Ⅲ
1
広い八帖間の和室には上座に床の間があり、手前に炉が切ってあった。
すっきりと髪を結い上げ、落ち着いた柄の着物を着た真澄は、タオルを使って湯気の上がっている茶釜の蓋を開け、中を覗いて蓋を開けたままにした。そして残った和菓子の入った菓子椀を持つと、立ち上がって部屋を出た。
「真澄」
ダイニングで菓子椀を洗っていた真澄に、リビングの戸口に立った母親が声をかけた。真澄と同じくらいの背格好で、物静かな感じの女性だった。
「何?」
「生徒さん、帰られた?」
「うん、今さっき」
「ほなちょっと来なさい。お父さんが話があるって」
「はい……」
真澄は菓子椀を食卓に置いた。
リビングはL字型になっていて、それによって出来る内側のスペースに父親の書斎があった。真澄はそのドアを開けると、中にいた父親の顔をじっと見た。
「そこに座りなさい」
重厚なデスクの前に座っている父親が、サイドテーブルの前のソファを指して言った。白髪混じりの髪に銀縁の眼鏡を掛けた、見るからに温厚そうな紳士という風貌だった。
「何? あらたまって」
真澄は着物の裾を合わせて浅く腰掛けた。そこへ、トレイに三人分のお茶を乗せて母親が入ってきた。
「真澄はお父さんの友人の
「うん。
「そうや。実はその和田先生の甥御さんが、今年二十八歳でお父上の会社を継がれてね。そろそろお嫁さんを、ということで、先生を通じて私のところにお見合いの話を頼んでこられたんや」
「それで?」
薄々話の見当がついた真澄だったが、わざととぼけて訊いた。
「真澄とお見合いを、と言うて来られたんやが……」
「京大の経済学部を出られててね。しばらくは商社にお勤めやったんやけど、今年の春ロンドンから帰ってこられた機会に退社されて、家業を継がれたそうよ」
母親が嬉しそうに言った。
「ふうん」
「家業というのは、輸入家具や雑貨を扱ってる会社らしいよ。けど代々社長は早めに引退するらしくてね。お父上も五十五できっちり彼に後を譲られて、彼は三代目やそうや」
「写真は?」
「ああ、そうやな、忘れてた」
父親は頷き、デスクの上の封筒を取ってテーブルに置いた。
真澄はそれを取り、中に入っていた釣書とスナップ写真を出した。
釣書には目もくれず、写真を眺めた。
写真には、体格の良い、人の良さそうな男性が、白いポロシャツに焦げ茶のツイードジャケットを羽織り、ゴルフパンツをはいて立っていた。
「ちょっと肥えてはるみたい」
「柔道をやってはるそうよ。四段やて」母親がにこにこと答えた。
「どうや真澄。お見合いしてみるか?」
「う……ん」
真澄は考え込むように俯いていたが、父親をちらりと見ると言った。
「どうしてもあたしと、と言うてはるの?」
「いや、本人はどうか知らんが、ご両親と和田先生がね」
「そうか。周りの人から言われたら、お父さんも嫌とは言われへんってとこやね」
「まあ、な」と父親は頷いた。「けど真澄ももう二十五やろ。いつまでもここでお茶やお華を教え続けるというわけにもいくまい?」
「あたし、結婚してもやめへんわ」
「それは構わんが、結婚はせんわけにはいかん。それとも真澄は今、つき合ってる人でもいてるんか?」
真澄は黙り込んだ。
「真澄?」と母親が娘の顔を覗き込んだ。
「あ、はい」
「このお話はあんたも言うたように、和田先生が甥御さんのために直接お父さんに頼んでこられたお話よ。そやからあんまり無下には断れへん反面、ええ加減な気持ちでお受けしても失礼になるの。会ってどうしても気に入らへんかったならお断りしても仕方がないけど、心の中に別の人がいる状態でお見合いするのは、お母さんとしてもちょっと勧められへんわ。黙ってればええっていうのとは違うからね。誠意の問題やから」
「……分かってる」
「そやから真澄、すぐに断るようなことはせんと、しばらく考えて正直な返事をちょうだい。いいお話やから、もし真澄に特別な人がいてないのやったら、お母さんは是非ともこのお話を進めたいと思てるの」
「返事はいつまで?」
「そやな……来月の一週目に医師会で和田先生に会うから、そのときには返事しようと思ってるんやが」
父親はデスクのカレンダーを見ながら言った。
「分かりました」
真澄は答えると、釣書と写真の入った封筒を持って書斎を出た。
そして稽古場へと続く廊下を歩きながら、まさに今日麗子から聞いたばかりの、鍋島の失恋話を思い出していた。
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