病院に着くと、三人はロビーで待っていた少年課の大谷おおたにじゅん刑事に案内されて杉原の収容されている救急病棟へと向かった。

 秋田が奈津代を連れてICUの前にいた看護師に声をかけるのを見届けて、鍋島は大谷とともに一般病室の並ぶ廊下に戻ってきた。


「どうなんですか。助かるんですか」

 鍋島は大谷に訊いた。

「何とも言えん。会議で怪我の具合は聞いたやろ。課長、何て言うとった?」

「──首まで棺桶に入ってるって」

「正しい表現やな。誇張でも何でもない」

「警官襲撃とはせんといてくれって、杉原さんが言うたそうですね」

「殺生なこと言わはるで、あの人も」

 大谷は苦笑した。今にも泣き出しそうだった。

「でも、杉原さんが私的な理由であそこまでやられたとは考えにくいでしょう。相手は刑事としての杉原さんを襲ったんやと思いますけど」

「あたりまえやがな」と大谷は鍋島を見た。「ただな。刑事としてだろうが杉原信一個人としてだろうが、あの人はそう易々と人に恨みなんか買う安っぽい男とちゃうで」

「分かってます。さっき奥さんに聞いたけど、非番のときでも子供らのことを心配して訪ねてまわってたって」

「せやろ」

「ただ、中には杉原さんの気持ちが通じひん子供もいてるんやないですか。大人が──とりわけ警察官が、それだけ自分に親身になってくれるってことがどうしても信じられへん子供はいますよ。せやから杉原さんも気に掛けてたんでしょう。でも相手がそれを疎ましく思うことかてあると思います。あの年頃の子供って、極端な話、自分以外の人間はみんな敵やと思ってんのかってぐらいとんがってるもんなんでしょう」

「よう分かってるみたいやな。身に覚えがあるか」

「別に。俺の場合は母親が死んで、余裕がなかったから」

「親父さんは警官やしな。グレとうてもグレられへんかったってわけか」

「……最悪や」と鍋島は舌打ちした。

「そうクサるな。まっとうに来れたってことはええことやで」

 大谷は一瞬だけ笑顔になったが、すぐにまた深刻な真顔に戻った。

「ただ、今回の犯人が子供やと決められるもんでもないがな」

「杉原さん、西天満署うちの前は確か──」

茨木いばらきで地域課や。駅前の交番にいた。けど、もう六年も前の話や。そのときの因縁が今になってこんな事件を引き起こしたとは考えにくいのとちゃうか」

 大谷は首を捻った。鍋島も溜め息をついて頷いた。


 二人は廊下の天井からぶら下がる案内表示に従い、喫煙所に向かって歩き始めた。廊下を突き当たり、左に曲がってすぐのエレベーターホールの隅っこにあるそれは、病院という場所柄のせいか、いかにも「遠慮しろ」という感じの狭苦しさだった。

 しかしその前まで来たところで、二人は愕然とした。

 ドアには『使用禁止』の貼り紙があったからだ。

 二人は黙って引き返した。

「せや、相方が来てたで」

「芹沢が?」

「さっきまでICUの前にいたんやけど……どっか行ったか」

 二人は周囲を見回した。

「帰ったんかな」

「なあ鍋島。あいつには気ィつけとけよ」

 大谷は鍋島を見下ろす目を細めて言った。

「杉原さんの復讐にトチ狂うってことですか」

「ないとは言い切れへんやろ。主任とは仲が良かったんやし」

 そう言うと大谷は微かに首を振った。「いや、やっぱりあいつに限ってはそれはないのかも知れんな」

 鍋島は少し怪訝そうに大谷を見上げた。「何でそう思います?」

 鍋島のこの問い掛けが、ただの相槌がわりに出たものではないことを、大谷は瞬時に見抜いたようだった。

「人当たりの良い、けどちょっと生意気な女好きのあんちゃん。腹立つほどええ男で、せやから何をしてもサマになって、しかもさほど嫌味にもならん。それが芹沢やろ」

「まあね」

「けどほんまのとこ、それはあいつのうわべだけ、薄っぺらな表面の皮一枚に過ぎひん。せやないか?」

 大谷はじっと鍋島を見つめた。「みんなもう分かってる」

「まあ、確かにそんな爽やかな奴ではないですけどね」

 と鍋島は軽く笑った。

「語弊があるのを承知であえて言うが──あいつの精神というか、内面には大事な感情が一つ抜け落ちてるような気がしてならん」

「感情が一つ?」

「ああ、一つ」

「何ですか、その一つって」

「愛情や」

「愛情ね」鍋島は下を向いた。

「せや。異性に対する恋愛感情に限ってのことやないで。自分以外のものに対するすべての愛情──ひょっとすると、自分に対する愛情すら忘れてしまってるような絶望的な痛々しさを、俺はときどきあいつに感じるんや」

 鍋島は黙っていた。大谷の言うことは間違ってはいない。人当たりの良いスマートな好青年、それは確かに芹沢の一つの顔だが、厳密に言うと昔の名残のようなものだった。過去にそんな人格だった頃もあったから、今でもそう振る舞える。そういうことだ。

 そして、芹沢の精神から欠落したらしきその愛情とやらの行き先も鍋島は知っていた。──天国だ。


 そのとき、電話の呼び出し音が鳴った。大谷が上着をめくって内ポケットの携帯電話を取り出した。

「──はい、ええ、はい、ちょうどここに」

 大谷は鍋島に振り返った。「植田課長からや」

 鍋島は大谷が差し出した電話を受け取った。西天満署でも今や刑事のほぼ全員が携帯電話を使用しているが、鍋島は持っていなかった。

 仕事でも私用でも、本来電話連絡に関してはことのほか不精者の彼にとって、携帯電話など無用の長物だと思っていたからだ。自宅にも刑事部屋にも電話はあるし、少なくなってきたとはいえ街には公衆電話だってある。仕事中なら芹沢の携帯もある。ただし、あいつの場合はやたら女から掛かってくる電話が多く、そのせいかよく電源を切っているが。それでもどうしても連絡が必要なときには、こうやって今みたいに何とかなるものだ。

「俺です」

 そう言ったあと鍋島はしばらく黙って上司の用件を聞いていた。それが終わると、相手に「はい」とだけ言って隣の大谷に電話を返した。そして大谷がその電話で話し始めたのをきっかけにその場を離れた。芹沢を捜すためだった。

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