食事のあいだ中、鍋島は実に他愛のない話をし続けた。

 腹と足を刺されたときは、瞬間的に身体に火が点いたような感じだったとか、 三日ほど前にやっとリハビリが終了し、ようやく病院とも縁が切れてせいせいしたとか、芹沢は今度の事件で肉体的にも精神的にも相当きつい思いをしなければならなかったとか。

 どれをとっても、特に面白い話だとは思えなかった。

 それでも真澄は時には神妙な面持ちで、時にはにこにこ笑いながら彼の話を聞いてくれた。会話の中味より、自分と二人でいることが嬉しくて仕方がないのだろうと鍋島には分かっていた。


 そして今二人は、これもまた神戸では昔からお決まりのデートコースになっているメリケンパークを歩きながら、何となく気まずい雰囲気になっていた。

 公園にはあまり人気はなかった。まだ少し雨がぱらついていたし、こんな時間に港の公園を散歩できるほど今年の冬が暖かいわけではなかった。だいいち、今日はクリスマス・イヴなのだ。こんなところでうろうろしているカップルなんかまずいない。みんな今頃ホテルの暖かい部屋で、ワイングラスでも傾けながら、真実にしろ偽りにしろ、それぞれの愛を語っているに違いないのだ。

 鍋島も、芹沢にさんざんホテルの部屋を予約するようにとけしかけられたが、まるでそんなつもりはなかった。

 そして今頃になって予約を取ろうとしても遅すぎると言って話をはぐらかそうとしたが、芹沢は大学の後輩が神戸のホテルに勤めているから何とかして一部屋取ってもらうように口を利いてやると、彼にしてはめずらしくお節介を焼こうと食い下がった。それでも鍋島は断った。いくらなんでも、真澄とは初めてのデートなのに、いきなり最後まで行ってしまうのは無茶な話だ。彼女の場合、たとえ相手が鍋島でも、そんなことを考えていると知っただけで、それこそ絶交ものなのだ。芹沢には理解できないようだった。


 そんなわけで鍋島はこの公園に来た。今や彼にはやるべきことは一つしか残されていなかった。

 真澄にちゃんと自分の気持ちを伝えることだ。

 これまでは自分でもはっきりとは分からなかったのだが、今夜、彼女と二人で過ごしてみて、ようやく本当の気持ちが見えてきたのだ。

 それに、見合い話が持ち上がっている彼女に対して、これ以上意志表示を引き延ばすことは許されないと彼は思っていた。


「──あの、真澄」

 鍋島は思いきって切り出した。

「なに?」

 真澄の方もある程度の心づもりができていたのか、穏やかな笑顔を見せて答えた。

「あ、その……」

「ええよ、何でも言うて」

「真澄のこと、可愛いと思うよ。確かに好きやって気持ちもある。けど── どうも俺、あかんみたいや」

 それを聞いた真澄は目を閉じて大きなため息を漏らした。

「おまえはええ女やと思う。そう、せやから俺にはもったいないって感じで」

「勝ちゃん、そういう言い方は──」

「分かってるよ。卑怯な言葉やってこと。でもほんまやねん。ほんまにそう思うんや。おまえといると、何かこう、自分の弱味とか、ええ加減なとこは見せたらあかんなって、そんなことばっかり考えてしもて。俺にはそんなとこしかないのに」

「そんなことないわ。勝ちゃんはええ加減な人やないし、弱い人でもない」

「そう見えへんように意地張ってるだけなんや。ほんまは違う。いつも周りの人間の目を気にして、悪う思われんように気ィつかってる。悪ぶってるのは表面だけですよ、本当は良識派なんですよって、つい無意識のうちにそんな信号を送ってるんや。おまえに対しても、変なこと言うて怒らせんようにって、そんなセコいことばっかり考えて──」

「窮屈なんやね」真澄はぽつりと言った。

「──ごめん」

 と鍋島は下を向いた。「俺はこんなヤツやから、相手を安心させるよりも先に、自分が安心して無茶できる相手でないとあかんみたいや」

「あたしにはきっと、できひんことなんやろうね」と真澄は小さく頷いた。 「あたしは──勝ちゃんに守ってもらいたいとばっかり思てたもの」

「俺はそんな大きい男やないよ」

「ううん、あたしにとっては大きい人やわ。今まで会うた人の中で一番」

「違うって」

 鍋島は搾り出すように言うと、もうこれ以上は困らせないで欲しいとばかりに顔を歪ませて俯いた。

「それは──真澄の過大評価や」

 その様子を見た真澄は、さっきから自分の言った言葉がただ彼を困らせるだけの結果にしかなっていないことに気づいた。

 さほど大意のあることとは思っていない発言でも、自分が言うとすべて彼には重くのしかかるのだ。

 そう、自分はいつも彼を追い込んでいるだけだった。誰にも負けやしないとの自信があった彼への想いだが、もしかするとそれさえも彼には重荷になっているのだろう。

 そうと分かれば、もう諦めるしかなかった。

「勝ちゃん。よう分かったわ」

「え……」

「よう分かったから。ちゃんと答えてくれてありがとう」

「待たせるだけ待たせといて、悪いと思ってるよ」

 真澄は何も言わずに首を振った。俯いて顔を上げようとしない鍋島の姿に、本当に自分では駄目なのだということを思い知らされているようだった。

「──ねえ、一つ頼んでいい?」

 諦めついでに、真澄には確かめたいことがあった。ものすごく勇気の要ることだったが、どうしてもはっきりさせておきたかった。そうすることで自分に引導を渡すと同時に、彼にその本心を気付かせるためでもあった。

 大きく息を吸い込んで、真澄は言った。

「……最初で最後、一回だけ。ここであたしに、キスしてくれる?」

「えっ……」

「そしたらあたし、きっぱり諦めがつくと思うの」

 心臓が今にも飛び出そうな鼓動を打つなか、真澄はそれを悟られないようにあえて挑発的とも言える態度で鍋島を見た。

「できる?」

「それは──」

 鍋島は両手をスーツのポケットに突っ込んで視線を逸らせた。

 彼のその様子で自分の考えに確信を得た真澄は、それが自分へのとどめのセリフとなることを覚悟しつつ、言った。

「麗子でしょ」

「えっ?」

「勝ちゃん今、麗子のこと考えたでしょ」

「いや──」

「そうでしょ?」

 真澄はじっと鍋島を見据えた。もう嘘は通らないのよという厳しさ、それと同時に、隠す必要もないのよという暖かささえこもった眼差しだった。

 鍋島は項垂れるようにして頷くと、消え入りそうな声で言った。

「……ごめん」

「ええの」

 分かっていたものの、やはり辛かった。そしてその辛さは隠せなかったが、どうにか笑みだと分かる表情を作り、言った。

「麗子やったらええの」

「アホなやつやと思うやろ。今頃気がつくやなんて」

「あたしは気がついてたわ。それでも──考えへんようにしてた」

「……そうか」

「麗子やったら、本当の自分が出せるんやね」

「うん……たぶんな」

「そりゃそうよね。あたしったら、バカみたい。勝ちゃんと麗子が今までどんな風につき合ってきたか、そばで見ててよう分かってたはずやのに。勝ちゃんのこと好きになったりして」

「いや、そんな──」

 だからこそ彼を好きになったのだ。美しくて知性に溢れ、いつも周囲の羨望の眼差しを一身に集めてきた麗子を、真澄にはとうてい太刀打ちできないと思っていた麗子を、彼はまるで悪い男友達の一人のようにしか扱わなかった。 それでいながら、二人はあくまで堅い友情を育て続けることにこだわっているようにも見えた。だから真澄は彼に対して強い想いを抱いたのだ。

 彼なら、自分の良さを分かってくれるかも知れない。そして麗子より自分を選んでくれるかも知れない。そう思ったのだ。

 女の意地の悪い僻み根性から生まれた不純な恋心だと言われるかも知れない。しかし今は違う。今ではもう彼しか見えなかった。他を見たいとも思わなくなっていたのだ。

 だがそれももう、今夜までにしなければならない。

「──ねえ勝ちゃん、今から麗子のとこへ行って」

「え、でも」

「あたしはええから。一人で帰れるわ」

「いや、そんなわけには行かへんよ」と鍋島は首を振った。「家まで送るから」

「ここ、神戸よ。ここから麗子の家まですぐやない。勝ちゃん、気持ち、麗子に伝えて」

「そんなこと、今できるわけがないやないか」

 鍋島は一歩前に出て真澄に近づいた。

「じゃあ、何話すの?」と真澄は顔を強張らせて一歩退いた。

「えっ?」

「電車の中で、あたしらどんな話しながら京都まで行くの?」

「真澄……」

「ええから。ね?」

 鍋島はもう何も言うことができなかった。

「じゃあね。今日は楽しかったわ。ほんまにありがとう」

 真澄は精一杯笑って言うと、ゆっくりと背を向けた。

「悪い……」

 鍋島は下を向いて額に手をやり、もう一度言った。

 真澄は何も言わずに歩き始めた。どういうわけか涙は出てこなかった。

 しかしそのうち、ずっと後ろで鍋島の足音が遠ざかり始めたのを耳にするなり、彼女の瞳はみるみる潤んできた。

「──冗談やない。また麗子に持って行かれてしもたなんて──」

 上を向き、濡れた夜空を見上げた。ライト・アップされて赤く浮かび上がったポートタワーが歪んで見えた。

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