署長室に着き、すぐにその隣にある、日頃は幹部連中が会議に使う部屋に通された鍋島は、刑事課で感じたあの張り詰めた空気をさらに研ぎ澄ませた、一瞬にして息苦しさのあまり目眩がするような緊迫感に迎えられた。

「──あの、おはようございます」

 鍋島は言って鶴が首を突き出すような会釈をした。

 そうしながら部屋の顔ぶれを確かめたのだ。署長、副署長、刑事官といった上層部の他は、すべて刑事課と少年課の面々のようだった。

「うむ」

 署長たちと同じ並びにいた植田課長が言った。呻いているような声だった。

 鍋島はすぐ前の席に着いた。そして改めてメンバーの一人一人を確認した。刑事課からは植田課長以下高野、安田やすだはやし麻生あそうの係長四名と、湊、近藤こんどう桐山きりやまの主任三名の計八名が顔を揃えており、九人目となる鍋島は初めてのヒラ刑事だ。

 少年課はもう少し数が多く、城戸課長と二人の係長、三人の主任、他にも四人の刑事がいた。


 生島修が何かやらかしたかな、と鍋島は思った。

 しかし、だとすれば刑事課の連中がこんなにも多いのが解せなかった。一係から四係まで、すべての班から均等に捜査員が出て来ている。暴力団担当の四係もさることながら、経済犯罪が中心の二係などは昨日の一件とはほとんど接点はないはずだ。

 やっぱり、ただごとではないんだなと思いながら席に着いた。すると絶妙のタイミングで目の前にコーヒーが出てきた。

「あ──どうも」

 しなやかなその手の持ち主は、署長室付きの総務課の婦人警官だった。そこからイメージされるいわゆる『お茶くみ』的な存在ではなく──第一、お茶くみ係を雇うような予算は府警のどこをひっくり返したって出てこない──署長の対外的スケジュールの管理・調整から、来訪者の応対、会議の準備等、要するに署長の秘書のような仕事をすべて一人でこなしていた。署内でも一、二を争う美人で、三十歳、階級は鍋島と同じ巡査部長だ。

 婦警は「おはよう」と小声で言った。

 高級品でこそなかったが、ちゃんとソーサー付きのカップに角砂糖とフレッシュが添えてある。一見して刑事課のそれとは違うと分かる、本格的な淹れ方のものだ。

 艶のあるダークブラウンの液体から立ちこめる薫りの良さに、幹部たちの会議はいつもこんな風なのかと鍋島がちょっと浮ついた気分になりかけたとき、小牧富雄こまきとみお刑事官が口を開いた。

「──今朝、つい二時間ほど前や。前の鉾流ほこながれ橋のたもとで、全身ずぶ濡れで瀕死の重傷を負った男が倒れてるのを、ジョギング中の男性が発見した。そこですぐ向かいのうちの署に直接駆け込んできた。うちから二人が同行して現場に駆け付けてみたら、倒れてる男は──少年課の杉原巡査部長やったんや」

「は」

 鍋島はまさに、目を丸くして城戸課長を見た。そこで城戸が話を引き継いだ。

「杉原はどうもゆうべのうちに河に落ちたみたいで、どっかから流されてあの場所まで辿り着いたらしい。それで何とか自力で岸まで上がってきたものの、それ以上の余力は残ってへんかったんやな。発見されたときはほとんど意識を失っとったが、巡査に声を掛けられると少しだけ意識が戻ってな。相手が同僚やと分かると、署に連れていってくれと、とにかくそれだけを繰り返し言うたそうや」

 城戸は苦渋に満ちた表情で説明した。「しかし、動かすと危険やと判断した巡査は自分で署に戻って連絡した。うちと刑事課から数名が駆けつけたとき、杉原はほとんど虫の息やった」

 鍋島はまだ驚きを隠せないまま、呆然と話を聞いていた。部屋には城戸の声だけが響き、誰もが俯いていた。

「……まさか、亡くなったんやないでしょうね」

 鍋島はようやく言った。

「死んでない。死んでないが、首まで棺桶に入ってる状態や。一緒に救急車に乗っていったうちの主任からついさっき連絡が入った。脳挫傷、肋骨が二本、鎖骨が一本、右薬指と親指の計六ヶ所の骨折。顔やら背中にも傷があってそれほど深くはないが、何しろ河に浮いとったんやからな。ボンボンに腫れてエゲツないことになっとる」

「……誰にやられたっていうんですか、杉原さんは」

 鍋島は怒ったように言った。「酔っ払って河に落ちたとかじゃないんでしょ」

「河に落ちたぐらいで出来る怪我やない。もちろん、自殺でもない。あそこまで自分で自分を傷つけるなんて不可能や」

 それまで黙っていた少年課の本間ほんま係長が吐き捨てるように言った。現場に駆けつけ、実際に杉原の様子を見たのだろう。

「鍋島くん、きみはこれから杉原巡査部長の自宅に行く秋田あきた係長に同行してくれ。奥さんに連絡せんとあかん」

 と、ここで植田課長が言った。幹部の面々を前にしているせいか、少し改まった言い方だった。

「え、まだ知らせてないんですか」

「さっきからずっと電話を入れてるんやが、誰も出んのや。ひょっとして奥さんの身にも何かあったのかも知れんし、そうなると一刻を争う」

「分かりました」

 鍋島は少し離れたところに着席している少年課の秋田操子みさこ係長を見た。頷いた秋田係長は少し不安げだったが、すぐに幹部たちに振り返ると言った。

「では行ってまいります」

 鍋島は出来ればゆっくりと味わいたかったコーヒーを半分以上残して立ち上がり、秋田に歩調を合わせながらドアに向かった。

 そして彼は部屋を出る間際に振り返ると、幹部たちの誰とはなしに問い掛けた。

「拳銃の携帯許可、出してもらえますよね」

 一瞬の沈黙があったが、署長が何も言わないのを確認した副署長が鍋島を見て頷いた。

「持って行きなさい」


 秋田係長とともに階段を三度折り返した途中で、鍋島は上ってくる芹沢に出くわした。芹沢は相棒が少年課の係長と一緒にいることに違和感を感じたらしく、下りてくる二人を怪訝そうに見上げていたが、同時に当初の鍋島と同じことを考えたらしい。彼が自分の前まで来ると囁くように訊いてきた。

「昨日のガキが何かやったか」

「違う。とにかく早よ上がれ──そんで、冷静に話聞けよ。美味いコーヒーも出るし」

「ちくしょう、もったいつけんなよ」

 芹沢は冗談ぽく言って鍋島の肩に拳を当てたが、彼の表情に事態の深刻さを見て取ったのか、それ以上は何も言わずに階段を上って行った。

「──彼、杉原さんとは親しいみたいやね」

 秋田がぽつりと言った。鍋島は頷いただけだった。


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