「──あれ、確かおまえの相方やったな」

 芹沢が出ていったあと、ベッドのそばにやってきた萩原が親指で後ろのドアを指して言った。

「ああ」

「あんなんと一緒やと、おまえもしんどいのと違うか」

 鍋島には萩原の言う意味が分かっていたが、黙って肩をすくめただけだった。萩原の目には、芹沢がその容姿のせいで軽薄な軟派男に映っているのだ。

「それはそうと、ひどい目に遭ったわね、あんた」

 麗子が話題を変えて言った。そしてはいこれ、と手提げの紙袋を鍋島に差し出した。

 中には二人からの見舞いの品が入っていた。麗子は肩の凝らない時代小説などの単行本と雑誌を数冊ずつ、萩原は五枚の音楽CDを見繕ってくれていた。

 二人は鍋島に容態をたずね、そしてその大怪我を負ったときの様子を訊いてきた。鍋島はあまり多くを語らなかったが、それは彼が途中で意識を失ってしまったせいだと知ると二人は本気で身の凍る思いがした。

 これまでにも何度となく鍋島が仕事絡みで怪我を負った話を聞かされてきたが、いずれも命に関わるようなものではなく、たいしたことがなくて良かった、それにしても警察官というのは大変な職業だと、最後は笑って彼の奮闘をたたえることで済ませられていた。しかし今回はまるで笑えなかった。すべてが済んだあとで聞かされているのに、こうして生きた鍋島に会うことができて本当に良かったと、麗子は本気で自分の心臓が震えている錯覚すら感じた。


 やがて、今度は萩原が今自分の抱えている問題に関して話し出した。

 別れた妻の智子が再婚をするらしいこと、そのために彼女が引き取って育てている二人の間の子供である美雪がもう父親には会えないのではないかと小さな胸を痛めているということ、そして自分はそれに対してある決心をしたことなどを、かなり思い詰めた様子で鍋島と麗子に打ち明けた。

「──おまえ、本気で美雪ちゃんを引き取るつもりなんか」

 鍋島が溜め息混じりで言った。

「そのつもりや」

「けど智子が簡単には承知せえへんやろ」

「ああ。絶対に嫌やて言うてる。それどころか、もう美雪を俺に会わせるのもやめるって」

「それはちょっと行き過ぎね。離婚のときの約束だったんでしょ。月に一度は逢わせてくれるっていうのは」

 出窓にもたれかかっていた麗子が口を挟んだ。

「ああ。まあその話はいずれ思い直すにしても、肝心の問題の方は手こずりそうなんや」

 萩原は言うと麗子に向き直った。「なあ、親権裁判になったら、やっぱり俺は不利かな」

「ちょっと待ってよ。豊、あんた本気なの?」と麗子は驚いた。

「俺が美雪を引き取ったらあかんとでも言うんか?」

「違うわよ、そうじゃなくて──本気で裁判なんかやっちゃうのかってことよ」

「場合によってはな」

 麗子は鍋島を見た。鍋島は溜め息をついて小さく首を振った。

「──多くの場合、子供の親権は母親に認められる傾向にあるわ。そりゃあケース・バイ・ケースで、全部がそうだってわけじゃないけど。母親に生活能力がなかったり、仕事を持っててもちゃんと面倒が見られなかったり、あるいは新しい家庭を築いててその子供が著しく居辛い状況に陥るおそれがあったりして、しかもそのいずれの点でも父親の方が好条件であるとみなされる場合なんかには、父親側に親権が認められたりするわね」

 麗子は淡々と話した。「もちろん、子供の意思も尊重されるわよ。でも、子供の年齢が低ければ低いほど、結局は母親が育てる方がいいってことになるのよ」

「小さいうちは母親が必要やからな」鍋島がぽつりと言った。

「裁判所もそこを重視するのよ。離婚していない家庭でも、父親は仕事に縛りつけられてて、子供との接触時間は母親の何十分の一しかないでしょ。父親が子供のためにしてやれることと言ったら、一生懸命お金を稼いでくることぐらい。ちょうど、今の豊と大差ないわ。それでもたいていの子供は育つのね、とりあえずは」

「智子も、経済的な理由から再婚を決心したのかも知れんな」

「それだけじゃないにしても、再婚はいろんな意味においていい解決策になると思うわ。経済的に楽になって、豊の養育費に頼らなくて済む。育児の点でも智子ちゃんが美雪ちゃんと一緒にいてあげられる時間が増える。そして何より、両親が揃ってるってことよ。美雪ちゃんのこれからのことを考えると、むしろこのことが一番意味のあることかも知れないわよ」

「でも、美雪は俺の方がええって言うてるんや」

 萩原は子供の言い訳のような言い方をした。

「その点では、再婚相手に勝ち目はないわね」と麗子は微笑んだ。

「いや、逆に美雪がそんなこと言うてへんかったら、俺もあっさり諦めてたかも知れん。けど美雪がこれから新しい父親になつかれへんまま暮らしていくのかと思うと、あの子が不憫で──そのうち次の子供もできるやろうし」

「萩原、ほんまにそれだけか?」鍋島が訊いた。

「え?」

「おまえ、美雪ちゃんにおまえ以外の男をパパって呼ばせとうないのと違うか」

「それは──」と萩原は口ごもった。「それもあるかも知れん」

「そういう気持ち、あって当然やろ。けど、今一番に考えてやらんとあかんのは、今さっき麗子も言うたように、美雪ちゃんのこれからのことや」

「俺は何も──」

「やっぱり、両親が揃ってるってのは大事なことや。自分の話になるけど、俺はガキの頃に母親を亡くしてるやろ。ガキて言うても中坊やったし、それほど母親が恋しい年頃でもなかったけど、うちのおふくろの場合はその前の入院期間も長かったから、俺はもう十歳くらいからおふくろとは離れて生活してたんや。その頃、よう思たよ。おふくろがいてくれたらなって。俺でさえそうやったのに、四つ下の純子なんかまだまだ母親が必要やったと思う」

「勝也……」

 麗子は困ったように呟いた。彼女はさっき、萩原の問い掛けに答えるつもりで、子供にとって両親が揃っていることがいかに意味のあることかについて発言したが、そのことが鍋島の心を多少なりとも痛める結果となっていたことに、迂闊にも麗子は気づかなかったのだ。九年も彼の親友をやっていながら、何ということだと彼女は内心で激しく自分を責めた。

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