Extra edition of 『炭酸水と犬』
砂村かいり
緑の休日
日差しが既に、初夏のものだ。
彼女が大きなその目をまぶしそうに細めるのを、俺は横目で見ていた。
GWの初日、総合公園で毎年開かれる「緑化まつり」に俺たちは来ていた。
植木市や植木の競りがメインだが、野外ステージでは地元のダンスチームが踊り、屋台がずらりと立ち並び、民芸品や雑貨やちょっとしたフリーマーケットの出店なんかもあって、毎年地元民で賑わうイベントだ。
木陰に敷いたピクニックシートの上に脚を投げ出し、俺と
広大な草地の上を走り回る子どもたちと、それを追いかける親たち。少子化なんて思えないほど、この町には子どもの笑顔があふれている。
「たこ焼きってほんとにおいしいよね……」
30歳の女性がしみじみと言う台詞とは思えないが、何しろ9年半も付き合った相手――俺の兄貴がテキ屋の屋台ものを敬遠するせいで、なかなか食べる機会に恵まれなかったというのだ。
「お好み焼きも……ほんとに……おいしい」
「もっと買ってこようか」
彼女が
健康志向の恋人を持つと、食生活がここまで左右されるものなのか。由麻さんはおいしいものが全般的に好きで、ヘルシーなものばかりでなくジャンキーなものだって実はこよなく愛しているのに。
「ううん、これ食べたらだいぶ満足。ありがとう」
そう言って、彼女は割り箸を持ったまま俺の肩にもたれた。心臓がどくんと鳴る。さらりとした長い髪が俺の腕に触れている。
一緒に住んでそろそろ2ヶ月経つというのに、昨夜もきつく抱いたばかりだというのに、俺の心は未だに片思い時代と変わらない動きをすることがある。
「ふー、落ち着く」
心からリラックスした声で由麻さんが言った。
不意に、泣きたくなる。
この幸せが現実なんて。触れ合う肩の体温が――彼女が、俺のものなんて。
「油断すんなよ。キスするぞこら」
余裕のふりをして言うと、由麻さんは楽しそうに「きゃー!」と声を上げながら姿勢を戻した。
きゃー! じゃねえよ、ほんとにするぞ。片思い歴6年半をなめるなよ。
肩を抱き寄せようとしたけれど、すぐ近くに敷物を広げている老夫婦がいるし、子どもたちがすぐ目の前を駆け抜けてゆくので諦めた。
代わりに俺は、彼女の
もう月に一度や二度しか会えない身ではないのに。彼女のかけらを一生懸命ストックしなくても、毎日その姿を間近で見ていられるのに。
なのにいまだに、記憶するように見つめてしまう癖が治らない。
兄貴がハイチへ発つ前に、一度だけ会った。
由麻さんの引越し荷物の中にうっかり紛れていた兄貴の私物を返却しがてら、どうしても話しておきたいことがあったのだ。
由麻さんが親友たちと約束があるという土曜日、俺はひとりで実家方面に車を飛ばした。
由麻さんと別れた兄貴はあの女――髪の毛を不思議な色に染めたアサミとかいう人と住むのかと思いきや、出発までの日々を実家で過ごしていた。
そんなまじめなところが、どうしても憎めない。
まあ、宅配便と電話で済ませることもできたのにサシで対面しに行く自分も、相当ばかまじめなのかもしれないが。
兄貴が指定してきた、地元に最近できたらしい店に車を入れる。自然食レストランというのが、いかにも兄貴らしい。
「おう」
「うん」
あの日――俺の部屋の玄関で怒鳴りあったあのバレンタインから、1ヶ月と少し。
久しぶりに会う兄貴は、思いのほか元気そうではあった。ただ、目の奥に
傷つけ合い、奪い合って別れた気まずさを抱えたまま、向かい合って黙々と食事をした。
「順調なの、仕事の方は」
白身魚のソテーをつつきながら、兄貴が口を開く。その髪はカラーリングをサボっているらしく、根元の黒い部分がだいぶ伸びてしまっている。そんなことは今までなかった。
「順調だよ。やっぱ安定企業は働きやすいわ」
俺は豆乳ドリアとやらを
「あ、忘れないうちにこれ」
俺は持参した袋を手渡した。洋楽のCD2枚と、単行本1冊、そしてフェイスタオルが1枚入っていた。
「わざわざありがとな」
兄貴が薄く笑いながら受け取る。
間ができた。
このためにわざわざ来たわけじゃ、ない。
「……元気にしてる?」
主語を省略してたずねるので、
「元気だよ」
俺もそれに
「やっぱ、正社員だと忙しそう?」
「そうだね、前より頻繁に残業になってる。外資系ってなんか独特だよね。まあでもいきいきやってる感じだよ」
「そっか、ならよかった」
心から安堵したように兄貴は言って、黒豆茶をすすった。なんだか喉の渇きを覚えて、俺は有機コーヒーをがぶ飲みした。
また沈黙ができた。
「あ、そうだ。こちらもご査収ください」
演技がかった声で言いながら、俺は菓子の箱を取りだす。
「なに?」
「草津温泉のお土産」
「草津……」
「ホワイトデーに行ったんだ。温泉地で、草津は兄貴と行ったことないって言うから」
今度こそ兄貴は黙った。
「箱根も熱海も湯河原も兄貴と行ったって言うからさ。仕方ないから、この先は九州とか東北を攻めるよ。あ、でも別府は行ったんだってね。じゃあ
「……」
「ベタだけど温泉饅頭だから、母さんたちと食べて。よろしく伝えてね。今日は寄らないけど、電話で全部話してあるから。そっちもそっちの視点でたっぷり話してあるだろうけど」
「真先」
兄貴がうめくような声を出した。
「なに」
「今日は、俺と
「そうだよ。なんだかんだでブラコンですし、俺」
「まだ、俺、完全には頭切り替えられてない。だからいきなり生々しい話は……ちょっと」
兄貴の悲痛な声は、胸の柔らかい部分に刺さった。
なんだ、こんな痛み。この6年半味わってきた苦しみに比べたら。絶望のサドンデスに比べたら。
そう思いつつも、
「ごめん」
と俺はつぶやいて、サラダの中のラディッシュをつまんだ。
「大事にしてやってな」
雑音にかき消されそうな声で、兄貴は言った。
「言われなくても」
「まあ、冠婚葬祭とかでどうしても顔合わせちゃうと思うけど、まあ邪魔はしないから」
「……ほんとに?」
話がいきなり核心に触れたので、俺は箸を置いて兄貴を見据えた。
「『まあ』じゃなくて、絶対邪魔しないって言って」
「……しないよ」
「誓って」
「何に?」
「俺に」
はっ、と兄貴は吐き出すように笑った。
「邪魔したくても、無理だろう。相当おまえにご執心だもん」
「しないって誓えよ!」
思わず大きな声が出た。隣りの女子会グループからの視線を感じた。
我ながら情緒不安定だと思うが、
兄貴はうつむいた。テーブルの
「……誓いますよ」
兄貴は湯のみを手で包み、うなだれた。ポップスを無理やりボサノバアレンジしたBGMがやけに耳についた。
冷静に話をつけるつもりだったのにあっさり激した
「……なんで俺、さっさと結婚しなかったんだろうな」
その声が涙まじりに聞こえて、俺は口をつぐむ。
「なんで、9年もぐずぐずしてたんだろうな」
「それは誰もが思ってるよ。
はは、と弱々しい声で兄貴は笑い、溜息をついた。
「自己実現って、大事だと思うんだ」
「はあ」
「何だろう、結婚前になんかでかいことやらないとって思ってるうちに30になっちゃって」
そんなこと思ってたのか。
「まあ、それはハイチに行くことで叶うし、由麻にはさんざん迷惑かけたし、もういいんだけどさ」
「あの人とは、付き合ってるんじゃないの」
兄貴は一瞬顔を上げた。
「アサミとは……お互いハイチから戻ったら付き合おうとは、話してる」
「なんだ」
気が抜けた。じゃあそれでいいじゃないか。
「その頃に、由麻が完全に頭から消えてればね。中途半端だと、失礼にあたるでしょ」
「……さんざん中途半端なことしておいて、よく言うわ」
「だよね」
「それに、完全に頭から消えるなんて、まず無理でしょ」
「だよね……」
「しっかりしてよ、兄貴」
無性にいらついてきた。子どもの頃から尊敬し憧れてやまなかった兄貴の姿は、もうどこにもない。ただの不安定な男の姿が、そこにあった。
恋は、人を変える。良くも悪くも。
不意に、野山を駆け回って遊んだ子どもの頃を思いだして、胸が締めつけられた。
絶対に追いつけないと思っていた、兄貴のランドセル姿。
「まあ、ふっきれるよう祈っててよ。俺、これでも今、ハイチで生まれ変わろうと思ってめっちゃはりきってるんだ。毎日筋トレしてる」
何とか笑顔を取り戻して、兄貴は力こぶを作ってみせた。
そうだよ、笑っててよ、兄貴。
ひとりじゃないんだし。夢もあるんだし。
由麻さんは俺が幸せにするから。絶対絶対、するから。
由麻さんが、リュックの中から薄いブランケットを引っぱりだしている。
それを身体にかけて、横になってしまった。
「え、寝るの?」
「寝るの」
子どもみたいに答えて、由麻さんは目を閉じる。長い睫毛の影が、頬に伸びている。
出会った日からは想像もつかない、まばゆい今。
目の
新大久保のガード下は狭いから、店で直接待ち合わせよう。
兄貴にそう言われて韓国料理屋へ向かっていた、6年と9ヶ月前の夏の日。
改札を出てコリアンタウン方面に足を向けた二十歳の俺は、不意に魂に直接呼びかけられたような気がして、ガード下を見た。
緑のワンピースと長い髪の毛をぬるい風になびかせて立つひとりの女性が、そこにいた。
あ。
突然俺は、理解した。
俺、この人に会うために生まれてきたんだ。
周囲の雑踏が動きを止めて、世界にふたりだけになったように感じられた。
強い確信に導かれて、俺は彼女に向かって一歩、足を踏みだす。
ナンパだと思われるかな? いや、話しかけた瞬間にわかってくれるだろう。だって、魂が共鳴しているのだから。
けれど次の瞬間、よく見知った顔が風のように現れて彼女の肩に手を置いた。
兄貴だった。
彼女の顔が、ぱっと輝く。そのままにこやかに談笑しながら、ふたりは歩きだした。俺と同じ目的地に向かって。
それが俺の、絶望と希望の始まりだった。
――はいっ、香りのいいことでおなじみ、金木犀が300円から!……500円! 600円! じゃあ……1000円! 1200円!
野外ステージでは、植木の
いつか庭付きの家を買ったら、いろいろ植えよう。花も、野菜も、果物も。
2歳くらいの女の子の手を引いた母親が歩いてきて、俺たちの近くでシートを広げ始めた。その夫らしき男性の胸には乳児が抱かれている。ぷっくりとした脚が、ぷらぷら揺れている。
生後まもない由麻さんの甥っ子を思いだした。
高崎市にある彼女の実家を訪れたのは、兄貴と会う少し前のことだ。草津温泉に行く途中で立ち寄ってお邪魔し、昼をご馳走になりながら、諸々の経緯の説明と挨拶をした。
既に由麻さんから伝わってはいたけれど、いざ俺を目の前にして彼女の両親や姉夫婦はいささか緊張気味だった。
それでも、こんな非常識な選択をした俺たちを、彼らは泣けるほどあたたかく受け入れてくれた。
「ねえ」
並んで寝そべりながら、俺は既に眠りかけている恋人の頬を軽くつついて言った。
「……うん」
「モルディブで、いっぱいセックスしようね」
由麻さんはがばりと起き上がり、「ばかっ」と俺の頭をはたいた。
連休後半は、モルディブに行く。宝くじの当選金もあるので
――はいっ、お次は……デコポン!。ジューシーな実がなりますよお。桃栗3年、デコポン5年。はい、500円から。
俺の声は競りの司会者の声に紛れて、家族連れには聞こえなかったようだ。楽しげに弁当を広げている。シートに寝かされた乳児は男の子のようだ。
彼らの目を盗んで、俺はまだ俺をぽかぽか叩いている恋人の手首をつかみ、唇を奪った。
初夏の陽光ごと、吸いこむように。
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