チェーンを掛けたままで、鍋島はゆっくりとドアを開けた。

「よっ、ごぶさた」

 右手を挙げて敬礼のポーズを取っていたのは、かなり酒に酔った様子の麗子だった。

「おまえ……」

 直前の真澄との電話のせいで、鍋島の驚きはかなりのものだった。

 ドアノブに手を掛けて赤い顔の麗子を見つめたままで、二の句が継げないでいた。頭の中が! ! ! ! と? ? ? ? で埋め尽くされた。

 ひょっとして、真澄は麗子が今夜ここへ来ることを知っていて電話してきたのか?──そんな、まさかな。

「久しぶりじゃん、キョウダイ」

 ヘラヘラした麗子が脳天気な声でそう言って、ようやく鍋島は我に返った。

 そして今ひとつまだ腑に落ちない気分のまま、一度ドアを閉めた。

「ちょっと、閉めないでよっ。ひどいじゃないのぉ」

 麗子はドアをどんどんと叩いた。「酔っ払いの女なんて友達じゃないっての? この薄情者──」

「やめろ、違うって、チェーン外して開けてやるんやから。静かにしろ」

「あ、ハーイ、分かりました。お巡りさん」

「……下戸のくせに、なんぼ飲んだんや」

 鍋島は舌打ちしてドアを開けた。すると、五秒前の威勢の良さとはうってかわり、顔面蒼白で今にも死にそうな麗子がなだれ込んできた。

「……気持ち悪い。吐きそう」

「は? おいちょっと、やめろよ。ここで吐くなよ」

「悪い、トイレ借りる──」

 そう言うが早いか、麗子は鍋島を押し退けるようにして部屋に上がった。

 ここへは何度も来て勝手をよく分かっている彼女は、両手で口許を押さえたまま一目散にトイレに駆け込んだ。鍋島は麗子が玄関に放り出した鞄を拾ってあとに続いた。

 人が──とりわけ、いい大人の女が──胃を空っぽにするために苦しみながらも愚行を繰り返す音など聞きたくもなかったので、鍋島はダイニングに入った。キッチンのカウンターに置いた煙草を取って火を点けると、開けたままにしていたドアの向こうの麗子に言った。

「なあ、真澄がなんべんもおまえに電話してたらしいぞ」

「うるさい! 今、喋れないの……うえっ──」

「……アホやな」

 しばらくするとトイレの水が流れる音がして、麗子が出てきたようだった。そのまま彼女はすぐ前の洗面所の蛇口を捻って、どうやらうがいをしている様子だった。そして鍋島が冷蔵庫からミネラルウォーターを出してグラスに注ぎ、それをカウンターに置いたのと同時に部屋に入ってきた。

「洗面所のデンタルリンス、使わせてもらった」

 麗子はまだ苦虫を噛み潰したようなしかめ面で言うと、カウンターの椅子に腰を下ろしてグラスを取り、「いただきます」と口もとに運んだ。

「ええ加減にしとけよ。独り暮らしをええことに好き放題やるのは」

 キッチンの鍋島が言った。

「久しぶりに飲んだからよ。空きっ腹だったから、思ったより廻っちゃっただけ」

「……情けない」

 鍋島は心底そう思っている様子で、腕組みをしながら苦々しく煙草の煙を吐いた。ところが麗子はまるで意に介していないとでも言いたげに肩をすくめ、そして言った。

「──さっきの話。真澄がどうしたって?」

「今日、おまえに何回も電話してたみたいやぞ」

「何でだろ」

「こっちに来てたから。何かの展示会? 展覧会? とかで」

「会ったの?」

 鍋島は首を振った。

「どうして」

「急に連絡してこられても無理や」

「つれないのね」

「お言葉ですけど、こっちかて遊んでるわけやないんです」

「少しくらいの時間ならどうにでもなるんじゃないの」

 麗子は不満げに言うとグラスの水を空けた。鍋島が「おかわりは」と訊いたが彼女は首を振ってカウンター越しにグラスを返した。

 そして鍋島がグラスを洗う様子を頬杖をついて眺めた。

「──ちょっと、ボストンに帰ってこようかと思ってる」

「向こうで何か?」

「別に何も」

「じゃ、こっちで何かあったか」鍋島は言うと顔を上げた。「やけ酒もそのせいやな」

「何もないわよ」と麗子は造り笑顔を見せた。

「嘘つけ」

 鍋島はキッチンから出るとさっきのローテーブルのところに行って電話を取った。

「タクシー呼ぶから、帰れ」

「え、何でよ。泊めてよ」麗子は驚いたように振り返った。

「……あのな。俺も一応は男や」

「大丈夫よ。あんたにそんな心配してないって」

 と麗子は笑ったが、鍋島は取り合わなかった。「あかん」

「カタいこと言いっこなし。今までだって何度も同じ部屋で雑魚寝したことあるじゃない」

「それでもダメ」

 麗子はバッグを開けた。「あ、そうだ、タクシー代がもう──」

「無かったら俺が出す」

「勝也……」

 麗子は溜め息をついた。「確かに、自分でいい加減なことやってるってことは分かってるわ。二十八の独身女が、いくら友達だからってこんな時間に酔っ払って男の部屋に押し掛けるなんて。でも正直ちょっとあんたに会いたくなったから──」

「それやったら前もって連絡して、それから来い。できたら素面しらふでな」

「──どうしたの? 何を怒ってるのよ」

「怒ってないよ。ただ嫌なだけ」

「え?」

「男と何があったか知らんけど、そのたびに俺のとこに来んなよ」

「勝也……」

 そうなんやろ? とでも言うように鍋島は咥え煙草の口もとに笑みを浮かべ、目を細めていた。

「そう言うの、いちいち黙って相手できるほど俺もお気楽な毎日を送ってるわけやない。学生の頃ならまだしも、仕事でいろいろあって疲れてるときだってあるし、一人で考えたいこともある。誰と喋るのも嫌なときかてあるんや」

「……ごめん」

「真澄はおまえと連絡が取れへんからって、俺のとこに電話して来たんや。おまえがここに来てるんやないかと思て」

「……そうなの」

「こんな時間にまさか、他にいくらでも行くとこあるやろってあいつに言うて電話切ったら、そのあとすぐにおまえが来た。偶然っていうより、ただ見透かされてるだけのことや。おまえのそういう分かり易すぎるとこがあさはかにも見えて、なんかちょっと嫌やねん」

「……そうね」

「分かったら帰れ」

 鍋島は暗記しているタクシー会社の番号を押し、耳に当てながら麗子を見た。

「気分は? もう吹っ飛んだやろ」

「みたいね。頭にもミネラル・ウォーターを浴びせられた感じ」

 麗子は諦め顔で言うとバッグを手に取った。

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