ!?」
彼女達はなんの話をしているのだろう。体育館に響き渡る声が大分うるさい。
ただ、浅葱が楽しそうにしていると表情が緩む。今まで繕っていた分、自然と緩んでいく感覚はなんだか心地よかった。今なら綺麗な笑顔を浮かべられている自信がある。
その表情のまま、僕は足を止めた。
「東雲」
声をかけると、枯葉と話していた東雲がこちらを一瞥して、枯葉の後ろに隠れ始めた。枯葉の肩から顔を出して、僕を指さす。
「浅葱さんからなにか聞いたんですね! 私を懲らしめに来たんですね! おお怖い!」
どうやら枯葉は盾代わりのようだ。わざとらしく怯えているが、そもそも東雲が何をしたのかすら知らない。
そういえば、ここにいるのが浅葱だということを東雲には伝えていなかったけれど、どうやら僕が助けを頼んだことと、恐らく彼女の制服で分かったみたいだ。
動揺する枯葉と震える東雲が可笑しくて、僕は唇を撓らせた。
「いや、お礼を言いに来ただけなんだけど」
「もしや何も聞いていませんか?」
「何、東雲お前僕に殺されるようなことでも――」
……。
思ったより、時間の流れというのは早い。
見上げていたのは、自分の部屋の天井だった。東雲を問い詰めたり蘇芳に他の能力者の話を聞いたりしたかったが、そんな時間はなかったみたいで、普通の世界に戻っていた。
起き上がって時計を見ると、当然時刻は朝六時。あと一時間ほど寝られるだろうかと思うも、どうせ十分後くらいに紫土の目覚まし時計が鳴る。
能力を使いすぎて疲れたせいかとてつもなく眠いが、学校に行けば眠ることが出来る。
僕は制服に着替えようとして、ずっと制服だったことを思い出した。欠伸を噛み殺しながら部屋の扉に手をかける。
ポケットの中で携帯電話が振動した。
階段を降りつつそれを取り出し、届いていたメールに目を通す。蘇芳からだ。
『他の能力者や『ウサギ』についてのことを話したいので、今日の十七時くらいに三日市の図書館に来てください。場所、宮下センパイなら分かると思います』
分かった、とだけ返して、僕は洗面所の前に立って顔を洗う。
少しだけ目が覚めたが、気休め程度だ。目の前にある鏡の中の自分と視線が絡んだ。蘇芳と戦っていた時のことを思い出しながら、何気なく微笑んでみた。
――目は、全く楽しそうじゃ、なかった――
確かに、鏡に映る僕は酷い顔だ。壊れそうと言われても仕方がない気がする。どうして僕はこんな目をしているのだろう。
「……――っ」
気付いたら、鏡に手を叩きつけていた。割れなくて良かったと思う。ただ、手の側面が痛むだけだ。何をしているのかと笑ってしまいそうなくらい、殴った理由が掴めなかった。
浅葱の前でもこんな顔をしているのか。そう思うと、自分が許せない。浅葱に花のような笑顔を向けてもらいながら、僕はこんな微笑しか返してやれないなんて。
いつからだろう。目の色が、こんなに冷たい絵の具で塗られたのは。
鏡に映る瞳の奥は、暗くて黒くて、何も見えない。僕は――彼女といる時、何色の目をしているのだろう。彼女といる時、上手く笑えているだろうか。
「……浅葱」
僕は彼女を死なせないと決めたから、人兎からも能力者からも守らなければならない。
『友達』だから。
――友達というのは、嫌な響きだ。
もう名称なんてどうでもいい。友達だからとか、協力者だからとかどうでもいい。
死なせたくないから、死なせはしない。僕が『友達』という単語を素敵なものだと思えるまで、理由はそれでいい。
宮下浅葱を、死なせはしない。
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