杉原信一巡査部長がその橋脚の陰に倒れていたという鉾流橋は、西天満署とは通り一本隔てた真向かいにある。京都方面から大阪湾に流れる淀川よどがわが東淀川区の柴島くにじま浄水場の手前で二手に分かれ、支流となった川は大川おおかわと名前を変えて南へ向かう。大川はしばらく行くと今度は大きく西に進路を変え、中之島を挟んで北の堂島川と南の土佐堀川に別れる。そして再び合流したときは安治川あじがわと名乗って大阪湾に流れ込むのだが、大阪市街の北の中心を横切るこの河には、従って多くの橋が架かる。鉾流橋もその一つだが、中之島を越えたあとに四つ橋筋や御堂筋などの大きな通りに繋がる他の中心的な橋とは違って比較的小ぶりで、交通量も少ない。天満側から中之島に渡った周辺は中央公会堂と市立東洋陶磁美術館が静かに佇み、緑も多く、都会の喧噪の中にぽっかりと出来た静寂と憩いの場であると言っていいだろう。


 そのせいなのか、杉原はどうやら長い間そこに横たわっていても誰にも気づかれなかったらしい。

 橋を中心として対岸も含めた堂島川周辺の目撃者探しは、地域課からの応援を得て大量の人員をつぎ込んだ割には成果は得られなかった。

 当然、捜査範囲は広がる。杉原は傷を負った際にどこかの地点から何らかの理由で河に身を投じ(あるいは投げ込まれ)、そして鉾流橋付近の川岸に流れ着いたのだろうという推察から、それは河上へと伸びた。時間はおそらく深夜。人数は──杉原も含めておそらく三人以上。怪我の状態がリンチによるものと言って良かったし、たいていの場合、からだ。


 そしてようやく、有力と思われる情報が寄せられた。

 それは、大川が堂島川と土佐堀川に別れるあたりで目撃されていた。

 天満橋─天神橋間の北岸にある南天満公園の一角で、昨夜の十時半頃、一人の中年男が男たちに「フクロにされて」いたというのだ。

 目撃者は二人の高校生だった。彼らはその様子を二十メートルほど離れた場所に建つ歌碑の陰から見ていたらしい。

 最初はただのオヤジ狩りだと思い、面白がって高見の見物をしていたが、およそ三十分ほど掛けていたぶられ、ぼろ雑巾のようになった中年男が最後には河に投げ込まれたのを見ていよいよ怖くなり、男たちに見つからないように逃げ出したのだった。

 そして今朝、登校してきた二人はお互いの顔を見るとおのずとあの落とされた男のことが気になり始め、二時限目が終わると学校を抜け出して現場に戻ってきたのだ。


「──そんな時間に、何しにあんなとこにいてたんや?」

 天神橋の西詰にある交番で、鍋島は金髪の少年・本山茂樹もとやましげきに訊いた。皮肉にも南天満公園はこの交番と天満橋東詰の交番──もちろん両方とも西天満署の管轄だ──に挟まれている。

「なにしにっ……て……」

 茂樹は口ごもり、隣の岡部美弥おかべみやをちらりと見た。美弥はずっと俯いたままで、長い茶髪に顔が隠れている。

「んなこと訊いてやんなよ」と芹沢が面倒臭そうに言った。「十六歳のカップルだぜ。決まってんじゃねえか」

「あ」

 鍋島は決まりが悪そうに鼻の頭を掻いて二人から視線を逸らした。そりゃそうだ。十六歳なら、しか考えない。

「ホテルに行く金がなかったんだよな」

 芹沢が言うと茂樹は首を突き出すようにして頷いた。美弥が顔を上げて、芹沢はにこっと笑いかけた。

 美弥は本当はこの刑事みたいな男とホテルに行きたいのにと思った。

 さっき、交番に入ってきたこの刑事を見た途端、美弥は茂樹が嫌になった。茂樹は子供すぎる。あたしといるときはエッチのことしか考えてないし、ゲームばっかりやってバイトもよくサボるからいつもお金ないし、テストも全部赤点だし、B組の慎司しんじたちには頭あがらないし、ほんとに頭悪いなと思う。そんな男となんでつき合ってんのか分からなくなって、あたしまでカッコ悪く思えてきて、だからずっと下を向いていたのだ。

「──で、その、フクロにされてたっていう男性やけど」

 鍋島はGジャンのポケットから杉原巡査部長の写真を取り出して二人に示した。

「この人やった?」

 茂樹は写真を覗き込んだ。美弥はちらりと上目遣いで見ただけだった。

「どぉ……かなぁ……似てるような気もするけど、違うような気もする。暗かったし」

 茂樹は目を細め、首を傾げながら言った。ゲームのやりすぎで視力がかなり悪いのだ。

「全然違うと思うけど。だってそれ、お巡りの制服着てるもん」

 美弥は素っ気なく言って、髪を指に巻きつけた。

「顔や、顔。顔だけ見たらええんや」

 二人の後ろから制服警官がイライラしたように言った。公園内をうろつきながら時折川岸に近づいて川底を覗き込んでいた二人を見つけ、交番まで連れてきたのが彼だ。報告を受けた捜査チームから鍋島と芹沢が差し向けられたのだが、どうやら彼は刑事たちが到着するまでの間、この二人にかなり手を焼いていたようだ。

「暗かったし分からへんって言うてるやん、分からんかぁ?」

 美弥は怒ったように言って制服警官をじろりと見上げると、ふんと鼻を鳴らして背を向けた。このお巡りとなんか喋りたくない。あたしはこっちの刑事と喋りたいの。警察は親や先生たちと同じくらいキライだけど、この刑事なら全然オッケー。

「この──」

 制服警官はカッと顔を赤くして美弥の肩を後ろから掴み、自分の方を向かせようとした。

「痛い! やめてよ──」

「あ、まぁま」と芹沢が制服警官を制した。美弥を見て、「急に掴まれたら、びっくりだよなぁ?」と微笑んだ。

 美弥は嬉しそうにこくんと頷くと、たちまちあどけない少女の表情を浮かべた。

 それからちょっと物欲しそうな上目遣いで芹沢を見つめ、鼻に掛かった猫撫で声で訊いた。

「ゆうべの男の人、警官なん?」

「その人がこの写真の男の人だとしたらね。そこを君たちに訊いてるんだ」

 芹沢は優しい口調で言い、そばのデスクに頬杖をついた。

 鍋島はポケットから煙草とライターを取り出すと、デスクの隅っこに寄せてあった灰皿を自分の前に引き寄せ、少しだけ椅子を後ろに引いて子供たちから距離を置いて煙草に火を点けた。少女の相手をすっかり芹沢に任せることにしたのだ。

「違うと思うわ」

 美弥は言った。

「でも、暗くて分からなかったんだろ。はっきりと顔を見たの?」

「見てない」

「じゃあどうして、この男の人じゃないって思う?」

「だって昨日の男の人、すごい勢いで転げ回りながら逃げてきたもの」

「どっちの方向から?」

「天神橋の方から」

 ここで茂樹が答えた。美弥が芹沢に対してを作っているのが気に入らないらしい。至極当然の感情だ。だが美弥は迷惑そうだった。

「はじめはオヤジ狩りやと思たけど、よう見たらホームレスのおっちゃんがいたぶられてるんやなって思い直したぐらい、服とかもボロボロやったし。誰が見てもお巡りやなかった……なぁ?」

 茂樹は言って美弥に同意を求めた。美弥はプンとふくれっ面で髪をいじっていたが、やがて何かを諦めたように顔を上げ、そして言った。

「そう。あたしの知ってるお巡り──警察官はもっと偉そうやもん。あたしらが遊んでたら『早よ帰れ』とか『学校どこや』とか、しつこう言うてくるくせに。そんなおまわ──警察官が逃げる? ガタガタ因縁つけてくるヤツには、拳銃ぶっ放してやればええんやわ。それで相手が死んだかて、罪にはならへんのとちゃうの」

 芹沢は点になった目で美弥を眺めながら、口の端だけで笑った。

 鍋島は咥え煙草のまま目を細め、笑いをこらえるために下を向いた。

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