罵倒

HelloRusk

罵倒

 少年は窓の外を眺めていた。

 視界に映るのは鬱蒼とした木々に覆われた公園だ。今日はベンチに誰も座っていない。人がいない公園をぼんやりと眺めるのが好きだ。

「矢内原公園ね」

 背中の方から聞き慣れない声がした。少年はそれを無視して、なおも窓の外を見続ける。窓ガラスには少年の醜い顔が反射されていた。とても眠そうな顔だ。少年はその日の明け方までアニメを見ていて、起きたのは14時過ぎだった。

「酷い表情ね。生きようという意志がまるで感じられない」

「うるさい」

 少年は後ろを振り返った。誰もいなかったはずの隣の椅子に、面識のない女性が足を組んで座っている。女の香水のきつい臭いに少年は顔をしかめた。

「不快だ。人と話すのは嫌なんだ。帰ってくれないか」

「どうして人と話すのが嫌なの?」

「俺が不快だからだ。俺は、俺の思い通りに世界が動いて欲しい。だから他人とは関わりたくない。俺の思い通りにならない存在が不快なんだ」

 女は少年の言葉に対して、薄ら笑いを浮かべた。

「あなた、自分というものに随分と信頼を置いてるのね」

「そうだ。悪いか?」

「別に悪いとは思わないわよ。ただ、あなた自身の思考や感情は、そのあなたの嫌いな『思い通りにならない存在』とやらに無意識に影響されてしまうことには、気をつけた方がいいわね」

「それはご高説どうも」

 少年はますます苛立ってきた。どうしてこんなところで知らない女から説教を受けねばならないのか。これだから他人は嫌いなのだ。今日はもう図書館を出るか。

 女は少年のそんな様子には構うことなく、少年が机の上に置いていた本に目を向けた。

「その本は何?」

「JJサクライ」

「あなた、物理が好きなのね」

「好きじゃない」

 少年は即答した。

「でも、休日にこんなところで一人で物理の本を読んでいるなんて、好きでもなければやらないわよ」

「違うんだ。ただ休日を無益に過ごすのが嫌なんだ。こうやって秩序立った理論を眺めながら、思考をそれに埋没させるのが一番落ち着くんだ。あんたには分からないのかもしれないけど」

「私に分かって欲しいのね」

「うるさい」

「私、あなたの承認欲求が手に取るように見えるわ」

 少年は無視して帰宅の準備を始めた。これ以上この女と言葉遊びをするのは時間の無駄だ。帰ってアニメでも見よう。

 不意に、女はそれまで浮かべていた笑みを引っ込めて問いかけた。

「ねえ、あなたはどうしてこんなところにいるの?」

「俺はこの空間が好きなんだ。この集密書架という地下空間が。誰にも読まれない古びた本に囲まれて、俺は...」

「そうじゃなくて」

 女は語気を強めて、少年の顔を覗き込んだ。少年は女の鋭い眼差しに気圧された。この時少年は女の顔を初めてしっかりと見た。よく見ると整った顔立ちをしている。

「そうじゃないの。あなたはどうしてこんな世界で生きているの?」

 少年は狼狽した。

「......それは分からないな。俺は生まれたいと願って生まれたわけじゃない。気がついたら自我が芽生えていて、気がついたら学校に通っていて、気がついたら勉強をしていて...。気がついたらこの大学にいた。どうしてと尋ねられても分からない。ただ、世界のことを少しでも分かってから死にたいとは思うが」

「そう」

 女はとても残念そうな顔をした。それはまるで、少年が自分の生きる意味を理解していないのが気の毒だというような顔だった。

「ねえ、共感覚って知ってる?」

「synesthesia」

「そう。実は私にもあるの。私、音に色が見えるの」

「嘘だ」

 女は反論せず、ぼんやりと笑みを浮かべていた。少年には、女が嘘をついているようには思えなかった。音に色が見える人にとって、この世界はどのように映っているのだろう。もしかすると自分とは全く異なる世界なのかもしれない。この女には、俺がどうして生きているのかというのが見えているのかもしれない。

「なあ、あんたには俺の声はどう見えてるんだ」

「それはね......秘密」

「ふざけるな」

 やはりこの女と話しているのは時間の無駄だ。

 それから少年は女と言葉を交わすことなく、帰宅の準備を続けた。女は窓の外の公園をぼんやりと眺めていた。

 荷物をまとめ、少年が席から立ち去ろうとした時、女が声をかけた。

「私ね、人から罵倒されるほど綺麗になるの」

「何だって」

「私を綺麗にしてくれてありがとう。あと、あなたの罵倒は良い色してたわよ」

「馬鹿なことを言うな」

 その瞬間、少年の視界から女の姿が消えた。まぶたの裏には、女の美貌だけが残っていた。

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